霞が関は大丈夫か? その二――異端的論考10

時代とともに、法令は変化についていけず歪んでいくものである。
Tokyo High Court Area, Aerial View, Pan Focus
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異端的論考10:本当に日本はやばいかもしれない:中篇

霞が関は大丈夫か? その二

先回の中篇:その一では、ラリってはや(逸)る官僚心理と官僚組織の肥大化について論じたので、今回の中編:その二では、戦後70年たった今、現在の省庁は社会の変化についていけず、そのあり方が如何に歪んでいるかについて論じたい。

この3月初旬に、安倍首相の「美容室でのヘアカット」は法令違反の疑いがあるというニュース報道がなされたのをご記憶の読者も多いかと思う。つまり、美容師が男性の髪をカットするのは「違法」だというのだ。冗談ではないのである。

厚生労働省健康局生活衛生課の見解は下記である。

「美容所での男性のヘアカットを一律で禁じているのではなく、『パーマ等の行為に伴う美容行為の一環として』なら認めています。ただし、男性の『カットだけ』という行為は、本来的には理容所でおこなわれる行為と想定しており、美容所でおこなってよいという整理はしていません。」

この根拠とされるのは、厚生省環境衛生局が1978年に各都道府県知事宛てに出した「理容師法及び美容師法の運用について」という通知である。その中の「美容師の行うカッティングについて」という項目に、「美容師が、コールドパーマネントウエーブ等の行為に伴う美容行為の一環として、カッティングを行うことは、その対象の性別の如何を問わず差し支えないこと。また、女性に対するカッティングは、コールドパーマネントウエーブ等の行為との関連の有無にかかわらず行って差し支えないこと。」とある。この文言は明らかに、理容業の保護としか取れない。時代を考えるに、理容師の拠りどころであった剃刀を使う行為に意味が無くなる中での理容業界の圧力の結果ではなかろうか。事実、1970年代終わりにかけて、理容師数と美容師数が逆転している(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3550.html)。

しかし、お役所の温情の甲斐もなく、理容業は時代に合わず衰退し、理容師の子弟が理容業を継がず、美容師になるケースが多い現実のなかで、再び、このご回答立派である。2013年の時点で、理容師は23.4万人、美容師は48.8万人と美容師は理容師の倍の人数がいる。この差は今後一層拡大していくのではないか。この差の拡大の中で、男性の美容師(3人に1人程度と言われる)が増えていくであろう現実はおかまいなしである(理容師数が減少傾向の中で、女性の理容師が増えているのであれば興味深いのだが、寡聞にそのような話は聞かない)。法律がある以上、現実がどうあるかは関係がないと言うのがお役人なので仕方がないとも言えるが、穿った見方をすれば、衰退に歯止めのかからない理容業界の再度の保護とも、髪を切ることを生業としたければ、理容業は男の仕事、美容業は女の仕事という古に戻れとも言っているとも言えよう。法令にあれば、実態とかい離した通知を繰り返す官僚と言う存在が社会を変えられる存在ではないことを明白に示していると言えよう。

4月1日に施行された渋谷区の同姓婚条例は、社会の多様性の観点で、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)が市民権を得る中で現実を見据えた対応であるのだが、それをめぐって、安倍首相が日本国憲法第24条にある「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、(以下の文言は安倍首相の興味の範疇ではないであろうが)夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とあることを引き合いにだして、同姓婚については慎重に議論すべき課題であるべきと参議院予算委員会で述べた。この憲法の規定は、親が当事者の意思を無視して結婚を決める戦前の「家」制度を否定し、当事者(第24条では、当時の常識を前提にして婚姻する当事者2人を両性と表現したまでである)の自由を尊重して家族関係形成の自由・男女平等を目指したものであり、安倍首相の発言は、奇しくもまさに、「美容室でのヘアカット」の議論同じ、法令の制定の背景と現状を無視したたんなる詭弁である。官僚も政治家もこの点では同じ穴のムジナである。

時代とともに、法令は変化についていけず歪んでいくものである。もともとは国民(消費者やサービス利用者)を保護するための法令が、いつの間にか社会環境の変化についていけず、法令(規制)で規定されている業者を守るためのものになり、それが監督省庁の利権となり、法令を変えるべき政治家は利権を守る族議員になり下がり、結果、利用者としての国民は蔑にされる。規制は必ず利権(レントシーキング)を生むのである。今回の件は、お笑いのネタではあるが、官僚存在の本質という点では同じであろう。一事が万事である。

グローバル化が急速に進む中で、社会の変化の程度と速度は一層高まってきているので、このようなケースが多出することになる中で、こうした性格を有する官僚機構が総理大臣と一緒に、日本を変えると言っているのである。筆者は、かなり暗くなる。

ここで、省庁の存在そのものについて考えてみたい。まず、農林水産省である。戦後の昭和二十年代後半(1950年代前半)の農業就業者数はおおよそ1400万人(1960年の1454万人がピーク)であった。全就業者数がおおよそ3900万人であったので、三分の一強である。これであれば、農林水産省の存在の意味はあろう。しかし、直近の農業就業者数は、2013年で239万人(林業と漁業就労者は合わせて24万人程度)、そのうち農業専業従事者は、174万人しかいない。その平均年齢は65歳を上回る。一方、総就業者は、6300万人である。比率を考えていただきたい。農林水の就業者で4%、専業従事者では3%未満である。GDPの寄与としては、1.2%程度(2012年のGDPは473.8兆円、農業関連は4.8兆円、林業関連0.14兆円、漁業関連0.75兆億円)である(http://www.maff.go.jp/j/tokei/sihyo/)。

農林水産省は、2015年度の予算要求で、2.65兆円を要求しているのだが、これは、国の実行上の予算額(国家予算総額である96.3兆円から国債費の23.5兆円、地方交付税の15.5兆円、国民全員に関わる社会保障関係費の31.5兆円を引いた25.8兆円)の一割以上に当たる。このような予算額を農林水産省が要求し続ける意味は見出せないのではないか。農林水産省は、国産食糧は重要だ、稲作は日本の文化だというかもしれないが、国民の食糧の問題であれば、現在の農林水産省という形態である必然性はないのではないか。稲作は日本の原風景であり、日本文化の基底であるというのであれば、環境省か文化庁にでもお願いすれば良いのではないか。要は、この二つの理由をもって、農林水産省が必要であるとはならないのではないかということである。単刀直入に言えば、現状は、かつての農民の為に農林水産省が存在したのとは正反対に、農林水産省の為に農民の存在が必要であるという状況であるといえよう。そもそも、安倍政権の主張するように農業を成長産業(疑問ではあるが)という事業と捉えれば、農業と農林水産省は対応関係にはない。そして、その改革の目玉として全中を無力化し、引いては全農にメスを入れるのであれば、戦後二人三脚をしてきた農林水産省という組織(戦後、農林水産省は大蔵省から相続税の特例措置をとりつけ、それ以来、農民をやめることはできるが、農民にはなりたくても、誰でもがなることはできないというある種の固定階級をつくったといえる。これを権益以外の何と言えば良いのであろうか)にメスを入れないのは片手落ちであろう。全農や全中の解体の話は聞くが、省庁の解体は不可能と思っているのか、農林水産省の解体については耳にしたことがない。しかし、省庁の解体は不可能ではない。事実、イギリスでは、2001年に口蹄疫対応の不備という経緯もあり、日本の農林水産省にあたるMAFF(Ministry of Agriculture, Fisheries and Food)が解体されている。農林水産省の例は、省庁としてその存在を正当化する基盤が喪失している、つまり、使命が終わっているにも関わらず、生き延びようとする日本の組織の典型であろう。

次に経済産業省である。高度経済成長時代の護送船団方式や炭鉱などの国内産業の整理などのように、国家主導の産業政策が意味をもって、機能していたのが通商産業省時代である。しかし、不可逆のグローバル化が急速に進むなかで、国家の力が低下し、企業と国家の利害が一致しない(グローバル化する企業にとって、国家の利害は関心の範疇ではない)状況の中で、半導体産業などのような国内産業の整理、つまり、後ろ向きの産業政策であるならばまだあるかもしれないが、国家主導で日本を成長させると主張する産業政策はかつてのような実効性は期待できず、現実的ではないので、特許庁や中小企業庁は必要であろうが、本省の必要性には首をかしげたくなる。実際、人心も含めて、本省の空洞化はかなり進んでいると聞く。

この2月末の新聞の記事に、政府がICT(情報通信技術)分野で世界的影響力を強める米グーグルに対抗する戦略づくり(3つのテーマのうちの第一が「グーグルに対抗しうる企業の育成・支援に向けた取り組み」)を進める(経済産業省が核となる)というが、中国式の閉鎖形式以外で、まだ国家主導で産業政策ができると考えていること自体が、ビジネス界のまともな面々からするとすでに終わっていると思うのではないか。

かつて、「日の丸検索エンジン」開発プロジェクトである「情報大航海」という経済産業省が進めるプロジェクトがあったのをご記憶の読者もいるのではないか。2007年度から3年間にわたって行われた、この経済産業省主導のプロジェクトは、150億円の税金を投入、結果大失敗に終わった経緯があるのだが、無謬である官僚機構である経済産業省は、その失敗についての明確な総括は行っていないし、反省もしていないのであろう。無謬である官僚の辞書には失敗はないので、反省はしないが、教訓は学ぶのでずる賢くなる。今回も税金の無駄遣いは必至であろう。

このグーグル対抗国家戦略のテーマには、前述した「グーグルに対抗しうる企業の育成・支援に向けた取り組み」以外に、「グーグルによる市場独占を防ぐための法規制のあり方」と「ICTサービスの利用履歴などの個人情報保護に向けた方策」があるようだが、現実的には、後者の二つのテーマについても実効性に乏しい、お絵かきをする程度であろう。それでは、産業政策には全くならないので、経済産業省の意味もないのだが。今、ICT(情報通信技術)分野で求められるのは、政府は、国家の力を誇示するために、多くの消費者の選択の自由の制限と企業活動の邪魔をしないということである。

そして、もし、経済産業省が、一部で盛り上がる「クールジャパン」を背負って、税金を投入し、日本の将来を背負うと真顔でいうならば、読者諸兄はどうお考えになるであろうか。これは、やることがなく、存在意義の低下した、現在の経済産業省を象徴しているとしか言いようがなかろう。かつて、産業政策が必要であったので、通商産業省が存在したのだが、今は、逆に経済産業省が存在するので産業政策が必要なわけである

この意味で、経済産業省も使命が終わっているにも関わらず、生き延びようとする日本の組織の典型であろう。実際、経済産業省は、霞が関になかでも、余計な仕事をつくる能力にたけていると揶揄されていると聞く。予算規模の割には、税金の無駄遣いを進める経済産業省の影響力を侮ってはいけない。民間企業であればまだよいが、組織の目的が明確化されており、責任を取らない公的組織(官僚組織)が、本来の存立の目的を変えて組織的に生き延びようとするのは公的な税金を使って行われるべきことではない。

次に、厚生労働省をみてみたい。前述の農水省のところで、2015年度の国家予算の中の国民全員に関わる社会保障関係費は31.5兆円と言ったが、これは、厚生労働省の2015年度予算要求額である31.7兆円(2014年度予算から、約一兆円の増加)に当たる。2015年度の国家予算総額である96.3兆円から国債費の23.5兆円、地方交付税の15.5兆円を引いた57.3兆円の55%を占める。これに加えて、厚生労働省は、2015年度要求・要望額で60兆円の年金特別会計も有している。年金に比べて額はかなり小さいが、2015年度要求・要望額で3.7兆円の労働保険特別会計も有している(http://www.mhlw.go.jp/wp/yosan/yosan/15syokan/dl/01-01.pdf)。この特別会計や地方自治体の支出を含んだ全体費用である社会保障給付費(現在は、社会保障費用という用語が使われている)も見てみると、2014年の予算ベースで115.2兆円と巨大である。超高齢化が進むので、この社会保障給付費は毎年3兆円ずつ増加していくことが予想される(http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/05.pdf)。

一つの官庁が国家予算のこれだけの割合を有し、莫大な社会保障給付費に関わるのは、明らかに異常であり、組織のバランスを欠くものといえる。肥大化し、今後も肥大化を続ける厚生労働省の解体・分割を真剣に考えるべきであろう。例えば、年金と医療の監督官庁を異なるようにするなどである。それでも、巨大かつ肥大化はするのであるが。確かに、厚生労働省の縦割り意識の強さは、霞が関のなかでも有名であり、事実上は局や課が違えば別の役所という指摘もあろうが、省という霞が関DNAの強さを考えると、頭を厚生労働省と言う一つのものにしないことが必要ではないか。また、この社会保障関係費の肥大化は、主に社会の超高齢化によるものであるので、年金受給者である高齢者を担当する高齢者省をつくって、厚生労働省から切り出すと言うのも組織効率を考えると一案であろう。今後の急激な超高齢化を考えると、この高齢者省も肥大化をしそうではあるのだが。

地方の箱もの公共事業の総本山である国土交通省を農林水産省と同じように見てみると、2015年度の予算要求額は6.7兆円であり、国の実行上の予算額である25.8兆円(国家予算総額である96.3兆円から国債費の23.5兆円、地方交付税の15.5兆円、国民全員に関わる社会保障関係費の31.5兆円を引いた25.8兆円)の約3割に当たる。これは、やはり、土建国家であることの証左であろう。国土強靭化計画で一層勢いづく国土交通省である。その一方で、国土交通省の6.7兆円と比べて、31.7兆円という厚生労働省の一般会計予算額が如何に大きいかがわかるのではないか。

次に文部科学省を見てみよう。この省も、基本は、農林水産省の為に農民が必要、経済産業省のために産業政策が必要というのと同じで、戦後のように、より良い教育制度のために文部科学省が必要なのではなく、現在は、文部科学省の為に教育制度が必要ということである。文部科学省は考える教育が必要であると言うが、彼らが批判する現状の考えない教育制度が生み出した精華である文部科学省のキャリア官僚が、どうして考える教育をつくることができるのであろうか。説明をしてほしいものである。官僚組織は基本的に、自己否定できないので、いくら口でいっても、本質的な変更はできないはずである。

ここで一例をあげてみよう。文部科学省は、昨年の9月に「スーパーグローバル大学(このネーミングのセンスはどうにかならないであろうか)創成支援採択校」の37大学を発表している。文部科学省は「スーパーグローバル大学創成支援」事業の目的を「世界レベルの教育研究を行うトップ大学や、先導的試行に挑戦し我が国の大学の国際化を牽引する大学など、徹底した国際化と大学改革を断行する大学を重点支援することにより、我が国の高等教育の国際競争力を強化すること」としている。誠に高邁な目的であり、反論のしようがない。ところで、この「スーパーグローバル大学創成支援」事業の前に、「グローバル30」という支援事業があったのをご記憶の読者もいるのではないか。2020年を目処に30万人の留学生の受入れを目指す「留学生30万人計画」が2008年7月に策定され、30万人という数にちなんで、「グローバル30」と呼ばれていた(https://www.uni.international.mext.go.jp/ja-JP/global30/)。2014年5月1日の時点での留学生数は、184,155人であり、30万人には遠く及ばない。前年比で16,010人(9.5%)増ではあるが、この伸びは日本語教育機関によるものであり、これをもって留学生数が順調に伸びていると言う説明は、「留学生と切磋琢磨する環境の中で国際的に活躍できる高度な人材を養成する」という目的とは少しずれてはいないであろうか(留学生が日本語を習得後にどうなるかは分からない)。30万人という数字合わせがお役人には大事なので、文部科学省にとって、内実はどうであっても問題はないのであろうが。

高等教育機関在籍の留学者数の伸び悩み(http://www.jasso.go.jp/statistics/intl_student/documents/data14_2.pdf)の理由として、東日本大震災による原発事故があったという説明があったりもするが、現状の留学生の半数以上が中国人であり(http://www.jasso.go.jp/statistics/intl_student/ref11_02.html)、長期政権を目論む安倍首相の引き起こす中国政府との政治的緊張関係を考えるに、2020年までに留学生受入が30万人に到達するとは考えづらい。そして、中国人留学生が半数を超える中での「留学生と切磋琢磨する環境の中で国際的に活躍できる高度な人材を養成する」という「グローバル30」の目的とは、多くが、英語ではなく、日本語しか話せない(であろう)中国人の留学生と「切磋琢磨し、国際的に活躍できる人材になる」と言うことになるのだが、これで文部科学省の言う「この計画の達成を目指し、留学生受入体制の整備をはじめとする大学の国際化へ向けた取組を実施し、留学生と切磋琢磨する環境の中で国際的に活躍できる高度な人材を養成する」という「グローバル30」の目的達成の道筋が見えるのであろうか。筆者には、そうは思えないのであるが、それがうやむやなうちに、今回の「スーパーグローバル大学創生支援」の導入である。本来は、「スーパーグローバル」というのであるから、「グローバル」である「グローバル30」の目的の目処がついた上で「スーパーグローバル大学創生支援」を開始すべきであると思うのだが、「グローバル30」の目的達成の目処の総括が行われたようには思えない。むしろ、政策としての「グローバル30」は賞味期限切れになり、もう予算がつかないので次の予算確保のお題目が必要という役所の論理と見る方が適切であろう。

さて、鳴り物入りの「スーパーグローバル大学創生支援」であるが、この支援事業に選定された大学には二種類ある。タイプA(トップ型)と言われる「世界ランキングトップ100を目指す力のある大学」とタイプB(グローバル化牽引型)と呼ばれる「これまでの取組実績を基に更に先導的試行に挑戦し、我が国社会のグローバル化を牽引する大学」(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/26/09/1352218.htm)である。面白いのは、選定された大学である。トップ型(4億2千万円補助)には、 北海道大学、東北大学、筑波大学、東京大学、東京医科歯科大学、東京工業大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、広島大学、九州大学、慶応義塾大学、早稲田大学 の13校。グローバル化牽引型(1億7千万円補助)には、 千葉大学、東京外国語大学、東京芸術大学、長岡技術科学大学、金沢大学、豊橋技術科学大学、京都工芸繊維大学、奈良先端科学技術大学院大学、岡山大学、熊本大学、国際教養大学、会津大学、国際基督教大学、芝浦工業大学、上智大学、東洋大学、法政大学、明治大学、立教大学、創価大学、国際大学、立命館大学、関西学院大学、立命館アジア太平洋大学の24校である。 読者の中には、そのほとんどは、前から選ばれることが分かっていた大学ばかりではないかと思われた方も多いかと思う。驚きとしては一橋大学の選定漏れであろう。つまり、多少の御愛嬌はあるが、基本線は現在の大学の序列と何が違うのかである。タイプAには旧帝国大学と私学の両雄が名前を連ねる。確かに留学生の受け入れ数でみれば旧帝国大学(http://www.jasso.go.jp/statistics/intl_student/ref11_02.html)と私学の両雄がタイプAである理屈はつくのだが、日本人学生の海外留学者数で見ると、お話は異なる。トップ20に流石に私学の両雄は入っているが、旧帝国大学はどれも入っていない。かろうじて、広島大学が19位に入っているだけである(http://www.jasso.go.jp/statistics/intl_student/ref12_s_01.html; http://www.jasso.go.jp/statistics/intl_student/data12_s.html)。この意味で、今回の「スーパーグローバル大学創成支援採択校」の慎重かつ公平な選定にあたって、筆者としては重要と思われる日本人学生の留学実績はあまり勘案されていないようである。

これが、旧帝国大学の日本人学生のグローバル適応の現状である。そもそも親が子供を旧帝国大学のような「一流大学」に入れることで人生一件落着と思うのであるから、東京大学を筆頭に旧帝国大学の学生、それも、男子がリスクを取ってまでつらい留学などしないのは無理もない。事実、旧帝国大学では留学生枠が大きく余っているのが現状のようである。旧帝国大学は留学生を多く受け入れたが、肝心の日本人の学生は外を向いて積極的に留学するようになっていない。つまり、旧帝国大学では、日本人学生の意識変革というグローバル30の根源的な目的は達成できていないと言うことではなかろうか。

現在の日本の大学のグローバル化にとって、中国人が大半を占める留学生受け入れと日本人学生の海外留学とどちらが重要なのかは明白であろう。日本人の海外留学生を増やす方が、はるかに優先度が高いのではないか。であるとすると、この「スーパーグローバル大学創生支援」という事業は何なのであろうか。内実のない文部科学省の予算取り以外に説明がつかないのではないであろうか。別の言い方をすれば、文部科学省に都合のよい大学の序列を、見せ方を変えて固定化を図り、本来必要な抜本的な改革を先送りにしているとも言えるであろう。

余談だが、文部科学省も流石にグローバルですらないのが、ごく一部を除く日本の大学の現状であることを理解しているのであろうか、スーパーグローバルという名称を英語で言うのは流石に恥ずかしかったらしく(Super globalという表現は、優れて官僚的日本語英語であり、英語的には違和感を覚えるが)、Top Global University Projectと訳している。文部科学省にも、少しは神経があるわけである。数年後に、このスーパーグローバルの賞味期限が切れるころには、ハイパー・グローバル・ユニバーシティ・プロジェクトが出現するのであろう。

このような現状であり、現実を見ないで、プログラムをつくるので、2012年10月に鳴り物入りでつくった東京大学の教養学部英語コース、通称PEAK(Programs in English at Komabaの略称で、初等・中等教育を日本語以外で履修した学生を対象として駒場で行われる英語の授業で東京大学の学位が取れるという、英語の履修プログラムである)の2014年度合格者のうちの7割近くが東大を蹴って、オックスフォード大やケンブリッジ大、マサチューセッツ工科大(MIT)などに進学したのだそうだ。外国人受験者に、日本の最難関とされる東大が「滑り止め」にされる事態であると(https://www.huffingtonpost.jp/2015/03/28/what-is-peak_n_6960556.html)報じている。筆者が当事者であってもこの判断は当たり前であると思う。これが東京大学のグローバルな世界での身の丈なのであって、驚くにはあたらないのだが、それがニュースになる時点ですでに終わっていると言えよう。「スーパーグローバル大学創生支援」タイプA(トップ型)大学である東京大学は、グローバルな市場では競争力がないと言うことである。

この東京大学のプログラムは、学生に上げ膳据え膳状態(書類専攻と担当の教員が海外現地まで赴いて面接するそうである)までした上で、38人、49人、61人と合格者を増やしている(2012年度の志願者数は238人、合格者は38人、入学者数は27人。2013年度の志願者数は199人、合格者は49人、入学者は23人。2014年度の志願者が262人、合格者が61人、入学者は20人)のに、この辞退率の悪化(2012年度が29%、2013年度が53%、2014年度が67%)であるので、プライドの高い東京大学としてはショックであろう。しかし、英語を話す外国人の学生に聞けば、アニメなど日本に特段の興味がなければ、英語を話す優秀な学生が東京大学であろうと日本の大学に留学する特段の理由はないという。この20人程度の留学生の数が、東京大学の魅力が効く範囲であろうから、せっせと合格者を増やしても意味がないということであろう。

実際、今回の「スーパーグローバル大学創生支援」事業は、官僚の作文としては正しく、制度改革と組み合わせて重点的支援と称しているが、永田町の政治家同様に、万策尽きて、現実と大きくかい離している官僚組織の姿を露呈しているのが現在の文部科学省であろう。迷走を始めたと言っても良いかもしれない。

もし、文部科学省が真剣に日本の大学教育を変えたいのであれば、文部科学省自体も、その変革の例外ではなく、むしろ率先垂範して自己改革をすべきであるが、官僚組織は事自己否定できないので変わることはできない。つまり、文部科学省に日本の大学教育の根本的な変革を期待することはできないと言うことである。実際、本当に大学のレベルを上げたければ(正確には団塊の世代の学生時代のレベルの維持であるが)、この少子化の現状のなかで、団塊の世代時代に設定された日本人の入学定員をまず半分にすることから始めるのが、日本の大学の能力を向上する第一歩であろう。しかし、それでは、文部科学省の予算額と天下り先が減るので決してしないのだが。

税収をはるかに上回る、現在の膨れ上がった予算を見るに、チンギスハーンの片腕であった耶律楚材が言ったという『興一利不如除一害、生一事不如省一事(利益になることを起こすよりも害をなくすことの方が大事である。何かを生むよりも何かを省くことの方が重要である)』が今の日本にはまさに必要だろう。現在の安倍政権が、正当化し、加速化させている、効果性も結果も検証せず、責任も取らない財政出動という名の予算のばらまきと官僚機構の肥大化は目に余る。企業より質の悪いのは、補助金と称して、国民の税金を予算として勝手に使い、失敗しても責任をとらないことだ。

今のように官僚組織を維持するために、何か新しいことをしなければならないという発想そのものが、役所の肥大化と無駄を招くのである。政府と役所は、必要悪な存在であると思うことが大事である。必要悪は、最大化ではなく、最小化すべきものであろう。しかし、政府と役所は、自己の権益を最大化したいので、予算をばらまき、そこにぶら下がる国民を増やすのである。結果、弱者を守るという名目の所得再分配装置という権益構造装置を守り、それを拡大するために、結果レントシーキングが起こる。この意味で、耶律楚材の言は大きな意味を持つ。この言の意味するところを国民が理解し、政府に実行させることが、構造改革の第一歩ではないのか。

そもそも、社会の多様化を促進するといっている一方(実際は、多様化してほしくないというのが政治家と官僚の思いであろうが)で、標準モデルで一律にしか管理のできない官僚機構を強化しようとするのは矛盾する。今後、一層官僚機構が非効率な存在となるのは自明であるので縮小すべきであるが、今の流れは逆である。官僚組織が無謬であるという前提は、便宜的に官僚にとっては必要であるが、本質的に官僚が無謬では当然ないので、社会が変化・多様化するなかで、その無謬性は負のスパイラルに入ることになる。

日本の官僚・省庁制度は完全に構造疲労を起こしているのではないであろうか。しかし、残念なことに、自己改革は政治家同様できないということを我々は心すべきなのである。

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