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連載「日本人元職員が語る国連の舞台裏」 ~日本の国連加盟60周年特別企画~ (5)

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日本は国連に加盟し60周年を迎えます。この機会に、国連広報センターでは国連の日本人職員OB・OGの方々にインタビューを実施し、国連での日本のあゆみを振り返ります。元職員だからこそ語れる貴重な当時のエピソードや考えを掲載します。

日本人元職員が語る国連の舞台裏 ~ 日本の国連加盟60周年特別企画 ~ (5)

川端清隆さん

世界平和の実現に日本も強い覚悟を

連載第5回は、国連本部の政治局に長年勤務された川端清隆さんです。世界がまだ冷戦下にあった1988年に国連に入り、激変する政治状況のなかで25年にわたって安全保障理事会を支える安保理部を中心に要職を歴任されました。

国連在任中は安保理の他に、アフガニスタンでの和平交渉やイラク戦争への対応に尽力されました。退職後の2013年からは、福岡女学院大学の教授として活躍されていらっしゃいます。国際の平和と安全の維持という国連の最も本質的な活動の舞台裏について、川端さんからお話をうかがいました。

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川端清隆(かわばた きよたか)

【1954年、大阪生まれ。通信社記者を経て、88年より国連本部政治局で政務官として勤務。95年まで安全保障理事会部に所属し、安保理の運営や安保理改組を担当。95年から04年まで政治局地方部(アジア課)に移籍し、アフガン和平交渉やイラク戦争への対応に携わる。アフガン和平においては、ボン和平合意の達成に尽力。

04年からは安保理で北朝鮮の核・ミサイル問題やシリア紛争などを担当。13年、国連を早期退職して福岡女学院大学国際キャリア学部教授に就任。著書に「イラク危機はなぜ防げなかったのか 国連外交の六百日」(岩波書店)や「アフガニスタン 国連和平活動と地域紛争」(みすず書房)など。最近の論文に「安保法制の課題と問題点 - 日本は国連を活用して対米偏重を改め、自立した未来志向の国家戦略を築け」(WebRonza 朝日新聞社、2015年9月)など。】

根本:川端さんは本部の政治局でも安保理部でのお仕事が長かったのですね。安保理部という部署はどんな仕事をしているのですか?

川端:国連で働いていた25年のうち、6割は安全保障理事会を支える安保理部での勤務でした。安保理部の役割としては、まずスムーズに、タイミングよく会議を開けるように準備する。次に、決議案などの決定がスムーズに出るように理事国をサポートすることなどです。特に重要なことは、安保理の審議や決定の記録を整理することです。

公式会議は議事録がありますが、非公式協議は公式な記録がないので、ノートを取ってその日のうちに報告書をまとめて事務総長に報告せねばなりません。

私が国連に入ったのは1988年で冷戦の末期でした。東京で採用通知を受け取りましたが、配属先は「政治安保理局安保理部」という大変重要そうな名前の部署でした。当然、喜び勇んでNYに向かったのですが、実際の国連の職場では大きな驚きが待っていました。

国連創設から冷戦期を通して、政治安保理局のトップはソ連出身者が勤めており、他の局員も東ヨーロッパか親ソの途上国出身の官僚で占められていたのです。スタッフの殆どは社会主義圏の出身で、西側出身者は私だけという事実に直面し、おおいに戸惑いました。

ちなみに、冷戦期の国連事務局は世界情勢をそのまま映したような体制で、アメリカは総会を担当する局、イギリスは特別政治局(後のPKO局)をそれぞれ掌握していました。局間の交流や協力はほとんどなく、国際政治の力学を忠実に映す国連の現実を思い知らされました。

職場環境は、現在では想像もできないほど殺伐としていました。当時はまだ東西両陣営の間の不信感が根強く、同僚としての意識は希薄でした。例えば、私と同じ政治安保理局で働いていたソ連出身の同僚は、国連から直に給料を現金で受け取ることをソ連政府により禁じられていました。

彼らは国連から給料を小切手でもらい、それをソ連の国連代表部に「差し出し」、代わって本国の等級に従って生活費を受け取っていたのです。これは亡命を防ぐためですが、出身国政府の指示を受けない「中立の国際公務員」とは名ばかりですね。

そんな状況ですから、敵対する資本主義陣営出身の私はなかなか安保理の会議に出させてもらえなかったし、上司の部長と局長はまともに私と話してもくれない。「何でここに日本人がいるんだ?」という感じで見られ、疎外感を感じる日々が続きました。

仕事の進め方も、今から思うと滑稽な秘密主義がまかり通っていました。例えば、ソ連出身の局長は一日のうち数度、側近だけを引き連れて政治安保理局があった事務局ビル35階の長い廊下を端から端まで往復します。

不思議に思って同僚に聞くと、「(欧米による)盗聴防止のため」という説明でした。盗聴されているかもしれない局長室では、大事な話はできないという訳です。事務局内に疑心暗鬼が渦巻いていたのですね。

根本:川端さんはマスコミのご出身ですから、通信社時代に鍛えた簡潔に、分析的に書くというスキルは役立ったのではないですか?

川端:それが最初はまったく役に立ちませんでした。当時の仕事の流れは、まず安保理での審議の要旨をまとめて、それを担当部長がチェックしたうえで事務総長室にあげるという仕組みでした。ところが、要旨の作成は客観性重視というより、政治的バランスを最優先するものでした。

つまり、アメリカの発言について3行書けば、たとえ内容がなくともソ連についても必ず3行書くように言われました。自身の判断で審議内容にメリハリをつけてまとめることなど、到底許されなかったのです。

また理事国の発言は一言一句言ったままにしか書けないという有様で、解釈や分析の余地はほとんどありませんでした。これでは、記者としての経験は全く役に立ちません。

必然的に、当時の安保理の記録は本質からかけ離れた手続き上の問題に終始しており、外部の者が読むとほとんど意味不明です。政治的な発言など、安保理の本質にかかわる正確な記録の不在は、冷戦期の安保理審議の研究が進まない原因の一つといえます。

根本:1991年にソ連が崩壊してから、変わりましたか?

川端: ソ連の消滅は、国連を東西イデオロギー対立のくびきから解き放ち、事務局の環境を一変させました。それまでギスギスしていた雰囲気は消え去り、人間関係も正常化が進みました。

今では笑い話ですが、ソ連崩壊直後のある日、ソ連出身の政治局長とたまたまエレベーターの中で二人きりになった瞬間がありました。それまでろくに話かけてくれなかった局長ですが、この時の態度は様変わりで、彼は私の手を握り締めて「カワバタ、これから一緒にやっていこうな」と、顔を紅潮させて切実に呼びかけました。政治体制が変わるとこんなにも態度が変わるのか、とビックリしました。

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1994年ジェノサイド直後のルワンダPKO本部で事務総長特別代表と(川端さん提供)

根本:安保理の非公式協議は私たちにはうかがい知れない世界ですが、どんな感じなんですか?

川端:決議案の草案作りなど、安保理の本質的な話し合いはほとんど非公式協議で行われます。非公式協議に使用される部屋はわざと狭く作ってあり、公式会議室の3分の1ほどの大きさしかありません。出席者の肩と肩が触れあうほどの狭さです。

理由は、建前にとらわれない自由で親密な会話を促進するためです。だから、非公式協議の記録は存在しません。1セッションは2~3時間で、安保理部は概要をその日のうちに事務総長に報告します。

根本:まさに「奥の院」ですね。シリア紛争などについて安保理が機能していないとの批判がありますが、どんな条件が整えば、合意しやすくなるのでしょうか?

川端:やはり安保理の常任理事国が当事者になっている案件は、意見をまとめるのが難しいですね。これは、国連の集団安全保障が「大国間の協調(Concert of Great Powers)」に依拠しているためです。大国、つまり常任理事国の間の協調を担保しているのがいわゆる拒否権です。

シリアについては、アサド政権を擁護したい、存続させたいと思っているロシアと、アサドではだめだ、何らかの形で国民の和解政権をつくりたいと思っている欧米とで、決定的に考えが分かれてしまいました。

特定の紛争を安保理の議題にするかしないかは、憲章上は手続き上の問題(procedural matters)として扱われるため、拒否権は適用されません。したがって、安保理はこれまでシリア問題やウクライナ問題を審議することはできたのですが、制裁決議は言うに及ばず非難声明を含めて、拒否権が適用される本質的な決定は一つもできませんでした。

他方、常任理事国の利害に直結しないアフリカの紛争解決など比較的まとまりやすく、冷戦後に安保理は同地域で積極的に平和活動を実施することができました。実際、現在展開している国連平和維持活動(PKO)の8割はアフリカに集中しています。

安保理は北朝鮮に対しても、数次にわたる制裁決議を採択することができました。これは中国を議長国とする6ヶ国協議という枠組みが合意され、中国を多国間外交の場に引き込むことに成功したからです。しかし、金体制の崩壊につながるような経済制裁に慎重な中国と、何としても核・ミサイル開発を止めたい米国との間に、まだ大きな隔たりが見られます。

残念ながら理事国が分裂し、安保理が機能しない場合は、私たち国連事務局はほとんど何もできません。しかし、紛争を座視することは許されません。戦いが長引き膠着状態に陥ったとき、国連事務総長は解決に向けた独自のイニシアチブをとることがあります。

シリアについても、ロシアと欧米の間の橋渡しのため、国連はアナン前事務総長、ブラヒミやデミストゥーラなど、最高の交渉者を送り出してきました。また、PKOや人権監視団の派遣を提案することも可能です。紛争原因の調査などを目的とする事実調査団の派遣や、紛争を未然に防止する予防外交の実施も、事務総長の重要な役割の一つです。

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2012年シリア外相と和平調停にあたるコフィー・アナン特使(UN Photo)

根本:安保理は週末でも緊急に開かれますね。皆さん、どのようにスタンバイしていらっしゃるのですか?

川端:安保理はいつ招集されるか分からないので、一年365日、一日24時間対応できるように、夜間や週末はローテーションで緊急時のためにスタンバイしています。1990年代当時はまだ一般に普及していなかった携帯電話を支給され、緊急時に連絡が出来るようにしていました。

安保理を緊急招集するためには、「3時間ルール」というものが適用されます。理事国が緊急会議を要請する場合、要請時から会議の開始まで、事務局に対して少なくとも3時間の猶予を与えるという原則です。これは、6ヶ国語の同時通訳、文書係、会場の整備係、広報担当者、政治局担当者、警備員などの必要人員の招集に、最低限このぐらいの時間が必要だからです。

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安全保障理事会の公式会議場 (川端さん提供)

根本:冷戦が終わって国連のPKOに紆余曲折があった90年代を川端さんは安保理部からご覧になったのですね。

川端:冷戦時代は安保理の協議は、「国連は何が出来るか」より「何が出来ないか」の話し合いでしたね。そもそも民主主義や人権の定義が、欧米とソ連圏では大きく違っていました。非同盟諸国も、国連に名を借りた大国の「新植民地主義」を恐れるあまり、民主化、人権や法の支配の促進など平和構築活動に消極的でした。

つまり、今では当たり前になっている選挙支援や人権擁護も、平和活動の一環としての実施はタブーだったのです。内政不干渉の原則という憲章上の制約も当時はありました。しかし冷戦後は、安保理は紛争原因を除去するための平和構築活動に本格的に乗り出せるようになったのです。

結果として、PKOの活動内容が充実し、PKOの増加につながりました。90年代の前半には、PKOは最初のピークを迎え、PKO要員の総数が7万人を超えました。

ナミビア、カンボジアなどのサクセスストーリーは、長年の紛争の末に当事者が疲れすぎて「どうにかしてくれ」と国連に相談するケースが多かったんだと思います。アメリカ対ソ連の構図が消えて、どちらかに頼ればお金+武器がもらえる、という前提がなくなったから国連に頼るしかなかった、という面もありました。それで国連が行えること自体も増えていったわけです。

ソマリアでは、国連PKOが自衛以上の武器使用を禁じられたいわゆる「PKO三原則」から脱皮して、軍閥の武装解除などの任務遂行のために武力を使えるようになりました。しかし、急速なPKOの役割拡大の結果、さまざまな失敗や挫折が続きました。ソマリアPKOで大失敗し、さらにルワンダでは大虐殺を許してしまった。

ボスニアでは自らが設定した人道保護区を防護しきれず、NATOにとって代られてしまいました。相次ぐ失敗のため90年代の後半には、PKOの規模はピーク時の7万人から一気に2万人に減ってしまいました。成功の高揚感から絶望の奈落へ、まるでジェットコースターに乗っているような気分でした。

根本:現在PKO要員は制服組、文民あわせて12万人規模になっていますね。数がそんなに少なかった時代もあったとは信じられません。当時現場に行かれることもありました?

川端:私は1994年の夏、ルワンダPKO(UNAMIR)の増強を応援するためにNYから現地に乗り込みました。国民の一割にあたる80万人が、政府部隊と政府が支援する民兵によって虐殺された一か月後のことでした。いまでもルワンダでの体験は、私の平和観の原点であり、平和活動のあり方に大きな影響を与えています。

戦場体験がない訳ではありませんでしたが、あれだけの死体を目の当たりにしたのは生まれて初めてでした。大量虐殺は国際社会の眼前で、わずか2か月という短いタイムスパンの中で嵐のように実行されました。

首都キガリでは埋葬が追い付かず、浅く埋められた死体を犬が掘り返すというような現場を見ました。その犬たちが夜には、PKO本部の周りで遠吠えを繰り返すものですから、プロの軍人たちの間でも耐えかねて情緒不安定に陥る者が出る有様でした。

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1994年ルワンダ難民の子ども(UN Photo)

根本:私は、川端さんがお書きになったアフガニスタンに関する本を通じて、川端さんの存在を知りました。どのようなきっかけでアフガニスタンに関わるようになったのですか?

川端:私がアフガニスタンの担当者になったのはまったくの偶然でした。1995年の夏に前任者が突然解任され、たまたま新しいポストを探していた私に機会が巡ってきたわけです。しかし機会といっても、アフガン紛争は当時「国連和平活動の墓場」と呼ばれ、解決不可能なやりがいのない任務と考えられていました。

実際、政治局の同僚の間では、一旦アフガン紛争の担当者になってしまうと、定年退職までずっと抜けられないという認識があって、誰も担当をしたがりませんでした。当時私は「安保理改組に関する特別作業部会」を担当していました。作業部会ではスエーデンの国連大使が議長を務めていましたので、退任のあいさつに行くと大使は私に、「アフガニスタンが平和になるか、安保理改革が実現するか、どちらが先に達成できるか賭けよう」と冗談を飛ばしました。当時は安保理改組と同様に、アフガニスタンは絶対に解決しない紛争の一つと考えられていたのです。

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1996年アフガン和平活動中に国連代表(右から2人目)とバーミアンで(川端さん提供)

実際、私が担当してから最初の6年間、アフガン和平はまったく進展しませんでした。アフガン当事者間の権力抗争、周辺国の干渉、米国など大国の無関心、イスラム原理主義の台頭、などの要因が重なってにっちもさっちもいかない袋小路に陥っていたのです。ところが、アフガニスタンを巡る国際情勢は、6年目の初秋に激変しました。

2001年に9・11対米同時多発テロが起こって、アメリカをはじめとする欧米諸国が紛争解決に本腰を入れ始めたのです。好機を逃さぬため国連は、元アルジェリア外務大臣ラクハダール・ブラヒミアをアフガニスタン担当事務総長特別代表に再任命しました。10月初めに、ブラヒミに同行してワシントンに行ったのですが、国連の通常の窓口である国務省ではなくいきなりホワイトハウスに招待されました。

そこではチェイニー副大統領がブッシュ大統領の代理として出てきて、ブラヒミに「タリバン政権崩壊後の政治的空白を埋める」よう要請しました。軍事的局面を扱う米国と、政治的局面に責任を負う国連との、二人三脚の始まりでした。

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1998年ブラヒミ特別代表とバーミアン石仏の前で(川端さん提供)

根本:あれから今年で15年になりますが、アフガニスタンの情勢は緊張が高まっていますね。川端さんはどのようにご覧になりますか?

川端:アフガン紛争の本質は近代化の失敗です。乱暴を承知で申し上げると、アフガニスタンは日本の明治維新と同じ時期に近代化のプロセスを始めましたが、内政は上手くいかなかったものの、武器や資金の支援など外国人を利用するのはすごく上手でした。しかし外部の支援に頼りすぎて、自力での近代化を怠ってしまった。

国家予算の大半を外国に頼る「支援依存国家」に成り下がってしまったわけです。干渉国を利用していると思い込んでいるうちに、自身の自立心を徐々に失くしていったのかもしれません。その結果アフガニスタンでは、王政、立憲君主制、共和制、共産主義、イスラム原理主義など、ありとあらゆる制度が試されましたが、いずれも無残な失敗に終わりました。

最後に残されたのが、ムハメッドが生まれた7世紀への回帰を目指す、タリバンが掲げる超原理主義というわけでしょう。一方日本は独自の近代化に成功し、紆余曲折こそありましたが、今日の平和と安定を築くことができました。

根本:国連の中枢である政治局の仕事に長年携わられて、日本にどんな期待をお持ちですか?

川端:まず、日本はもっと平和活動の専門家を育てなければならないと思います。アフガニスタンの担当のときに日本に積極的に関与してもらおうと、日本にいる専門家を探そうとしましたが、アフガン文化や歴史の専門家はいたけれども、政治を知っていた人はほとんどいませんでした。日本にはアフリカ紛争の専門家も少ないですね。

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2001年ボン和平合意署名後にシュミット独首相(前列中央)、ブラヒミ特使(前列右から4人目)、アフガン当事者らと(川端さん提供)

加えて、日本には「からだを張って何とかする」という発想をもっと強く持ってもらいたいです。汗をかかなければ、犠牲を払わなければ、見返りはない。関わるからには、日本は本質的な部分を肩代わりするぐらいの「覚悟」を持つ必要があります。

当然、平和活動への参加は危険を伴います。しかし、国連の平和活動の本質は、日本を含めた加盟国による「リスクの分かち合い」なのです。日本だけが安全地帯にとどまり、他人事のように「平和」を語るわけにはいきません。

アフガンについても、日本は復興支援国会合を東京で開催しましたが、肝心の和平会議はドイツのボンに持っていかれました。同様のことを日本はカンボジア和平でも行っていますが、振り返ってみてパリ和平会議を記憶する人は多くいますが、東京での支援国会議を覚えている人はどれほどいるのでしょうか。

平和の達成には、実際に現地を訪れ、紛争地の人々に寄り添う必要があります。「日本も汗をかいてくれ!」とかつてブラヒミが言っていましたが、日本には是非、国連の平和活動の一員になってほしいと願います。

それこそが、本当の支援でしょうし、積極的に参加すれば和平の専門家も育つはずです。紛争の現実を知ってこそ、我々日本人は平和とは何かを身をもって感じ取ることができるのではないでしょうか。

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国連広報センターにて。川端さんと所長の根本かおる(右) ©UNIC Tokyo