セクハラヤジ議員の辞職で溜飲を下げようとしている人たちへ

結局、セクハラヤジ問題は、鈴木議員以外の発言主が特定されることもなく、さらに鈴木議員の辞職も決定されることのままに、ほとんど無理やりといった感じで終息に向かっているような印象を受ける。

結局、セクハラヤジ問題は、鈴木議員以外の発言主が特定されることもなく、さらに鈴木議員の辞職も決定されることのままに、ほとんど無理やりといった感じで終息に向かっているような印象を受ける。しかし、それだけでは収まらない人たちが、いまこの瞬間にもネット上で弁舌をふるい続けている。

しかし、ざっと目を通した限りでは、それらのうちの大半が、「鈴木議員(とその他のヤジを飛ばした議員)の辞職」、いや、もっと言えば、「鈴木議員(とその他のヤジを飛ばした議員)が"ひどい目に遭うこと"」をゴールに設定していて、そこから先の建設的な議論にまで結びつけることをしていない。

これってどうなんだろうか......。

私個人としては、鈴木議員の行動は許せないし、謝罪会見もまったくもって支離滅裂で、見ていてものすごく気分が悪くなった。他の発言主が名乗り出ないことにも、言いようのない苛立ちを覚える。政界は、この段になってなお、何を守ろうとしているのか、ほとほと呆れてしまう。

しかし、だからと言って、個人的な負の感情を呪詛の言葉に変えて、ネット上で暴れまわり続けても、意味なんてまったくないと思うのだ。意味がないどころか、鈴木議員と同等、もしくはそれ以上の嫌悪感を、それらネット上の発言に対して抱いてしまう人だって少なくないのだ。負の感情の垂れ流しは、言ってみれば汚物のようなものだからだ。

「意見を述べること」と「感情を垂れ流すこと」は、言うまでもないことだが、まったく別物なのだ。

そもそも、今回のことで騒ぎ立てている人たちの中で、真実、自身の中心から湧き出てきた熱いものに突き動かされて、「この社会を変えてやろう」という強い意志を持って意見を書き込むなり、実際に行動を起こすなりしたような人は、果たしてどのぐらいの割合で存在しているのだろうか。

ほとんどの人がそれに該当しないことは明白なように思う。大半の人が、騒ぎにただただ表面的に反応して、ほとんどなんの考えもないままに、たまたまそこにあった事件を利用して、安易に多勢について、ほとんど負けの決定している相手を押さえつけ、集団で代わる代わるに「直接的でない」暴力をふるい、相手の苦しむ顔を安全なところから眺めることによって、個人的なうっぷんを晴らそうとしている―― そんな風に、私には感じられて仕方がない。

これと同じような構図が、昨今、あまりにも多く見られるように思う。

「ハートは熱く、頭はクールに」という言葉を聞いたことがある。どういう場面でそれを耳にしたのかは忘れてしまったが、なるほど、これはすべてにおいて、とても重要な態度だと思う。とくに、自分の意見を表に出すような場では。

しかし、その真逆を突っ走ってしまう人のなんと多く見られることか。頭だけをカッカカッカと熱くして、心をすっかり置き去りにしてしまった、寒々とした、そしてどこか寂しげな印象の人々......。

そんな態度で何かをしたところでなにも生み出さないどころか、周囲には迷惑がかかるばかりで、何よりも本人が疲弊していくだけだ。なぜなら、そこには「満足」というものがないからだ。

人間は、真実、自分の中心から出てきたものを、全身全霊をかけてやっているときに、心からの満足を味わうようにできている。逆に言えば、そこ以外に本当の満足など存在しない。

本当の満足を知っているような人たちは、決して外側のことであーだこーだ騒ぎ立てて、それで溜飲を下げるようなことをしない。自分のやっていることに精一杯で、誰かをこき下ろしているような暇なんてないからだ。

ほとんどなんの考えもないままに、今回の騒ぎにただただ便乗して、そこになにかしらの「エンターテイメント」を求めているような人たちは、要するに暇なのだと思う。言いかえれば、自分の中心を生きていないのだ。

自分の中心を生きるには、自分が自然によろこびを持ってできることの中で、他を利する性質を持つものを見つけ出して、それをひたすらにやり続けることだ。誰に遠慮することもない、ただやればいいだけだ。やらないことを人のせいにしていたって始まらない。

やらないことでうっぷんを貯めて、外側の出来事に逐一反応して、周囲に汚物を巻き散らかして、自分をどんどんすり減らして、そうやって死んでいってもそれは本人の責任だ。

でも、それで本当に良いのだろうか。本当の満足を知らないままに、死んでしまって良いのだろうか。

佐村河内氏や小保方氏や鈴木氏が"ひどい目"に遭ったところで、自分の人生はなにも変わらないのだ。人生を変えることができるのは、自分だけだからだ。

変えたいのならば、いま、この瞬間に、自分で選んで、行動を始めることだ。

あなたはどちらを選択しますか?

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