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日本人は、なぜ議論できないのか

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一般に、「日本人は議論が苦手である」と言われている。そもそも、日本人は議論が好きではないようだ。このことは、「議論(意見)を戦わせる」などの用法に顕著なように、日本語の「議論」という言葉には、攻撃的な含意が強いことに見て取れるのではないか。議論という言葉だけではなく、英語のcriticalの批判的を非難の意味で捉たり、aggressiveを積極的というよりは攻撃的と思っているふしがある。

つまり、「こころ」優しい日本人は、言葉にせよ、態度にせよ、自者を積極的に他者に対峙させること自体、とかく攻撃的なので良くないと考える傾向が強いのかもしれない。本来、自者と他者の対峙は、論理的・建設的な議論の前提として必要でこそあれ、攻撃的であるか否かとは別物であるにも関わらず、である。

現に、KY(空気が読めない)に代表される暗黙の疎外圧力は、対峙とは程遠いが、KYとみなされた者に対して極めて攻撃的である。極端なものには、暗黙裡に『和を尊ぶ』農耕の民だから、(より正確には、水利が極めて重要な稲作の民であり、突出は負の効果しかないので、共同体内の出る杭を打ち、沈む杭を拾うのが理にかなった護送船団≒『和を尊ぶ』社会なので)日本人は議論(論を闘わせる)をしないと言わんばかりの言説もある。読者の方々の中でも、繰り返される日本社会同質論に馴染んでいる方々は、上記の言いように、さして違和感を覚えない方もいらっしゃるかもしれない。

しかし、加速度を増す不可逆なグローバル化に日本社会が否応なしに適応を迫られるなかで、「日本人は議論が苦手である」という問題を、「日本は『こころ』優しい同質社会だから」という説明で片付けるわけには、もはやいくまい。そもそも、「こころ」優しい日本社会そのものが、四半世紀に及ぶ政治家と官僚の無策・愚策による世代間格差が急速に悪化する中で、信頼感、公平感、一体感を急速に失いつつあるのが現実であろう。

この連載で、日本社会のグローバル化への適応を視圏にいれて、「日本人は議論が苦手である」という問題を掘り下げて、日本社会の多面的な解題を行ってみたい。

まずそのためには、日本語の議論とは、そもそも何を意味しているのかを整理して、定義をすることから始めたい。その定義を行う前に、読者の方々に、「日本人は議論が苦手である」は「問題」であるか「課題」であるかを考えていただきたい。

一般に、問題解決とか課題解決と言われるが、問題と課題は、同じものであろうか。実は、問題と課題は定義的に大きく異なる。簡単に言えば、問題は把握される現象であって、それを直接解決することは、実はできないはずである。

できるのであれば、問題は認識した時点で解決されるはずである。しかし、このアプローチでいくと、たとえば、「わが社の収益力は低い」という問題の解決策は「わが社の収益力を上げろ」となり、コインの表裏を替えただけで、問題現象は解消しない。

現象である「問題(problem)」を解決可能な(もれがなく、重複がない)「個別課題(issue)」に転換しなければ、問題現象は解消しない。つまり、一般に言われる問題解決の展開式とは、問題現象の把握、認識 → 問題の課題への転換 → 課題の解決 → 問題現象の解消のことを意味しているのである。問題と課題の違いをきちんと定義できなければ上記の展開式を導き出すことはできないということである。

本連載では、「日本人は議論が苦手である」という(現象である)問題を(解決可能な)課題にする試みを行ってみたい。

このように、言葉の定義は非常に重要である。しかし、日本人は、漢字の導入によって、幼形成熟してしまい、抽象概念に弱いと言われるやまと言葉(『漢字と日本人』高島俊男を参照)を日本語の基層にもつことによるのか、言葉≒概念の定義に対しての感度が低く、かつ、苦手であるといえる。

この感度の低さの例として、中央教育審議会大学教育部会の審議のまとめに出てくる「主体的に考える力」を挙げておきたい。読者の方々には、「主体的に考える」のなにが問題なのかを考えておいていただきたい。

次回は、日本語の「議論」とは、そもそも何を意味しているのかを整理して、定義をすることから始めたい。まず、言葉≒概念の定義をきちんと行わなければ、議論のしようもないのではないだろうか。