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集団的自衛権の意味するもの――異端的論考(2)

2014年05月16日 00時04分 JST | 更新 2014年09月02日 14時39分 JST

5月3日が憲法記念日だからというわけではないが、今回は、憲法第9条にかかわる集団的自衛権について異端的に考えてみたい。

就任以来、なにがなんでも集団的自衛権行使の容認へとひた走る安倍首相のおかげで、憲法への関心が高まり、憲法関連の書籍の売り上げが伸び、人々の間で憲法が話題に上るケースが多くなったという。憲法のことを正面からとらえることのない日本人にとって、今回の安倍首相の無理繰りにも、思わぬ副次効果があるわけである。

ここで、もう一度、日本国憲法の第9条の原文を読んでいただきたい。

第9条 [戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認] 

1 日本国民は、正義と秩序(ちつじょ)を基調とする国際平和を誠実に希求(ききゅう)し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇(いかく)又は武力の行使は、国際紛争(こくさいふんそう)を解決する手段としては、永久にこれを放棄(ほうき)する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これを、読者諸兄はどう読まれるであろうか。主権国家の3要件の主権・領土・国民のうちの主権を暗黙前提に置かないで、国語的に解釈すると自衛権の行使さえも放棄しているように読めないであろうか。それ故に、1959年の砂川事件判決で最高裁の大法廷は、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の(個別的)自衛権を否定しない」という見解をあえて示したわけである。主権国家の専権性が前提とされている国際社会における、この第9条の特異性ゆえに、奥平東大名誉教授の「憲法第9条を可能とする国際環境の実現のために、その存在意義がある」という趣旨の発言やノーベル平和賞候補としてノーベル委員会が推薦を受理したという事実が意味をもつわけである。

高尚な議論はひとまずおいて、集団的自衛権行使の容認について、論理的かつ現実的に考えてみたい。安倍首相は、「必要最小限度の範囲」で自衛権を行使できるという1972年の政府見解である「集団的自衛権と憲法との関係」を根拠に、この「必要最小限度の範囲」の解釈を拡大して、内閣の判断による事実上の第9条に関する憲法解釈の大きな変更を強行するようである。安倍首相の方便は、現在、核兵器や弾道ミサイルを周辺国が保有していることに加え、国際テロが増加するなど安全保障環境が大きく変化しているので、「必要最小限度の範囲」に個別的自衛権に加えて、集団的自衛権も加えるべきであるということになるのであろう。

しかし、その集団的自衛権行使の先例をみると、ベトナム戦争、2011年の911テロに端を発するアフガニスタン攻撃や2003年のイラク戦争などが該当すると考えられている。さて、これらを歴史的に振り返って、読者諸兄は集団的自衛権の行使の正当性と正統性をどうお考えになるであろうか。また、政府の言うように、歯止めが利くと思えるであろうか。

安倍首相が、如何に自己正当化しようとも、海外では今回の拙速な動きを危惧している。事実、5月8日のニューヨーク・タイムズ電子版は、「日本の平和主義憲法」と題した社説で、今回の内閣による憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の容認を民主主義の手続きを損なうものであると批判している。そして、最後に、憲法は政府の気まぐれで変更できるようなものではなく、今回の件は、まさに日本における民主主義の真価が試されていると述べている。まったく正論である。

実際、憲法解釈の大きな変更を時の内閣で行えるのであれば、内閣ごとに憲法の解釈が変えられるわけで、法治国家を自任するのであれば、かなり前代未聞の出来事であろう。安倍首相が私の全責任(どうやって責任をとるのか聞いてみたいところである)で変えるなどとのたまいて、独裁者気取りをやっている場合ではないのではないか。

ここで、集団的自衛権の歴史を見てみたい。集団的自衛権とは、ある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して共同で、攻撃国に対する防衛を行うことを国家に認めた国際法上の権利である。その歴史は、1945年に署名・発効した国際連合憲章第51条に遡る。国際連合の設立にあたって、常任理事国の拒否権を認めたことで、国連憲章で定められた欧州連合などの地域的機関が安全保障理事会の許可のもとでは、迅速な共同強制行動がとれなくなるおそれが高まり、安全保障理事会の許可なく行われる地域的機関の共同防衛に法的根拠を与えるために集団的自衛権が国連憲章に明記された経緯がある。北大西洋条約機構(NATO)などは、この集団的自衛権を強化・具体化するために創設された地域的機関と言える。しかし、1990年の冷戦終結後、このような集団的自衛権に基づく共同防衛体制の必要性は急速に低下していったといえる。問題は、今後再び共同防衛体制の必要性が高まるかであろう。

長くなったが、ここまでが憲法第9条と集団的自衛権の背景説明である。以下にICT(情報通信技術)の発展と絡み合った不可逆なグローバル化の進展という現在の大きな潮流の変化を前提に、現実的に集団的自衛権行使を容認する意味合いをどのように考えるかを論じてみたい。

1990年の冷戦終了後、事実上アメリカのヘゲモニーが確立し、企業と人が国境を越えて自由に行き来をすることで経済活動が活発化し、国家を超えて地球規模で、経済的、社会的、文化的、政治的側面での結びつきと相互依存がこれまでになく強化され、ICTの指数関数的発展によって、時間と空間が圧縮され、地球規模での物理的・論理的ネットワークが高密度に張り巡らされたと言える。ゆえに、国家を前提とする国際化という表現の代わりに、国家を念頭に置かず、地球規模と言う意味でのグローバル化という表現を使うわけである。多くの日本人は、この違いを理解して使っていないのではないか。

この大きな流れの中で、Naisbittがいう「The bigger and more Integrated the world economies become, the more powerful Its smallest players become.」というグローバルパラドクスが引き起こされ、国民国家は、上方統合(グローバル規模のことに対処するには小さすぎる)と下方分散(ローカルなことに対処するには大きすぎる)の圧力にさらされ、主権国家すら企業や個人に選ばれる存在となりつつあり、主権国家のもつ専権性は漸次低下しつつあるのが現状である。

この状況を見て取ったハーバードのジョセフ ナイ教授は、軍事力や経済力と言ったハードパワーから信条や文化といったソフトパワーが重要になるといっている。米国が中国と模索するジョイントヘゲモニー(ここでは、ナイは、両者を賢く使うスマートパワーといっているが、基本、軍事力の力は落ちている)とは、これまで考えていたヘゲモニーというものの意味の弱体化であろう。

事実、国家の専権性の低下によって、一国で判断・行動することが難しくなってきている。企業主導の国境を越えた経済活動の結合に対して、国家の経済政策は、現状の追認しかできていないのが現状であろう。法人税ひとつとっても、これは国家間の競争なので自国で勝手に高い税率を決めても不利になるだけである。軍事行動においても、シリアに対する米国やイギリスの制裁行動発動の失速、クリミア併合(ロシアの歴史をみれば理解できるが、大きな意味では勇み足である)後のウクライナに対する資源輸出に大きく依存するロシア(プーチン)のクリミアとは大きく異なる慎重な対応、紛争を二国間問題としか認識しないあの中国ですら、アメリカとの関係を考慮し(クリミアの独立・併合を認めると中国もチベットなどの爆弾を抱えることになる)、クリミア併合の件でロシアと一緒に拒否権を発動することはしなかった。つまり、主権だといって、一国で大きな単独行動を起こすことは難しくなってきているのである。

なぜならば、相互依存し、強固に結合してしまった経済・社会関係を犠牲にして軍事行動を起こすことは、失うものが多すぎるのであり、中国と米国は、かつてのソ連とアメリカの冷戦構造になることはあり得ないであろう。だれも得をしないので、大規模戦争の可能性は低いといえる。おもうに、テロリスト国家でもない限り、集団的自衛権を具体的に行使することはなさそうである。

国家を積極的に必要としない国民が増える一方で、主権の低下に悩み 領土のみしか残らない主権国家(これに手をつけたプーチンは一線を越えてしまったかもしれない)が、状況を受け入れられず、変わりたくないといっているのが現状であり、問題の本質は主権国家の専権性の低下であって、個別的自衛権が機能せず、行使をする可能性の低い集団的自衛権に安全を担保すると考えることもできるが、集団的自衛権行使を容認することが問題の本質ではない。

巨大な権益分配装置と化した国家はその権益を手放したくはないかもしれないが、国家の機能は縮小していかざるを得ないであろう。加速化する不可逆なグローバル化のなかで、変わりたくないとごねる国家、変わらざるを得ない企業、変わらなければならない個人(国民)という状況は、安倍内閣の閣僚が強要する国家・企業・国民の三位一体もはや機能しない状態にあることを理解する必要があろう。

実際、中国を念頭におく日本の集団的自衛権行使の容認であるが、もし、日米安保条約での集団的自衛権の行使を明記すれば、事実上、憲法第9条を放棄したと中国は言うであろう。そうすることによって中国は周辺的な活動をより硬化するであろう。彼らに、行動の硬化を正当化する理由を与えることになるのである。一方で、現状を維持して、集団的自衛権の行使を容認しないとすれば、今と同じような小競り合いが続くであろうが、中国が行動を硬化させる口実は与えることはない。どちらが、リスクが高いかは、明白ではないだろうか。米国とて、しばらくは中国とのジョイントヘゲモニーを想定しているのであり、積極的に軍事介入をする意図はあるまい。米国のグローバル秩序の維持にとって重要なのが、日本ではなく、中国であることは明白である。

それでは、なぜ、わざわざリスクの高い選択を安倍首相はしたがるのかである。安倍首相が集団的自衛権行使の容認を叫ぶには理由がある。祖父の岸信介が目指した革新官僚の夢である家父長的強権国家の建設は安倍首相のアジェンダであろう。しかし、現状は、その反対で、家父長的性格の国民国家は弱体化してきている。内政事情で強硬路線に走る中国を使い、中国を標的にした古典的なハードライン(強硬な)外交手法を用いて、強権的な国家主義の強化を試みているのが安倍政権の本質と言える。このような安倍首相が、国家主義の発揚のために、中国と一戦を交えることを辞さないと思うのも岸信介の不肖の孫としては理解できよう。しかし、中国と一戦を交えるには、アメリカの軍事的援助が必要であり、現行の日米安全保障条約では心もとなく、アメリカに頼るのであれば、アメリカが双務的な意味で集団的自衛権行使を容認しろと言うのは筋が通っている。アメリカが「この期に及んで、日米安保条約にまだ、ただ乗りするのか、いい加減にしろ」と言うのは当然であろう。

しかし、読者諸兄には、偉大な祖父を持った、時代錯誤の国家主義信奉者である安倍首相の火遊びにつきあって、火傷を負う気はおありだろうか。

もし、憲法を変えるのであれば、社会の要請を考えると、第9条ではなく、

第24条 [家庭生活における個人の尊厳と両性の平等]

1 婚姻(こんいん)は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持(いじ)されなければならない。

の改正がさきなのではなかろうか。