津波に希望を流された仙台で、新たな希望の種が蒔かれていた

「問題が見えるようになれば、むしろ解決しやすくなる」という青年の言葉に、高度成長期とは違う、新しい日本社会が生まれるかも知れないと思った。

東日本大震災から3年が過ぎた。震災を経験した地域で何が起きているのか。日本は再び立ち上がっているのだろうか。

私は仙台を訪れた。飛び込んで来た仙台の風景は活気に満ちていた。ネオンサインが目立ち、街は人でいっぱいだった。繁華街の飲食店は空席がないほど賑わっていた。

東北は立ち直っているのではないか?

ある社会企業を訪問した。片親家庭の子供の課外教育を担うNPO「アスイク」(ASUIKU)だ。代表の大橋雄介氏に会った。彼から聞く仙台の話は違った。

大橋雄介氏

彼は福島県出身で、震災前は仙台のNPOで働いていたが、3.11後、アスイクを設立した。この非営利団体は被災地で勉強が難しい子供たちを支援するために設立された。彼が被災地の子供を助ける理由は明確だ。

震災後、最も苦しんでいるのは、最も困難な地域の最も弱い子供たちだった。彼らは震災後、さらに大きな困難に直面していた。

大橋氏は震災後、避難所でボランティアをした。人々は内陸に移動し、3カ月間、体育館で暮らさなければならなかった。

そこには服もなく、洗う場所もなかった。中学生になるような子供が服も着ずに歩き回っていた。生きる精神的な力を失ったようだった。誰もが放心状態だった。誰もがそこを出たかったのは当然だ。何とか暮らす場所がある人々は、大半が出て行った。

3カ月後、彼らは仮設住宅に移った。仙台には90カ所の仮設住宅があった。一カ所に20~300世帯、計2000戸の住居が提供された。

ここでは避難所とは違った問題があった。避難所ではみんな大変だったが一緒に暮らしていた。一人で耐える力はなくとも、集まれば何とか耐えられた。しかし仮設住宅は、各家族が一軒ずつ別々に暮らしている。そして他の地域から来た人も一緒に住むようになり、仮設住宅の入居者間に摩擦が生まれた。

避難所では食べ物が与えられ、ボランティアが生活を助けた。しかし仮設住宅では自ら生計を立てなければならない。家賃を払う必要はなかったが、生活苦が再び襲ってきた。ストレスが大きくなり、隣人間の摩擦が一段と高まった。

例えば、多くの仮設住宅では手工芸が重要な仕事だった。しかし仕事の情報と配分をめぐって対立が生じる。コミュニティから排除される人が現れる。共同体にはプライバシーもほとんどないため、陰口を言う人も出てくる。

元々仙台に住んでいなかったが、被災し移住してきた人が2000人余りいた。新しく来た人々は働き口もなく、人間関係も孤立していた。彼ら自身、お互い誰がどこにいるのか知らない。ところが、そうした情報を行政はプライバシーを理由に提供しなかった。そのため、個人や非営利団体が助けようとしても助けられなかった。

仮設住宅にも「格差」があった。ある仮設住宅には多くの支援が寄せられたが、別の場所にはあまり来なかった。例えば、最も大きな仮設住宅には天皇・皇后両陛下が訪れ、多くのNPOがそこを支援した。支援物資が多く調整できないほどだった。そのため、仮設住宅の間でも対立が生じた。

被害が大きかった家と、比較的小さかった家の間に摩擦が生じる。新たに建設できる仮設住宅の数は制限されている。土地と財源が十分ではないからだ。仙台市は個人所有のマンションを一部借り受け、準仮設住宅として提供した。仙台市には8000戸の準仮設住宅があった。よりよい家に入居した人と、そうでない人の間にも対立が生まれる。

被災者とそうでない人も対立する。仙台に元々住んでいた被災者は「被災者がもっと支援を受けようとして人を騙す」という話を公然とする。被害がほとんどないのに、金と食べ物とサービスを受け続けているという批判だ。

こうして3年が経ち、救援物資とボランティアはほとんど途絶えている。

大橋氏が出した結論はこうだ。

震災前から貧しく疎外されていた人が、さらに貧しくなり疎外されている。経済力や社会的資本がある人々は仮設住宅からすぐに出ることができた。そうでない人は出ることもできない。実は震災後に明らかになったすべての問題が震災前からあった問題だ。震災がその問題をさらけ出しただけだ。格差の問題、貧困、農村問題などすべてそうだ。

大橋氏の目にとまった最も大きな問題は子供の貧困だった。例えば、仮設住宅で会ったシングルマザーには子供が10人いた。ところが、学齢期の子供を学校に通わせていなかった。母は仮設住宅から出ようとすら思っていなかった。こんな子供たちをどうするのか。その問いかけから大橋氏の活動が始まった。

彼が始めたアスイクは仙台市と協力し、新たな事業を始めた。アスイクは教室とプログラムを提供し、自治体は資金と情報を提供する。アスイクが問題と解決策を提示し、必要な資源の一部を市が提供する。市の最も重要な役割は、困難な子供がどこにいるか知らせ、その子供を探し出せるよう情報を提供することだ。

アスイクのミッションは明確だ。貧しい子供たちが後に経済的に自立できるよう、最低限の力を持たせることだ。アスイクが教育の対象としている子供の大半はシングルマザーの家庭だ。その子供たちの大半は基本的な読み書きの力もない。小学校で問題が生じれば、その問題は続く。その子供たちが学習能力をつけ、少なくとも高校に進学できるようにするのがこの団体の目標だ。

このためにアスイクは課外学習プログラムを始める。学校から帰ってきた子供が学習を続けられるよう支援している。シングルマザーは働かなければならないので、放置すると子供一人になってしまう。

問題は実際の教育をどうするかだ。アスイクはe-ラーニングを選んだ。

少人数のグループごとに教師をつけるのは財政的に難しい。最初はボランティア教師で進められるが、長期間ボランティアをできる人は少なく、頻繁に教員が交代すると子供たちに良くない影響を与えるかもしれない。授業の質も保ちにくい。

かといって自宅でe-ラーニングをするよう指導することも難しい。経済的に困難な家庭の子供にはさらに難しい。そこでコンピューターを提供して、教室でボランティアが簡単に指導しながらe-ラーニングを進める。子供たちの興味も引きながら授業ができ、事業モデルとしても拡張性が高い。新しい地域で始めるときも、新たに教師を採用する必要がないからだ。

アスイクは良いパートナーを見つけた。

まず、e-ラーニングのプログラムを、もともと教育事業を進めていた企業から寄付された。企業から見ると、追加費用が大きくかからない社会貢献活動だ。

また、地域の生活協同組合から教室を借りることができた。生協は主に組合員のための生涯学習事業をしているが、この教室を、課外授業に使用するのだ。

地域の就労支援センターとも連携した。教育対象とする子供の親や兄弟はほとんど雇用の問題を抱えている。児童相談の過程で知った問題を就労支援センターを通じて解決できるよう、情報を提供する。

すると、仙台の華やかなネオンは何だったのか? それは復興バブルだった。

お金は回っている。しかし、生産が回復して金が回るのではない。政府が資金を投入して建設工事をし、一時的に回っているのだ。工事が終わる2~3年後には、すべて消えるバブルだ。

人は集まっている。しかし、地域が魅力を回復して人が集まっているのではない。都市周辺の、より困難な地域の人々が生活できなくなって大都市に向かう。まだここには復興バブルがあるから、今は働き口がある。

ふと、韓国の旧炭坑地域が頭に浮かんだ。閉山後の地域振興事業として建てられたホテルとカジノ施設「江原(カンウォン)ランド」が新しい施設を建てるたびに自治体は潤う。仕事が増える。商売は繁盛する。しかし、その時だけだ。2~3年が過ぎて工事が終われば元の木阿弥だ。かつて栄えた炭坑の街は完全に没落した。地元の人々は、物品の代わりにカジノ商品券を売って暮らしている。

大橋氏が語る仙台の姿は暗かった。しかし、仙台で社会の変革を夢見る大橋氏の姿には希望があった。「問題が見えるようになれば、むしろ解決しやすくなる」という青年の言葉に、高度成長期とは違う、新しい日本社会が生まれるかも知れないと思った。

希望は次の世代にあった。

この記事はハフポスト韓国版のブログを翻訳しました。

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