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「終活」におすすめ、自分の死に顔とのご対面セレモニー

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或る時八戒が俺に言ったことがある。「我々が天竺に行くのは何のためだ? 善業を修(ず)して来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、その極楽とはどんな所だろう。蓮の花の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけでは仕様が無いじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つ羹(あつもの)をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり皮の焦げた香ばしい焼肉を頬張る楽しみがあるのだろうか? そうでなくて、話に聞く仙人のようにただ霞を吸って生きて行くだけだったら、ああ、厭だ、厭だ。そんな極楽なんか、真平(まっぴら)だ! 仮令(たとえ)、辛いことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡(たの)しさのあるこの世が一番いいよ。少なくとも俺にはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木陰の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寐。冬夜の炉辺歓談。......何と愉しげに、また、何と数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! 殊に、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだ時、彼の言葉はいつまで経っても尽きぬもののように思われた。(中島敦「悟浄歎異」『山月記・李陵 他九篇』所収 岩波文庫)

「終活」なる言葉が一般的なものとして聞かれるようになって久しい。書店には各種エンディングノートやそれに関連する書籍が所狭しと並べられているし、「終活セミナー」なるものもそこここで開催されているようだ。これらのうちのほとんどは、実際に自らの死を現実的に捉えはじめた高齢者の方々を対象としたもののようだが、私は、終活的なものは、「生い先有り」の若者がやってこそ、意義深いものになるのではなかろうか、と思うのだ。

なにも、葬儀の形式を具体的に定めろとか、財産の相続のことを考えろとか、それこそエンディングノートをまとめろとか、そういった、現在一般的に出回っている「終活」というタームが表すような「実務的」な作業を若者に勧めるわけではない。私が言いたいのは、もっと概念的な......言うなれば「精神的」な「終活」のことだ。「人はみな、いつか死ぬ」。その誰もが知っている事実を、もっと自分に引き寄せて考えるための「終活」。それを、未来ある人々に勧めたいのだ。(って、こんなこと偉そうに言っている私も現在30歳。どちらかと言えば「若者」の部類に入れてもらえるような年齢ではある。)

若者に限らず、みな、「死は自分にも確実に訪れる」ということを、もっとリアルに知ると良いのではないだろうか。生と死は一対。自分の「死」を考えることは、そのまま自分の「生」を考えることにつながる。「自分もいつか死ぬ」。でも、「いまは、生きている」。その現実を、心の底から実感できてはじめて、「生きる」ということが、本当の意味で始まっていくのではないだろうかと思うのだ。

さて、具体的な「終活」の方法としておすすめなのが、「自分の死に顔を超リアルに思い浮かべる」というものだ。私自身、ごくたまにこれをやるのだが、一円もかからないし、道具も必要ないし、どこででもできるし、なのに効果は絶大で、なかなか良いです。(どういう効果かは後述。)やり方は超簡単。

  1. ゆったりと、リラックスできる姿勢をとる。椅子に座るとやりやすいです。
  2. 目をつぶり、軽く深呼吸などして気分を落ち着かせる。
  3. 自分の死に顔を想像する。表情、色、質感等、細部まで、ものすごくリアルに。
  4. 棺に横たわる自分の死に顔を、自分の葬式の弔問客として覗き込む。
  5. 故人となった「自分」のこれまでの人生を、弔問客の立場から想像してみる。
  6. 以上。

私が最初にこの方法を編み出したのは、かつてない程の自己嫌悪に陥っているときであった。とにかく自分のしたことが許せず、あの時ああしていれば良かったのではないか、こうすればこんなことにはならなかったのではないか、ああ自分はどうしてこんな人間になってしまったのか、との自問自答を繰り返し、夜も眠れなかった。眠れないならば、いっそのこと「想像の中で」大嫌いな自分を殺してみるか、と思ったのが始まりだった。このように、たいそう自虐的、かつ多分に暴力的な気分に駆られての行為であったが、意外や意外、私はこの方法によって、むしろ自分自身を、限りある「生」を持った、はかなくもたまらなく愛おしい存在として、客観的に認識できるようになったのだった。その「引き」からの視点が、自己嫌悪の沼に溺れる自分自身を救ってくれた。

棺に横たわる自分の亡骸は、そしてその死に顔は、たいそう白く、細く、頼りなく、そして少しだけ苦しそうだった。それを客観的に見つめた瞬間、「ああ、この人も一所懸命に生きてきたんだなあ」「馬鹿なこともたくさんやってきたけれど、それでもその時の最善をこの人なりに懸命に選んで、ただただ必死で生きてきたのだ」と、そんな風に思えたのだ。こうして書くとナルシシズムの塊のようで気持ち悪いのだが、しかし、そう思った瞬間、私は確かに、「自分」なんてものを軽く飛び越えた、大いなる「ゆるし」の気持ちが湧き上がってくるのを感じたのだ。それは存在そのものへの「ゆるし」だった。生きとし生けるもの、すべてかなしく、愛おしい......。そんな人類愛とも呼べるような大きな感情が、自分自身をすっぽりと覆ったのだ。

現実の世界に戻ってきたときには、私はあんなに嫌いだった自分自身のことすら、すっかりゆるしてしまっていた。そして、「限りある命を、自分なりに精一杯生ききってやろう」なんてちょっと青臭いようなことを大真面目に思っている自分を発見したのである。まあ、いまだに、しばしば自分一人の狭い世界に閉じ込められて苦しむことだらけですけど。でも広いところから自分を見る方法を知れたのは、僥倖だったと思う。

さて、ここでのポイントは、「他者」の視点から、自分という存在を見る、というところにある。つまり、「引き」の視点から眺めてみる、ということだ。高層ビルから下界を見下ろしたとき、「みな人に幸あれかし」なんて気分になってしまう人は多いだろう。蟻んこのように小さな人々が、それぞれの目的地に向かってせかせかと歩いている様は、どこかかなしく、果てしなく愛おしいものとして目に映る。「引き」の視点――それが極まったポイントを「神の視点」と呼ぶのかもしれない――で見てみれば、すべては有限ではかなく、果てしなく愛すべき存在に思えるのだ。そして、その「すべて」に含まれる、限りある自分の「生」すら、愛せるようになるのだ。

自らの「死」をリアルなものとしてとらえたとき、そして「生」が有限であることを知ったとき、頑丈で当たり前で退屈だと思っていた自分の人生が、そして縁あって周りにいるものたちすべてが、急に、はかなく、愛おしく、ドラマチックな、ありがたい(「有る」ことが「難い」のだ)ものとして立ちあがってくる。かぐや姫が月(天界)に戻る直前に振り返って見た地球は、彼女の瞳にどれほど青く映ったことだろう。冒頭に引用した物語中、天竺に向かう八戒は「この世」で生きることに、どれほどの「たのしさ」を見たことだろう。かぐや姫や八戒は、ほとんどこの世ならぬ存在ではあるが、私たち人間は、自らの「死」に思いをいたすことによって、いま、この世に生きたままで、その「生」の意義を知り、それを存分に味わうことだってできるのだ。「メメント・モリ(死を想え)」とはこういうことなのだろう。「生」の実感が欲しいからと言って、なにも線路上に寝転ぶとか、屋上のフェンスの上に片足立ちするとかしなくったっていいのだ。そんな危険なことをして、実際に死んでしまったら意味がない。「生」を味わうことすらできなくなる。ただ、「死」を「想う」だけでいいのだ。それでも十分に意味はあるのだから。

せっかく与えられた「生」なのだから、存分に味わい尽くし、そして「ああ、たのしかった!」と言って笑って死んでいきたいものだ。その手段として、「終活」は、多くの前途ある人々に大いに有効なのではなかろうか。自分の死に顔とのご対面セレモニー、おすすめです。