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シリア難民はヨーロッパにどう定住するのか(インタビュー前編)

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ヨーロッパではここ数年移民・難民問題が紛糾しています。その中には毎日のようにニュースになるシリア内戦による難民も多く存在します。しかし、遠く離れた日本では、その現状を把握するのは容易ではありません。

また、悲惨な内戦の現地報道や難民対策に関する政治家の報道に目を奪われがちですが、ヨーロッパに移住した一般人の実態や彼らの思いを知る機会は限られているように思われます。今回、ウィーン近郊に住むクルド系シリア人とのインタビューを通じて、難民の生の声、そしてライフ・ストーリーの一遍を描き出したいと思います。

戦争を逃れ、ヨーロッパで安全な暮らしが確保されても、不安な家計、キャリアや求職問題、言葉の壁、文化の差異、家族・親族関係、望郷の念など、シリア人の苦悩は続いています。

オーストリアに関して言えば、2015年にヨーロッパの主要難民流入ルートの一部となり、様々な問題に直面しました。71人の難民が猛暑のトラック内で窒息死する事件のショックもあって、当初は比較的寛容な移民政策をとっていました。

しかし、その後、国境フェンスの建設、難民申請制限が行われました。さらに、排外主義とポピュリスト政党の台頭でムードが変わってきています

最近では、ブルカやニカブが禁止となり、移民の社会統合も大きな議論になっています。こうした背景も念頭に、現外務大臣とも面談し、オーストリア放送協会のラジオ・インタビューも受けたイスマイルの経験した過去、現在、そして将来をより多くの人に知ってもらえればと思います。

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イスマイル・ヤシンの紹介

1961年クルド人としてシリアに生まれる。1984年にダマスクス大学英文学科を卒業。宗教学・イスラム学が専門。ダマスクス高校と大学で教員を勤めた後、1990年代に外国語教育の研究所を共同設立し、所長となる。

また、小松製作所の現地通訳を勤め、来日したこともある親日家。シリア内戦が激化するなか、ヨーロッパ各地を転々とし、現在はオーストリアに居住。在墺シリア人グループを代表して積極的に周知活動を行っており、教会や国連ウィーン本部でのスピーチを行ったほか、多数のメディアにも取り上げられている。
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インタビュー時のイスマイル

Photo by Tsunanori Chinatsu Creative Commons License
This work is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International License


対談


いつも通り丁寧で礼儀正しい。日本人以上かもしれない。待ち合わせに遅れて着いたにもかかわらず、両手で私の手を握り締め、「会えて良かった。中にどうぞ」と笑顔で招いてくれた。申し訳ないという思いまで消してくれるような温かみがある手だ。

その一時間前、電話をかけた。その第一声は威勢のいい「KONNICHIWA!」。これがシリア人の強さなのかもしれない、と思った。イスマイルはオーストリアに住むシリア危機難民の一人だ。50代のクルド系シリア人で英語も堪能なインテリ派だが、苦労をしている。

彼とはすでに数カ月の知り合いだが、そのライフ・ストーリーをきちんと聞きたい。難民の生活とはどんなものなのか。どんな経緯でヨーロッパに渡ってきたのか。彼の思いとは・・・。10月初旬。外は小雨で、寒い冬の始まりを思わせるウィーンの一角でイスマイル・ヤシンとの対談が始まった。

生きるか死ぬか ヨーロッパ逃避行


まずは、基本的なことから聞かせてもらいます。シリアのどこの出身なんですか?

北東のトルコ国境にあるカーミシュリーという街です。そこに高校までいましたが、1979年からずっと首都ダマスクスに住んでいます。

シリアには大きなクルド人コミュニティーがありますね。そのアイデンティティーをどう捉えていますか?

クルド人は4カ国に住んでいます。トルコ、イラン、イラク、そしてシリアにです。オスマントルコ帝国の終焉によるサイクス・ピコ協定によって、国を失い、分断された犠牲者なのです。そのため、国家のアイデンティティーを求めてもがいているのです。私は、平和的な闘争を求めています。対話は暴力にまさります。

シリア危機の背景には複雑な利権が絡まっているようですね。ともあれ、ダマスクスで危機が始まったんですね。具体的にはどんな環境だったんでしょう?

市内に住むのは政府軍の砲撃があって危険でした。市を見下ろす山上から反政府軍を狙い撃ちしていたんです。また、秘密警察が私の息子を逮捕しそうだったこともあります。当時すべてのシリア人の若者が政府のターゲットになっていました。

彼らは外出し、自由や尊厳や平等を叫ぶからです。それで息子が外出しないという誓約書にも署名させられました。さもないと、刑務所で殺される可能性もありました。そんな経緯で親戚を訪ねてダマスクス市内を4回も引越しせざるをえませんでした。

(補足) 先日報道各社は、2011年から2015年の間に、ダマスクス近郊のサイドナヤ軍事刑務所で5000人~1万3千人が拷問、処刑された可能性があると報じた。その衝撃的な報告によれば、その多くは民間人で、人権活動家、反対派の政治家、ジャーナリスト、学生、デモ参加者が多かったそうだ。

ちなみに、一番身の危険を感じた体験は何ですか?

2013年の話です。私はダマスクス国際空港のそばにある小さな農家に家族と一緒にいました。午後3時頃でした。突然農家の門が開いたのです。家に入ってきたのは30人くらいの兵士で、カラシニコフで武装していました。そして、「動くな!」と言うのです。

その瞬間一言でも喋れば皆射殺されていたと思います。私は忍耐強い性格なので、焦らず丁寧に招き入れました。どうぞ調べてくださいと。彼らはテロリスト(反シリア政府主義者を指す)を探していたのです。30分後何も不審なものがないことがわかると、彼らは去っていきましたが、当時何が起こっても不思議ではない恐ろしい状況だったのです。

そんな危機一髪の状況に置かれた精神状態はなかなか想像できません。平和な日本ではちょっと考えられない。もうシリアにはいられない。いつその決断をしたんですか?

2013年3月15日です。内戦が始まってからちょうど2年後の話です。当時シリアでは二つの選択肢しかありませんでした。殺すか殺されるかです。私には両方とも選べない選択でした。

直接的な原因はあったのですか?

義父がヨルダンの首都アンマンで亡くなったので、その葬式に三日間出席したのですが、その時に友人にシリアに戻らない方がいいと言われたのです。そのままヨルダンに滞在し、家族を呼び寄せました。

あなたもシリアという国ももう後戻りできない状態だったんですね。しかし、その後ヨルダンにも長居しなかった。

チャンスがありませんでした。ヨルダンはシリアより貧しいんです。水や石油も不足していました。そこで、私はトルコ人学校で英語を教えたり、アラビア語と英語の翻訳をやったりして生計を立てていましたが、アンマンは非常に住宅費もかかる。ヨーロッパとあまり変わりません。月900ドルくらいかかりました。

このままではシリアから持ち込んだ貯金が尽きてしまう。6カ月ごとに更新可能な一時滞在ビザで滞在していましたが、そんな教師の仕事は不法就労だということで、ある時クルド人教師は全員首にされました。不法であることを我々は知らされていませんでした。

ヨーロッパへの移住を決めたのは、ちょうどその頃スペインでの学会に出席した時です。スペインの外務省に招かれて三日間コルドバにいたのですが、そこからヨルダンには帰らず、直接スウェーデンに単身移住し、難民申請することにしました。私のキャリアが認められるのはスカンジナビアがヨーロッパで一番いいと思ったのです。スウェーデンにはシリア時代の知り合いもいました。

非常に素早い決断ですね。

その通りです。スウェーデン南西部のヨーテボリを経て、内陸にあるカールスタッドに8カ月滞在しました。非常に楽しい時間を過ごしました。スウェーデンの人々は私を尊重してくれましたし、豊かな国です。

それはよかったですね。博物館で仕事をしたと聞きましたが、どんな仕事ですか?

教会や議員集会でいくつかの講演を頼まれ、そこで知り合った人に博物館での仕事を紹介されたのです。カールスタッドの博物館で2カ月働きました。そこでスウェーデン人に英語を教えたり、文化的講演をしたりしていました。スウェーデン人は英語が堪能で、外国人を好んでいました。

教育経験をいかしてスウェーデンでは生徒に英語や文化を教えた

ただ、スウェーデンでも順風満帆というわけではない。

ホームシックにかかりました。当時家族はばらばらでした。私がスウェーデン、妻がオーストリア、息子の一人がトルコ、他の二人がヨルダン、娘が北イラクに住んでいました。皆大人になっていますが、一番下の息子はまだ17歳でした。ちなみに息子二人はトルコ(アンタルヤ)からギリシアに危険なボートで横断しました。

いよいよオーストリア到着となるわけですが、なぜオーストリアなのでしょう?昨今のヨーロッパの難民流入では、多くの難民がドイツを目指しています。

妻が最初にウィーンに来たのです。ウィーンが気に入って、オーストリアで難民申請し、承認されたからです。

当時奥さんも苦労をしたとか。

そうです。妻は難民キャンプに7カ月いましたが、環境は最悪だと泣いていました。妻は47歳ですが、歳をとると新しい環境に慣れるのは難しいのです。

2015年夏には、ウィーン郊外にあるトライスキルヒェンの難民キャンプの環境が内外のメディアで大きな話題になっていました。国連やアムネスティ・インターナショナルなども非難していたくらいです。私も一度ボランティアに行きましたが、そんな感じだったのですか?

同じような感じだと思います。食事は悪く、男女共同生活で、衛生的にも問題がありました。シリアでは中産階級でしたが、ヨーロッパでは最下層として扱われ、我々のような家族には特に耐え難い。

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2015年夏の猛暑のなか、トライスキルヒェンのキャンプ周辺は難民で溢れていた

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あなたが到着して、そんな状況が少しずつ改善されていった。その経緯は?

当初は経済的援助も少なく仕事もないので、家を借りるのも非常に大変な状態でした。最初の夜は一泊100ユーロのホテルに泊まり、その後友人の家に泊まらせてもらいました。

彼は私が息子に英語とアラビア語を教えるかわりに、5カ月分の家賃を貸してくれたのです。そしてその後、知人にバーデンの現在の家を紹介してもらったのです。ただ、非常に古く汚いひどい家でした。後から我々に合流した息子たちが掃除し、やっと住めるようになった。

そんな状態だったので、光熱費以外は無料でした。庭も含めると500㎡という巨大な家なので、家族の三世帯が住むには快適です。

少し金銭的な話をさせてください。オーストリアではどのような待遇を受けたのでしょう?

政府からの援助は大人一人月465ユーロでした。しかし、妻と二人分を二人の息子を含めて4人で使うと食費代だけでもぎりぎりです。数カ月間研究機関の仕事をさせてもらった時も、当初は月572ユーロしかもらえませんでした。問題は仕事につくと今度は政府の援助金がもらえなくなることです。また、他の職員と比べて仕事の対価を受け取っているようには思えませんでした。難民としてしか扱われていないからです。

補足ですが、ある統計では難民の教育レベルはオーストリア人と同等レベルであるという結果もでています。

ところでスウェーデンとオーストリアでは難民への対応や社会統合はどう違いますか?

スウェーデンは難民をよく取り扱ってくれます。経済的にも感情的、人道的にもです。政府もいろいろな援助をしてくれます。例えば、難民アドバイザーがいて、家や仕事探しの手伝いをしてくれるのです。オーストリアでは、全て自分でやらなければなりません。オーストリアがとりわけ悪いということではありませんが、国ごとにシステムが違います。ただ、新しい国にたどりつくまでそうした状況は知りようがありません。

眼科医の難民がいるのですが、スウェーデンでは滞在1年後にスウェーデン語を覚え(スウェーデン語はドイツ語より簡単です)、開業しています。

ところが、他の知り合いの医者はオーストリアで2年半経っても開業できません。彼はよく知られており、10年の経験がありますが、このままだと開業できる頃にはせっかくの知識や技術を失ってしまいます。スウェーデンでは現地人と同じ給料をもらえますが、オーストリアでは低い賃金しかもらえません。

両国とも言語習得の補助がありますが、英語に対する態度は異なります。スウェーデン人はスウェーデン語を強要することはありませんし、英語を喋るとむしろ尊敬されます。オーストリア人はドイツ語を話すことを好みます。

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オーストリアではアラビア語のデジタル辞書作成の仕事に従事

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後編
につづく