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佐々木俊尚 Headshot

宗教法人『幸福の科学』の林洋甫さんとの公開対談について

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宗教法人『幸福の科学』の林洋甫さんと公開対談することになった。イベントの詳細はこちらにある。また当日はニコニコ動画でも生中継される。

このトークイベントについては議論が巻き起こっており、批判される方も少なからずいた。私がTwitter上で行った議論は、『佐々木俊尚さんのツイートまとめ/社会の常識が根底からひっくり返り、すべてを再定義していかなければいけない今の時代だからこそ考える、宗教の可能性についての議論』にもまとめられているので参照していただければと思う。

宗教が専門分野ではない私が『幸福の科学』との対談に臨もうと思ったきっかけは、教団のIT伝道局長である林さんから長文のメールをもらったことだった。林さんは私のメルマガの読者で、以前にあるセミナーに聴講に来ていただいたこともある。メールの内容はご本人の承諾を得て、私のメルマガで、宗教とテクノロジの交差点についての私の論考とともに全文掲載させていただいた。以下はその転載である(メルマガの元記事からは若干修正してある)。

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宗教団体「幸福の科学」の方から、メールをいただきました。これが非常に興味深い内容だったので、ご本人の許可をいただいて皆さんに紹介し、今回はこれについて論考してみたいと思います。

この前のメルマガでありました、「オウンドSNS」という考え方ですが、実は今、幸福の科学グループでも、このオウンドSNS的なものを7月オープンさせるべく開発中です。

具体的にはSNSとQAサイトを融合させたもので、選挙に向けて、若い世代の有権者の声をひろい、SNSに入った会員メンバーが一般公開されているQA上で一般向けに対して真理を回答していくというものです。宗教がなぜ政治に出るのかや、何を目指しているのか、今の参院選の争点は何なのかや、その他個人的な質問にも答えていきます。1番良い回答をベストアンサーに選んでもらい、その回答者を有権者がフォローしていく仕組みです。FacebookやTwitterとの連動性も加味しています。更に興味を持った人は、この回答者が所属しているSNS内のプロジェクトに入ってくるという動線を設計しています。

QA機能は、OKWave的なものに近いですが、SNSはどちらかというとリンクトイン的なものやCatchafireというプロジェクト呼びかけサイトの要素をもったものに近いかもしれません。

このSNS&QAサイトは参院選を意識しているので、QAの部分が中心になり、まだ多元化された次元の概念がないですが、参院選以降、リアルの精舎修行と連動させていこうと考えています。

精舎精舎は仏教理論における阿羅漢向→阿羅漢果→修行菩薩の段階的なシステムがあり、30年かけて修行に取り組むもので、全国20数カ所にある精舎での研修や祈願をかさねて受け、執着を落としていって本来の自己や使命を発見し、真なる智慧を得ていくものです。そしてその時々の気づきや悟りをWeb上で口コミとして共有します。その人の研修履歴などをもとにオススメの祈願研修をレコメンドしたりし、位置情報サービスなどとも連携して、その精舎でのタイムリーな行事や館長の説法などを通知。悟りを上げていくのは実はリアルの世界で、それをWebと連携させ、それぞれの階層化されたゾーン(意識レベルの差)で智慧を共有するのがミソです。情報の共有ではなく、智慧の共有です。また智慧のオークションなどが左右上下でできると面白いなと思っています。

私はこの構想を「次元SNS」と呼んでいて、精舎での修行を進める中でポンとひらめいたアイデアです。

サイトの名前は「REAL」です。真実に出会う場、あるいは本当の自分に出会う場としてこのように名付けました。

私は人間の本質は、その人の考え、意識、精神だと思っています。なので、ネットの世界はある意味で本質に迫っていく可能性を持っていると思っています。

過去、宗教は科学によって滅ぼされた歴史や、逆に宗教が科学を滅ぼした歴史もあります。

でも私はどちらにも真実はあり、いまこそ、宗教と科学(宗教とIT)の融合、ハイタッチとハイテクの融合がなされるべきときだと思っています。

私が将来的に構想しているものは、このSNS&QA内で大川隆法総裁の数千本ものご法話ソフトをTEDのような仕組みで多言語化し、世界的な伝道システムの構築を行うことと、更に幸福の科学の精舎で悟りを高めていくリアルの修行システムと連動させて、次元別のSNS空間をWebに作っていくことを考えています。Web上にある種の曼荼羅を作ることに似ていますが、こうすることによって、ある意味で上に行けば行くほど高付加価値の智慧が得られたり、意識の高い人たちと出会えて新しいプロジェクトが発生したりといった具合になります。

単純に民主主義的に多くの意見をWebで集めるスタイルは、私は衆愚性になると思っており、高みを作る仕組みとこの民主主義の仕組みをうまく融合させていく必要があると考えています。

私はこうした次の新しいソーシャルメディアのあり方を考えています。

佐々木さんはオウムの取材をされたことがあると思いますが、幸福の科学はオウムとは全く違います。むしろ当時マスコミがオウムを持ち上げていた時に明確にオウムの間違いと危険性を指摘していたのが幸福の科学です。

オウムのポア思想は死んだら人は解脱できるからでは私たちが皆さんをあの世に旅立たせてあげましょう、ということで行き着いた先がサリン事件だったと思いますが、釈迦が説いた本来の解脱の思想からは完全に逸脱していました。「生・老・病・死」四つの苦しみ(あるいは八苦)から逃れるために、八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)という反省法を行じて、自分の自我や心の迷いを断ち切り、本来いたあの世の天界の光としての自己を取り戻し、心を安らかにする、あるいは真なる智慧を得る、それが修行論の意味であったと思います。

現代では、様々な情報が氾濫し、様々な価値観が錯綜し、何が本当に正しいことなのかがその善悪がマスコミも国民も分からなくなっています。

今の民主主義制度が必ずも善になっていないことは明らかですし、過去、ギリシャの時代に偉人となった智者ソクラテスでさえも民主主義によって殺されました。

ソクラテスの死を見て、徳治主義的な民主主義のあり方を目指したプラトンに習い、徳あるリーダーが選ばれたり、真なる智慧が尊重される時代になっていくことを望みます。

以前、佐々木さんも週刊誌の質の問題点について言及されていたかと思いますが、ジャーナリズムのあり方も見直されるべきだと思っています。それも、私は、智慧の不足からくるものだと思います。ソクラテスやプラトンが霊魂の存在を信じて、あの世の実在界の世界を明確に意識していたように、霊的なことを信じることや、宗教、哲学の復権が私は必要だと思います。そして、戦前の日本神道的なファシズム的な狭さをもった価値観ではなく、様々な価値観を包含しつつ個人の自由が尊重される中で、個々人がバラバラにならないよう一つの共通した信仰観、価値観を持ってより良い社会を築いていこうとする国家のあり方が求められると思っています。

私は、真なる智慧は、あの世の世界から導き出されるものだと思います。

エジソンが99%の努力と1%のひらめきと言っていたように、このひらめきが宇宙や目に見えない世界からの叡智であると思います。

大川隆法総裁は年間の発刊書籍ギネス記録(年間52冊)を持っておりますが、今、累計発刊冊数は1000冊を超え、現在進行形で数多くの霊言本をものすごい速度で世に出しています。もちろんゴーストライターなどはなく、全て公開霊言で映像で出したものが、一冊一冊書籍となっています。この霊言本も、読んで頂ければ分かりますが、出てくる霊人の個性はそれぞれ違いますし、一人で演技でするのは不可能であることが分かります。ある意味での霊界インターネットで、霊界にいるあらゆる霊人の潜在意識にアクセスすることができます。これは霊界の存在証明のためと、世論啓蒙のためです。民主主義は神仏の声が聞こえない人間が、神仏の願われる国家運営をするための代替手段として生まれたものですが、あの世の神々の声がもし本当に聞こえるなら、その神仏の声のもとに国家運営をしていこうとすること自体は、むしろ歴史を紐解けば必然の流れです。霊人の意見は、幸福の科学の見解と矛盾する内容もありますし、幸福の科学にとって不利な内容のものをありますが、あえてカットせず、全て公開しています。それは信憑性を担保するためです。

様々な霊人の意見があるので、一つの価値観に集約はできませんが、これはある意味での天からの叡智だと思います。ご興味があれば。https://www.irhpress.co.jp/

6/7、インターナショナルヘラルドトリビューン紙が、大川隆法総裁が行った「マーガレットサッチャーの霊言」を好意的に取り上げました。こちらの記事の書き手はアメリカ大手オピニオン誌「The Atlantic」編集長のGraeme Wood氏です。

http://the-liberty.com/article.php?item_id=6151&utm_source=newsJpn&utm_medium=email

以前、「慰安婦の霊言」をとった時も、ネット上でTwitterなどで話題になったり、韓国のテレビで大川隆法総裁の霊言がニュースで報道されました。橋下と慰安婦との会談が取りやめになった背景では、この霊言の効果がありました。こちらはネガティブな取り上げ方でしたが。

日本では黙殺ですが、海外メディアは、「霊言」というものをニュース価値があるとして取り上げてくれています。

また、安倍総理を始め、自民党関係者、自衛隊の方々、日本の心ある識者の方々(日下公人さんや渡部昇一さんや竹村健一さんや、三橋貴明さんや、堀義人さんや、田原総一朗さん等)も大川隆法総裁の書籍を読んで下さっています。

真実が真実として扱われる時代がくることを切に願っております。

話が長くなりましたが、きっと佐々木さんなら真剣に受け止めて下さると思い、メールさせて頂きました。メルマガなどで、「宗教とメディア」「霊言」などについて取り上げて頂いても面白いかと思います。

いただいたメールは以上です。さて、私が非常に面白いと感じたのは、以下のコメント。「単純に民主主義的に多くの意見をWebで集めるスタイルは、私は衆愚性になると思っており、高みを作る仕組みとこの民主主義の仕組みをうまく融合させていく必要があると考えています」

これは一種の「レイヤー型民主主義」「レイヤー型政治」のような概念でしょうか。コメントでは、教団の階梯を上っていくごとに高い付加価値が得られるという、一種の階層モデルをイメージされているようです。一般社会ではここは上下のある階層ではなく、「社会のさまざまなレイヤーごとに」というビジョンの方が可能性があるかもしれません。

いまの政治制度の問題として、社会がこれだけ複雑化し、さまざまな問題が噴出しているのにもかかわらず、政党にすべての政策を一任するやり方はあまりにも乱暴すぎる......ということがあります。「自民党のアベノミクスは支持しているが、エネルギー政策は評価できない、またTPPもやめてほしい」といった声は少なくないでしょう。もちろん「アベノミクスは認められないが、TPPはぜひ参加して欲しい」という声もあるでしょう。

だったらさまざまな社会問題ごとに、意見表明して支持政党を変えるようにはできないだろうか?というやり方も考え得るでしょう。しかし現実には、全有権者がそれぞれの問題を真面目に考えてくれるわけもなく、社会問題のすべてについて国民投票をおこなうというのはまったく現実的ではありません。

つまりここには、当事者vs非当事者の問題が生じてきてしまいます。

たとえば、どこかの地方で、あるダムを建設するか否かという問題が生じたとします。その場合の当事者とはいったい誰でしょうか。ダム建設地域の住民が当事者であるのと同様に、本来は下流の都市住民もダムの利益を得ているという意味で当事者でしょう。しかしこうしたダム問題は、地元住民には仲違いをもたらしコミュニティを亀裂させたりと、苦しみが押しつけられる一方で、都市住民は「何となく」「気分で」建設に反対し、あるいは賛成しているのにすぎないケースが少なくありません。

かつて民主党に政権が変わった時、群馬県の八ツ場ダムが問題になったことがありました。民主党が公約通りに建設を中止しようとしたことに対し、たとえば地元のブログはこう書いたりしたのです。「民主党は今回の総選で八ツ場ダムの選挙区に候補者を立てていない! これってなんだ?本当にそれが『民意』ってやつなんだろうか」

あるいはこういう意見もありました。「その土地の住民では無いのに土地の人達の反発を中傷する人間は、『選挙で勝利した多数派である民主党の政策は、国民の選択した正義。自分達の選択は無条件に受け入れられるべきだ』と主張している事になるので、同様の理屈で『土地を奪った』人間の政策選択の分の行動の責任は、もちろん『私はずっと反対だった』と主張する人間も共同で背負う事になる」

ダム中止が民意の決定であるのなら、ダム遂行もかつての民意の決定だったということです。民意がそのように反転しているのであれば、それぞれの民意の責任をいったい誰がとるのか?という重要な問題が浮上してくるわけです。このような複雑な構図になることを考えれば、すべてのイシューについてそれぞれ国民投票、というような安易な方法がうまくいくわけではないのは明らかです。

かといってアメリカ型の「ステークホルダー(利害関係者)民主主義」もうまくいきません。非当事者を外し、利害の関係する当事者のみで議論するというやり方は一見すると良さそうに見えますが、結局は閉鎖的なサークルの中で議論が勝手に行われ、ロビイスト活動のようなものが蔓延することになってしまうからです。

この問題を解決しようとしたのが、鈴木健さんの刺激的な著書『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)で解説されている「伝播委任投票」です。これはネットワーク型の投票システムで、委任票を次々と伝播させていくという独自のシステムです。以下のインタビュー記事がわかりやすいでしょう。

死票ゼロの「伝播委任投票」が、新たな民主主義のカギに

以下、インタビュー記事から少し引用します。「『この人には0.3票、この人には0.7票を入れて、委任しましょう』と、自分が持つ1票を好きなように分割して投票することができます。そのテーマに深い見識がある人は直接、政策に投票すればいいし、そうでない人は職業政治家に限らず、詳しい人に委任すればいい」

「委任された票はさらに別の人へと伝播し、例えば、AさんがBさんに0.6票を投票して、BさんがCさんに0.2票を投じれば、AさんはCさんに0.12票を投じたことになります。このような『委任ネットワーク』が議題ごとに構成され、いつでも誰でも少しずつ代議士になることができる」

「例えば私であれば、ITには詳しいからその分野の政策なら力を尽くすけれど、安全保障はAさんが詳しいから委任する、ということができる。不満を持てばリアルタイムで委任先を変えることを可能にして、意見を集約していく。そうすると『死票』は限りなくゼロに近づきます」

鈴木健さんのこのアプローチはひとつの解として十分に可能性があると思いますが、一方で、このような委任的な仕組みにレイヤーの概念を統合できる可能性もあるのではないかと、いま考えをめぐらせたりもしています。このあたりはもう少し論考が必要なので、先の課題とさせてください。

いただいたメールでは、以下のコメントも印象に残りました。「現代では、様々な情報が氾濫し、様々な価値観が錯綜し、何が本当に正しいことなのかがその善悪がマスコミも国民も分からなくなっています。今の民主主義制度が必ずも善になっていないことは明らかですし、過去、ギリシャの時代に偉人となった智者ソクラテスでさえも民主主義によって殺されました。ソクラテスの死を見て、徳治主義的な民主主義のあり方を目指したプラトンに習い、徳あるリーダーが選ばれたり、真なる智慧が尊重される時代になっていくことを望みます」

宗教の重要性は、この不安定な時代状況の中でますます高まっているのは間違いありません。中間共同体が衰え、さらに国民国家も衰退しようとして、頼るべきよりどころがどんどん小さくなってきています。そういう状況の中ではネット右翼のようなナショナリズムが逆説的に盛りあがってしまいますが、そうした偏狭なナショナリズムが何ももたらさないのは過去の歴史を見ればわかります。かといって、一部の人たちが望んでいるような地縁・血縁の中間共同体が復古してくるというのも、現実的にはあり得ない。

こういう状況の中で、どのようにして人が社会との紐帯を維持するのかというのは非常に重要な課題になってきていると思います。シェアハウスやコーワーキングスペースなどの流行も、こうした紐帯への人々の願望が表出した結果と理解できるでしょう。

宗教も、紐帯の受け皿のひとつとして浮上してくるのは間違いありません。宗教団体の方にこの本を紹介すると怒られそうですが、社会学者の濱野智史さんが書いた『前田敦子はキリストを超えた』(ちくま新書)。

『前田敦子はキリストを超えた 〜〈宗教〉としてのAKB48』 Amazon.co.jp

タイトルが酷すぎるとかなり非難された本ですが、私はとても面白く読みました。AKB48には、宗教的なコミュニケーションシステムがあるという指摘が面白いと感じたのです。濱野さんは、AKBとファンの関係には「近接性」と「偶然性」という二つの特徴があると書いています。

近接性というのは、握手会に代表されるように「会いに行けるアイドル」をコンセプトとしているということ。現代社会では人は他者とのつながりを外され、貨幣の交換という関係だけにおとしめられて疎外されています。しかしAKBの場合、単なる貨幣交換だけでなく、そこに持続的な信頼関係が起きているというのです。

「それは見ようによっては、本当の人間と人間の関係性(たとえば「本当の恋愛」)からの『疎外』にしか見えないだろう。つまり、恋愛なら恋愛で、AKBのようなものにハマらず普通の恋愛をすればいいのに、AKBなどというものに『騙された』結果としてわざわざお金を払って関係をつくっている。それは貧しい。AKBを知らぬ者であれば、だれもがそう思うだろう」

「しかしそれは違うのだ。AKBでなければ生まれない、つながりが、絆が、関係性が、あるのだ。劇場や握手会や総選挙といった場で、日々、AKBのメンバーとファンの間では、無数の小さな関係性が生み出され続けている。たとえば数秒から数時間にすぎない関係性だとしても、それでも、顔と顔の向き合った、顔の見える、ある程度持続的な信頼関係がそこでは生まれている」

「無縁社会ということばが数年前に流行したけれども、かつては『関係性』を提供する装置であったはずの地域コミュニティも企業組織も自由恋愛も、いまや軒並み機能不全に陥っている。その機能不全を穴埋めするような形で、いま、AKBのような『関係性』そのものを商品として売るアイドルが出てきたのだ。いわば資本主義を批判するのではなくハックする形で、『疎外』を『近接』に置き換えていく宗教的装置。それがAKBなのである」

私は2年前の著作『キュレーションの時代』(ちくま新書)で、ブランド的な記号消費衰退の先に物語消費、さらには「つながり消費」のようなものが急速に台頭してきていると説明しました。つながりそのものが売買されるという意味では、AKBはまさしくつながり消費といえるでしょう。

濱野さんはAKBとファンの関係の2番目の特徴として、「偶然性」を挙げています。AKBのどのメンバーを応援するのか(推しメン、というらしいですが)ということについては、偶然性がいたずらをすると。つまり劇場で偶然、目線があってしまったメンバーにはまってしまうということがあるようなのですね。

「(AKBは)リスクにさらされた時代をどう生きるべきかについての示唆は与えてくれる。剥き出しの『偶然性』に身をさらすとはどういうことか。それは劇場におけるBINGOのような偶然性に身を委ねて、推しメンに導かれて、『誰かのために』生きることだ。それは未来を予測したり、過去を振り返るといった、普通の人間であれば当たり前に持っている『時間』の感覚を無化することである。ただ目の前にある『いま・ここ』を全力で生きるということ。これである」

そしてこの「近接性」と「偶然性」を入り口にして、ただひとりの少女を無償で「推す」という行為こそが、宗教的であるのだと濱野さんは書いています。「神が失われたこの社会において、端的に生きる意味を『近接性』と『偶然性』のもとで与えてくれるのだ」

神の存在は、西欧的近代の知性の視点から言えば、合理的ではありません。神との出会いはつねに非合理であり、偶然であるといえるでしょう。そしてそこに「いま神とつながっているのだ」という直感的な身体感覚があるからこそ、神を信じるようになる。濱野さんのいうように、近接性と偶然性というのは宗教において非常に重要な要素だと思います。

この偶然性と必然性を、資本主義と結託させているという点でたしかにAKBは宗教的な要素を持っているのかもしれません。ただここで語られている偶然性と必然性は、宗教の「身体的」な側面だけにポイントが置かれています。宗教は身体性だけではなく、教義の存在が非常に重要です。教義がなく身体性のみの宗教は、たとえば素朴な民間信仰がそうですが、さらにその延長線上にはオウム真理教のような身体性を過度に偏重する教団も存在しています。この違いはかなり重要な問題を孕んでいて、たとえば現代の宗教から人々が離れていくのは、面倒な教義のためであるというようなことをTEDでアラン・ド・ボトンは述べている。

アラン・ド・ボトン 「無神論 2.0」

話を戻すと、AKBの偶然性と必然性は、神の意志として実現しているというよりは、総選挙や握手会、握手券つきCDなどによって巧妙に設計されたアーキテクチャとして機能しています。つまりこれはプラットフォーム、すなわち「レイヤー化する世界」の用語を使えば<場>として機能しているということでしょう。だからこのアーキテクチャは中身のメンバーとファンを入れ替えれば、日本市場だけでなく、グローバルプラットフォームとしても成立しうる。

プラットフォームによって、構造化される宗教。規範的権威ではなく、環境管理によって支配する宗教的権威とでもいうべきでしょうか。今後、このような構造化されたアーキテクチャ的教団というのが登場してきてもおかしくはありません。

この構造は、いただいたメールの以下のコメントとつながってくると考えます。「次元別のSNS空間をWebに作っていくことを考えています。Web上にある種の曼荼羅を作ることに似ていますが、こうすることによって、ある意味で上に行けば行くほど高付加価値の智慧が得られたり、意識の高い人たちと出会えて新しいプロジェクトが発生したりといった具合になります」

この宗教アーキテクチャというのは面白い可能性を秘めていると思いますし、こういうところから現代的な宗教の再構築というのが起きてくるのではないかとも思います。
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メルマガの本文は以上である。私が今回のトークで林さんに聴こうと考えているポイントは、以下のようなものだ。

(1)宗教はテクノロジーと融合していく可能性があるだろうか?
(2)自然への素朴な信仰心の高まりなど、宗教に対する期待感が高まっているようにも見える状況にもかかわらず、既存の宗教団体はそれを引きうけられているとは思えない。なぜだろうか?
(3)これからの宗教において、身体性と教義のバランスはどうなっていくのだろうか?
(4)『幸福の科学』は一連の霊言シリーズによって一般の人々の注目を集めるマスリーチを採っているように私は捉えているが、これは一方で教団に対する批判を高めてしまう原因にもなっている。これについては教団はどう考えているのだろうか?
(5)これからの社会における重要なキーワードは多様性の容認だと私は考えているが、そのような宗教は可能なのだろうか?