それも一局、これも一局

人生には、人それぞれ幾つもの岐路があり、大きな決断をしなければいけない時がある。僕にとっての最初の決断は、17歳の春のことだった。

<最初の決断>

進学、就職、転職、家の購入や結婚、離婚。人生には、人それぞれ幾つもの岐路があり、大きな決断をしなければいけない時がある。

僕にとっての最初の決断は、17歳の春のことだった。足で歩けないことを悲観的に考え、障害の克服を目指していた。高校を中退し、手術を受けた。朝から晩までリハビリ漬けの毎日が、僕の青春になった。甲斐も虚しく、歩けるようにはならなかった。

その後、自ら命を絶とうとするも失敗し、僕は死ぬことすら許されず、仕方なく生きる日々を過ごした。僕にとっての初めての決断は、大きな挫折という形で幕切れを迎えた。

<残された道>

月日が流れ、自身の障害と決別するのではなく、共に歩むことを決断した。企業理念は、「バリアバリュー」。障害を取り除くのではなく、障害を価値に変えるため、二十歳の時に起業した。この決断に勇気は必要なかった。僕にとっての最後の生きる道だった。

あの頃は、スーツを着るというより、スーツに着られていた。だから、精一杯の背伸びをして、少しずつ、大人の仲間入りを果たし、経営者になった。日本全国を飛び回り、海外へも足を運ぶようになり、慌ただしい日々を過ごした。障害と向き合うより前に、いつの間にか、悩んでいたことさえ忘れていた。

コンプレックスやトラウマに悩んでいる時、忘れよう、忘れようと思うほど、それは肥大化した。一朝一夕とはいかずとも、気にならない日がくるのだと知った。僕は歩けない自分に慣れて、向き合えるようになっていた。

<三途の川>

3年前、僕の心臓は止まった。息を吹き返す可能性は25%、目を覚ましても十中八九、後遺症が残るとされた。数日間、眠り続けた末、僕は無意識の内に、生きることを決断したらしく、奇跡的に目を覚ました。

「三途の川がバリアフリーじゃなかったので帰ってきました!」。今ではすっかり鉄板トークになった。

失ってはじめて気づくことがあるというが、僕も例に漏れず気づかされたのだった。死にかけてはじめて、明日があることに心から感謝した。

<死にたくない>

順風満帆に見えた日々から一転、「また手術が必要である」と聞かされた日、手足の震えを止められなかった。今までは失うものがなかったから、なにも怖くなかった。大人になったのか、「死にたくない」という思いが、僕の身体を支配した。

検査を進める内に、目を伏せたくなる現実が一つずつ増えていき、残された選択肢に困惑した。「手術をしても良くなる保証はない」、その一方、「手術をしなければいつかは動けなくなる」とのことだった。

自分を奮い立たせようと、手当たり次第、前向きになれるはずの言葉を紡ぐも、心が晴れることはなかった。「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」などと言い聞かせては、なんて無責任な言葉なのだろうと、唇を噛んだ。

<遺書を書く>

五里霧中で立ちすくんでいた時、大学の恩師と食事に行く機会があった。目の前の選択について助言を求めたところ、一語一語を布で包むように先生は言った。

「歩きたかったのに、歩けなかったから、今の君がいる。どちらの道を選んでも、どんな結果にたどり着いても、君らしい人生になる。大丈夫。27年間、君はそうやって君らしく歩いてきたのだから」

食事の席にも関わらず、涙は止まらず流れ続けた。心のどこかで答えは決まっていた。誰かの後押しを、「大丈夫」の一言を、ずっと待ち続けていたのだと思う。

それから、二つの遺書を書いた。一つは「バリアバリュー」と題し出版した書籍で、いつなにがあってもいいように自分を残した。もう一つの遺書は本物のそれで、自身亡き後、社員や家族が迷わないように意思を残した。

<二度目の三途の川>

手術室に入って、緊張はピークに達した。講演会や記者会見で話す時、意中の人へ思いを伝える時、いろんな緊張があったけど、きっとこれが生涯一番だろうなぁと、手術台の上でそんなことを思った。

酸素マスクを付ける。麻酔の点滴が始まる。意識がスゥーッと遠のき、そして、目が覚めた。

8時間にも及ぶ手術が無事終了したことを聞く。何度も嘔吐を繰り返し、痛みに悶え苦しみ、数日経って、平穏が訪れた。今回も、三途の川はバリアフリーじゃなかった。

<病室支店の開設>

入院する直前、前線から離れることをブログで公表した。「病室支店へ異動になります」。一見して、わかりづらいタイトルだけど、僕の決意表明だった。今回の決断は、引退でも、休業でもないのだと。

手術をしても良くなる保証はないとされたように、今もなお、いつ退院できるかはわかっていない。でも、信じたい。たとえどこにいようと、どんな状況であろうと、自分にできることがある。自分だからできることがある。株式会社ミライロの病室支店として、僕の闘病生活が始まった。

<新たな一局へ>

手術を終え2ヵ月近く経ってもなお、寝たきりの状態は変わらず、天井と向き合い続けている。

リハビリを始めるにあたり、過去の治療や経過を参考にすべく、10年前の日記を開いた。「死にたい」という文字を見つける度、胸に深く突き刺さった。そして、気づく。生きるのが嫌なのではなく、何としても生きようともがいていた。死にたいは、「生きたい」の裏返しだった。

読み進めると、一つのページに目が留まった。「囲碁には、あの時こうしていればという一手がある。でも、Aを取っても一局であるし、Bを取っても一局である。どちらを取ってもそれは一局であって、どちらの手を選んでもいい」。大きな選択を迫られた時どうするべきか、囲碁を例に考察をまとめていた。

もしかしたら、手術をせずにいればもっと仕事ができたのに、なんて思う日が来るかもしれない。それでも、どの道を選ぼうと、一局であることに変わりはない。人生の選択において、正しい答えも、間違っている答えもない。すべては地続きだったのだから。

それも一局、これも一局と考えると、天井だけの世界が少しだけ広く、明るくなった気がした。僕は今、新たな一局を、人生を歩いている。

(2017年1月4日 「ミライロ 垣内俊哉のブログ」より転載)