キャラとペルソナ、「本当の自分」、記憶の一貫性

「本当の自分」。この言葉を聞くたび、私は身構えてしまう。まず、話者が意図している「本当の自分」の意味はどのあたりなのか?
Mimi Haddon via Getty Images

先日、twitterをやっていたら以下のようなreplyを頂いた。

@twit_shirokuma はじめまして。現代は「本当の自分」を表現する方法がたくさんありすぎて、少しずつ使いわけをしているうちに本当の自分から遠ざかってしまっている気がしました。TwitterやFacebook、LINE等様々なツールが溢れすぎています。

-- ポンコつっ子 (@ponkotukko) 2014, 9月 30

「本当の自分」。

この言葉を聞くたび、私は身構えてしまう。まず、話者が意図している「本当の自分」の意味はどのあたりなのか?これまで出会ってきた限り、「本当の自分」という言葉には大きく分けて

1.こうでありたい自分(納得可能な自己イメージ)

2.実際こうである自分(等身大の自分自身)

のどちらかの意味が宿っていて、ときには話者自身がどちらの意味で使っているのか区別できていない事さえある。だから「本当の自分」という言葉が用いられた文章に出会ったら、どちらの意味で話者が使っているのかを真っ先に確かめたくなる。

このことを踏まえながら、冒頭文章を読み返してみる。

どう解釈しようか。一つ目の「本当の自分」には「」がついていて、後半にもう一度出てくる本当の自分には「」がついていない。意図的な区別だとしたら、両者は別の意味と取ったほうが良いだろうし、その場合、一つ目の「本当の自分」を1.のこうでありたい自分として解釈し、二つ目の本当の自分を2.の実際どおりの自分とみなしたほうが文意としてはすっきりする。これに即して書き換えてみると、

現代は「こうでありたい自分」を表現する方法がたくさんありすぎて、少しずつ使いわけをしているうちに等身大の自分から遠ざかってしまっている気がしました。TwitterやFacebook、LINE等様々なツールが溢れすぎています。

こうなる。これなら、意味がすっきりするし、実際、書いてあるとおりだとも思う。

■自己表現の手段と場が増えた時、人間は等身大の自分を見失うのか

都市化やインターネットの普及によって、自分自身を表現するための手段や場所が増えてきた。会社ではAという顔をして、趣味の集まりではBというキャラを立て、ボランティアではCというペルソナを被る――そういう社会適応がやりやすい時代になった。

もちろんこれは、"人間は場面それぞれによって、AなりBなりCなりといった表現のバリエーションを使い分けなければならなくなった"ことと表裏一体のことだ。場面ごとに態度やキャラを使い分ける自由とは、場面ごとに態度やキャラを使い分けなければならない義務でもあった。なんら修飾しないまま、等身大の自分的なものをそのまま押し通せる人は、それほど多くは無い。キャラやペルソナの使い分けは病的なものではなく、ごく一般的な現代人の処世術、適応形態と呼んで差し支え無い。

そんな社会からの要請に応じるように、「演じることに疲れた私」的な言説が登場する。インターネットやSNSが登場する以前から、「演じることに疲れた私」は多く語られてきた。「周囲から期待されている自分」を演じることに疲れて「本来こうでありたい自分」や「等身大の自分」が疎外されている、という例のパターンだ。

では、キャラやペルソナを使い分けると、どうにも疎外されるしかないのか?そうでもないと思う。疎外を強調する人は、なるほど「周囲から期待されている自分」と「本来こうでありたい自分」のギャップが大きくてフラストレーションが大きいからこそ、そのように強調するかもしれない。だが、それほど疎外を感じていない大勢においては、「周囲から期待されている自分」と「本来こうでありたい自分」には、なにかしら連続性があり、一定の妥協が成立しているようにみえる。つまり、うまくやっている大勢の場合は、「周囲から期待されている自分」と「本来こうでありたい自分」は水と油のような関係ではなく、どこかで意外と繋がっている。

でもって、もし「等身大の自分」なるものを想定するとしたら、まさにそうしたキャラやペルソナの連続性の総体を指したものなんだと私は思う。場面ごとに違った性質を帯びたキャラやペルソナのひとつひとつをニセモノの自分だと考えるのではなく、どのキャラやペルソナも自分自身の一部であり、そうした一部一部の連続性を記憶というかたちで束ね持っている主体こそが等身大の自分だと考えたほうが、事実に即している。強いられて演技しているキャラも、わざと被っているつもりのペルソナも、自分自身の記憶のもとに残り、おそらく後の自分にも影響を与え続けるという意味においては自分自身の一部だ*1。それらは「本来こうでありたい自分」ではないかもしれないが「等身大の自分」の構成素子の一部と考えなければならない。少なくとも「自分じゃない」などと言ってもはじまらない。

例えば、人格と記憶の一部を切り離し、悪を為すペルソナを「偽者の自分」などと呼ぶ行為も、記憶の連続性・記憶の同一性を保持している限りにおいて間違っている。そうやって悪を為すペルソナを「偽者の自分」と呼びながら実行している行為そのものも含めて「等身大の自分」が構成されていると考えるべきだ。

もし、こうした論法に例外があるとするなら、記憶の連続性や同一性を失って、キャラやペルソナが一個人のなかで解離を起こした状態がそれにあたる。だが一般に、症候としての解離は社会適応上の重大な障害となるため、一般社会適応を考える際には視野に入れる必要は無い。

だから、facebookやtwitterやLINEが普及しようとも、個人の活動領域が複数化しようとも、そこで営まれるひとつひとつのキャラやペルソナに記憶の連続性や同一性が保持されている限りにおいて、「等身大の自分」を見失う心配などしなくても構わないし、また、特定のキャラやペルソナだけを「等身大の自分」として特別扱いしてはいけないのだろう、と思う。浮かない顔をしている自分もまた、自分自身なのだ。偽物扱いしてはいけない。

ただし、ひとつひとつのキャラやペルソナがあまりにも異なった性質を帯びている場合――それこそジキルとハイドのような――には、統合した人格としての辻褄が合わせにくくなり、耐えられない疎外になりえるかもしれない。なので、キャラやペルソナのそれぞれに、いかにも自分ならやりそうな兆候を染み込ませておいたほうが、キャラ管理・ペルソナ管理はやりやすいんじゃないかとは思う。まあ、ごく一般的な人格においては、意図するまでもなく自分自身のテイストがキャラやペルソナに染み込んでくれるので、こういう心配をする必要は無いし、そうした、どのキャラやペルソナにも染み込んでやまない自分っぽさこそが、最大公約数的な意味において3.「本当の自分」と呼べる特徴かもしれない。いついかなる時も、自分の行いと記憶にまとわりつくもの。どんなキャラやペルソナを被っている時も一貫しているもの。隠しきれないもの。逃れることのできないもの。それこそが本当の自分と呼ぶに足る特徴ではないか。

もし、未来の人間が記憶の連続性と同一性を失っていくとしたら、こうした定義づけは無意味になるかもしれない。だが、今のところ、人間は記憶の連続性と同一性を失ってはいないし、万が一にも失った者は重大な社会不適応を呈しているので、この考え方でだいたい合っているのではないかと思う。

*1:演技とて、降り積もれば身に染み付く

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