畏友、西部邁を葬送(おく)る  

わが友の冥福を祈る。
時事通信社

西部邁の最初の評論集は『大衆への反逆』(1983年)である。その最後の「反進歩への旅:あとがきにかえて」の中に、「現代における最大のタブー、それは大衆を批判することである。私がなぜこのタブーを侵すようになったか、しかも自分の怯懦と脆弱をよくわかっていながら、なぜそうするようになったか、その経緯は定かではない」という文章がある。

自ら78年の人生に幕を閉じた西部を葬送するのにふさわしいのは、やはりオルテガ・イ・がセットの『大衆の反逆』(1930)から、私が気にとめた言葉を書き出すことであろう。

* * *

「大衆が完全な社会的権力の座に登った。」

「近年の政治的変革は大衆の政治権力化以外の何ものでもない。」

「今日われわれは、残酷な大衆支配のもとに生きている。」

「今や大衆は、完全に無比無敵、絶対的な形で社会的権力を所有している。・・・ところが、それにもかかわらず社会的権力、すなわち政治はその日暮らしをしているのである。」

「彼ら(大衆)の最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。」

「野蛮とは、規則の不在であり、控訴の可能性の欠如なのである。」

「文明とは、何よりもまず、共存への意志である。」

「自由主義とは至上の寛容さなのである。」

「19世紀の文明が自動的に大衆人を生み出した。」

「ファシズムが実は典型的な大衆人の運動である。」

「世論に反して支配することはできない。」

「政治家というものは、・・・まさに愚鈍なるゆえに政治家たりうる。」

「デモクラシーの健全さは、・・・一に選挙という貧弱な技術的捜査にかかっている。・・・選挙制度が適格で現実に合ったものであれば、すべてうまく行くが、そうでなければ、それ以外のことがいかにうまく行ってもだめなのである。」

「ナショナリズムは排他的であるのに対して国民国家主義は包括的なのだ。」

* * *

わが友の冥福を祈る。

(2018年1月21日舛添要一オフィシャルウェブサイトより転載)

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