BLOG

ヨーロッパとアジアにまたがるフォトグラファー「ラウラ・リベラーニさん」

2014年10月21日 01時20分 JST | 更新 2014年12月19日 19時12分 JST

日本に関わらず、自国への移民を歓迎する人もいれば、異国の人を怖がる人もいます。日本語でいう「外国人嫌い」という言葉は英語の「xenophobia」に当たります。

しかし、ギリシャ語からくる「phobia」とは、「嫌い」ではなく、「恐怖」を指します。もっというと、「xeno」とはそもそも「外国人」ではなく、「自分と異なるもの」という意味でした。つまり、異文化と接触したがらない者は異国を嫌う前に、よく知らない異国に対して恐怖を抱いているわけです。

2014-10-20-a003.One_.Night_.in_.Beijing.commissioned.Photo_.Book_.2007.jpg

Tattoo parlour in Dongzhimen Photo Credit: Laura Liverani

一方、異国性を怖がるどころか、わざわざ異国性を探すために母国から出る人もいます。異国とのふれあいで、何かいいことが得られると信じているからかと思います。今日はその「いいこと」を見つけるために、自国イタリアから遠く離れたアジアを選んだフォトグラファーのラウラ・リベラーニさんに話を伺いました。

中国の「混成」とは

― ラウラさんとアジアとの関係はどのように始まりましたか?

私のアジアへの入り口は中国でした。正確にいうと、2000年に深圳市に行ったときに初めて「アジア」に触れました。当時の深圳市はまだ経済成長の最中で、街がゼロから創られているところでした。最初の滞在は結構短くて、2ヶ月半ぐらい中国にいました。北京、上海、少林拳、雲南省などいろんな場所を訪れました。

2014-10-20-b000.Hello_.North_.Korea_.Dandong.China_.2010600x600.jpg

Hello North Korea Photo Credit: Laura Liverani

当時、中国と香港を中心に写真を撮っていましたが、そのうち「国境」に対する好奇心が湧いて、北朝鮮と接する国境の街である丹東市に行きました。丹東市と北朝鮮との間に鴨緑江(北京語:ヤールージャン)という川が流れていて、それが国境線となっているのです。川の向こうに北朝鮮があり、それを眺めるために観光客が丹東市を訪れています。つまり丹東市は北朝鮮に入ることができない人向けの観光地になっているわけです。

特に中国人や韓国人が多いですが、観光客が丹東市に到着して、そこで北朝鮮の民族衣装の朝鮮服(조선옷、チョソノッ)を着て、北朝鮮を背に写真を撮ってもらいます。しかし、背には北朝鮮どころか、何も見えません。言い換えれば、丹東市が「almost」の北朝鮮として売られているわけです。

「Hello North Korea」というプロジェクトがきっかけで、丹東市のような国境線というか、混成というか、その「almost」に興味を持つことになりました。だから次にモンゴルに行くことにしたのです。

― モンゴルではどのようなプロジェクトを行いましたか。

モンゴルのプロジェクトはNGO「Mongolian Youth Services Center」と「Mongolian Photo News in Ulan Bator」とのコラボレーションから生まれたプロジェクトです。モンゴル首都のウランバートル(モンゴル語: 「Улаанбаатар」Ulaanbaatar)の郊外のゲル地区でやりました。

郊外のゲル地区に過去10年間に集まってきた住民は遊牧生活でしたが、モンゴルでは遊牧生活を続けているのはもはや国民の3分の1に過ぎません。ただ、ゲル地区の住民は名前の通りテント式の移動住居であるゲルの中で暮らしています。もはや遊牧民ではなくなりつつありますが、インターネット、電気、水道水さえないという極限状況に耐えながらゲルの中で暮らし続けているわけです。

しかし、私はその極限状況を写真に写したわけではありません。いわゆるpoverty porn(※1)を撮りたくはなかったのです。だからフォトスタジオを設置して、NGOの人の協力でゲル地区民を集めました。30年前に郊外のゲル地区に移住した人もいれば、そこで生まれ育った人もいました。

写真を撮らせてもらった人に「将来の夢」についての小さなインタビューもしましたが、年齢によって回答が異なりました。郊外のゲル地区で生まれ育った人たちはだいたい「将来~になりたい」ということについて話してくれましたが、遊牧生活からウランバートルの郊外に移住した人からは「夜水を汲みに行くとき道に明かりがなくて困る。街灯がほしい」とか、「アスファルトの道路がほしい」とか、郊外のゲル地区の日常性が如実に表れる回答をもらいました。

(※1)「Poverty porn」とは新聞社に写真を売るため、あるいはチャリティー寄付を獲得するための必要な同情を買うという目的で貧乏人の状況を搾取するあらゆるメデイアをいう。「Development porn」や「famine porn」とも言われている。

2014-10-20-c002.Ulan_.Bator_.Photo_.Studio.2013903x600.jpg

Ulan Bator Photo Studio Photo Credit: Laura Liverani

― ウランバートルの郊外のゲル地区で見つかった「混成」や「almost」とは?

ウランバートルではいろんな意味で「混成」に接触できました。まず、郊外のゲル地区は極限状況とはいっても戦争や紛争が起こっているわけではありません。ですが裕福に暮らしているとも言えません。グレーゾーンなのです。

そして個人的なレベルでも「混成」を感じることがありました。ウランバートルに滞在している間は「NGO Mongolian Youth Services Center」からアパートを借りていました。最初はホテルに泊まることになっていましたが、ウランバートルでホテルを見つけるのは簡単ではないんです。

結局韓国人が運営するラブホテルに泊まることになっていましたが、毎晩ホテルでラップ・ダンスのパフォーマンスがあって(笑)。だから避難所を探してました。

ウランバートルを歩いていたら、3人の日本人サラリーマンと2人のモンゴル人がカウンターに座っていてるお店に入りました。カウンターの後ろに神戸出身のキムラさんという人が立っていました。結局ウランバートルに滞在している間は、昼は郊外のゲル地区で写真を撮って、韓国人のラブホテルで仮眠して、夜はキムラさんのバーでモンゴルビールと焼酎を飲みながら異国の文化や人の混ざり合った「混成」の3週間を過ごしました。モンゴルでは、国と国の境界線が曖昧ような気がしました。

2014-10-20-d004.Ulan_.Bator_.Photo_.Studio.2013903x600.jpg

Ulan Bator Photo Studio Photo Credit: Laura Liverani

異国性を求めて日本へ

― ラウラさんは今まで7回来日していましたが、日本との関係はどのように始まりましたか?

はじめて日本に来たのは2007年でした。そのときは中国に滞在していましたが、中国にゴールデンウィークのような連休があって日本に行こうと思ったのです。4週間で北海道から福岡まで旅してました。その旅がきっかけで、また日本に戻ることにしました。

― それはなぜですか?

今でもよくわかりません(笑)。とにかく翌年は1ヶ月間、2009年に3ヶ月間日本に滞在しました。2009年には、日本でフォトグラファーとして働いてみたいと思いました。

当時、すでに中国での滞在時間が長かったため、もはや異国性を感じなくなっていたのです。たぶん刺激や新しいものを求めて日本に惹かれたとのだと思います。2010年は日本には来なかったのですが、なぜかというと日本に魅惑されている理由を知りたかったからです。それを考えるために日本から距離を置く必要がありました。

しかし2011年に東日本大震災があって、日本のことが恋しくて戻ってきました。もちろん日本文化に対して興味を持っているのは確かですが、伝統的な文化や「クールジャパン」ではなくて、どちらかというとわたしは民俗学者の目で日本を見ていると思います。「場所」よりも「人」に興味を持っているのです。

2014-10-20-e008.Apartment.Complex.Syndrome.Takashimadaira.Danchi.2009882x600.jpg

Apartment Complex Syndrome Takashimadaira Danchi Photo Crediti: Laura Liverani

― その「民俗学者の目」を通してどのような写真を撮りましたか?

2009年に日本に来たとき、アイヌについてのプロジェクトを始めました。以前はアイヌについてあまり知らなかったのですが、2008年に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択されたとき話題になって、私も興味を持つようになりました。

アイヌ民族とはどのような存在なのか、現在「アイヌである」ことがどういう意味をもっているのか、この問いへの答えを探して「AINU」のプロジェクトを始めたのです。

2014-10-20-f001Ainu.Tokyo_.2012.jpg

最初はシンプルなポートレートを撮ろうと思っていました。しかし、このプロジェクトはアイヌ民族にとって自分の「イメージ」や「アイデンティティ」をパロディ化しながら、その「アイデンティティ」を取り戻す機会でもあるのではないかと気付きました。

北海道では有名なアイヌ村がありますが、それはある意味動物園のような場所で、「アイヌ文化」を展示しているんですね。観光客を喜ばせるためにアイヌ民族衣装を着てパフォーマンスしている人の写真があれば、常にアイヌ民族博物館の中に住んでいる人の写真もあります。

この「AINU」プロジェクトは2009年から2013年まで続いて、2013年に日本スペイン交流400周年の際にバレンシアの「Ciclo Cultural du Japon」で展示されました。今後は、ドキュメンタリーという形で進めていこうと思っています。

2014-10-20-g002.Ainu_.Tokyo_.2012600x600.jpg

AINU Photo Credit: Laura Liverani

― ドキュメンタリーですか?

そう、でもどのようなドキュメンタリーにするかはまだ決めていないです。3人で作ることになっていて、インタビューから始めようと思っています。アイヌ民族の歴史のようなものではなくて、むしろ今、アイヌであることがどういう意味を持つのかを探りたいですね。だからストーリーを探さないといけないですが、観光地になっているアイヌ民族博物館を避けて、他の場所、そして過去とつながっているストーリーを探してみたいです。

もちろん今回も写真を撮るつもりですが、やっぱり写真だけだと物足りない気がします。個人的に写真というものはあらゆるストーリーを語りきれないと思いますよ。場合によって物語を語るためには写真と違うメデイアが必要だと思います。

2014-10-20-h_Shaolin.kids_.China_.2005909x600.jpg

Shaolin Kids China Photo Credit: Laura Liverani

― 中国から日本に移動して、ラウラさんの写真は変わりましたか?

すごく変わりました。中国に滞在していたときはアナログしか使っていなかったのです。今はデジカメはメインですが、個人的なプロジェクトではたまにまだアナログを使っています。

はじめて中国に行ったときにはまだ「語りたい物語」を見つけていなくて、自分もどんな写真を撮りたいかわかっていなかったのです。しかし、イタリア・国立デザイン大学ISIAで講師になってから、注文主から解放されて、もっと自由に写真を撮れるようになったし、そのうちフォト・エスノグラフィー(※2)に興味を持つようになりました。

一番変わったことは、一つのスタイルにこだわらず、様々な撮り方を合体させはじめたことです。フォトドキュメンタリーがメインですが、ポートレートやストリートファッションなどなど、いろんなスタイルをミックスして遊びます。

だから次にドキュメンタリー映画にも挑戦してみたいと思います。去年ローマのギャラリーInterzoneでアジア大都市を中心とするプロジェクト「NEON DREAMS & TOKYO UNTITLED」の写真で短編映画が作られたのですが、今度は自分でドキュメンタリーを作るのすごく楽しみにしています。

(※2)フォト・エスノグラフィーとは写真などを活用する文化人類学をいう。

2014-10-20-i_DSC84071000x560.jpg

ラウラ・リベラーニさん

さいごに

「混成」から「異国性」へ、探す物語が変わってきても、やはりラウラさんの写真は常に「人」を捉えています。ラウラさんは、次は日本でどんな物語を聞かされ、どんな物語を語るのでしょうか? 今後の活動がますます楽しみです。

ラウラ・リベラーニ
ラヴェンナ(イタリアの北部)生まれ。ボローニア大学の芸術メデイア修士課程、ロンドンのウエストミンスター大学の写真科修士課程を修了。現在イタリア・国立デザイン大学ISIAで教えながら、アジアとヨーロッパを中心にフォトグラファーと講師として活動している。彼女の作品はアジアとヨーロッパの雑誌、本、展示などで掲載された。Ulan Bator Photo StudioはOpen Show Tokyoにも紹介され、10月から開催されるSingapore International Photo Festival 2014で入選された。ラウラ・リベラーニさんのウエブサイトはこちら

【関連記事】

【食べ歩き】異国の道で食べ歩き!アジアのストリートフード5選

異国の地で始まったプロサッカー選手としての道。カンボジアでプレーする日本人選手の物語

【世界遺産】人と自然が創りだした世界の宝!世界遺産まとめ アジア編

ライター:Leti

http://blog.compathy.net

▲編集元:TRiPORT