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「やっぱり一人が最高!」だと思っていたのは単なる幻想だった

2017年07月06日 23時35分 JST | 更新 2017年07月06日 23時35分 JST

7人兄弟の末っ子の私は、幼少時代、「一人っ子だったらなあ」と思うことが多々あった。兄姉より成績が悪いことや、兄姉の様に生徒会の役員になれないことに強いコンプレックスを抱いていた。

自分より成績の悪い人を見つけては自分の成績を自慢したりしたせいで、兄姉の様な人気者にもなれず、それでも、周りから「友達が少ない奴」と思われるのが嫌で、無理やりグループの隅っこに金魚の糞の様にくっついていた。

転機が訪れたのは中学2年の春休み。叔父に中山競馬場に連れて行ってもらった時だ。後に三冠馬となるナリタブライアンにお年玉1万円を注ぎ込んだら、2万3000円になって戻ってきた。

それまで、兄や姉の様になるためにエネルギーを費やしてきた自分が、生まれて初めて自分の利益のために決断、実行したことに対価が支払われるということがたまらなく嬉しかった。

その後、新聞配達して稼いだお金で、実家がある新潟県南魚沼市の浦佐駅から、一人で新幹線に乗り、40分かけて新潟駅まで行き、バスに乗って新潟競馬場に通うようになった。

14歳の私が、新幹線では小学生の振りをして子ども料金で乗り、競馬場では20歳の振りをして馬券を買った。兄や姉を意識する必要のない、自分一人で見つけた居心地の良い空間だった。

高校1年の時、兄や姉が米国留学していたことから、私も軽い気持ちで留学してみたら驚いた。誰も、私の苗字「クロイワ」をうまく発音できないのだ。「ケーロイーワ」とか「クリオワ」とかなってしまう。

私の父が病院の院長をしていたこともあり、新潟では「黒岩さんの家の一番下」という紹介しかされなかった私が、突然、ファーストネームだけで覚えてもらえるようになった。

もう、その事実だけで、私は米国が大好きになり、「マイネームイズ、クリオコワ」と自己紹介し始め、日本の高校に退学届を出し、高校と大学を米国で過ごした。

大学の冬休みに東欧のセルビアを放浪し、難民に出会い、以降、難民問題に傾倒していった。彼らの悲惨な境遇に共感したのと同時に、難民問題なら兄や姉が進んでいる分野とは全く違う、自分だけの領域が作れると思った。

難民問題について記事を書きたいと思い、新聞記者になった。記者なら、官僚とかよりは、ある程度の「一人プレー」が許されると思っていたら大間違い。奈良支局に配属されたため、原則、奈良に関連することしか書けなかった。

そして、「海外特派員になりたいなら、事件記者になれ」と上司に言われ、警察の記者クラブに張り詰めなければいけない毎日。

自由コラムに海外の経験を書いたら、「海外経験は封印しろ。読者に自慢していると思われたらお前が損だぞ」と上司に言われた。出稿する原稿の数がみるみる減っていった。

広島県の尾道支局に配属されたときは、一人支局だったため、自分の裁量で自由に取材できると思ったら、親支局の福山支局長から「週に2-3回は夜にこちらにあがって来なさい」と言われた。

新聞社が県庁所在地だけでなく、全国津々浦々に支局を構えるのは、事件や事故が発生した場合に備え、どこでも瞬時に現場出動できるようにするためのはずなのに、特段理由もなく、私が管轄地域を離れれば、支局を構える意味がない。

それに往復1時間かけて福山支局へ行き、午後6時ー9時ごろまで、先輩や後輩と談笑して私の大事な時間を無駄にすることは、会社にとっても有益とは思えなかった。

結局、私は支局長からの要請を無視し、その後も物々言われたが、私の出稿する原稿の数が奈良時代の倍になったためか、数ヶ月したら何も言われなくなった。

記者を辞めて、ケニアの難民キャンプで働いた時も一人支局同然だった。米国に本部を置くNGOに所属し、私は現地代表として、それなりの裁量を任され、米国にいる上司とは月に1度電話会議をするくらいだった。

現地の従業員40人とプロジェクトを回し、自分の判断でいろいろな変革を起こして、時には失敗して従業員がストライキに入ったこともあったが、それを乗り越えて、信頼関係ができていくのを実感できるのが楽しくてたまらなかった。

その後、ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所の本部で2年勤務したが、最悪だった。巨大な官僚組織の末端で仕事をしなければならず、自分の裁量なんてゼロ。特にやりたくもない仕事をチームでやらなければならず、たくさんの会議にでるのもつまらなかった。

どこの組織にも属さず、一人で何かを始めたいと強く思うようになった。同じく国連職員だった妻が中東ヨルダンに赴任になり、私は主夫としてついていき、そこで、寿司教室兼仕出し屋を始めることにした。

寿司人気はヨルダンにまで広がり、日本料理屋に行くと、フィリピン人が握ったマグロ一貫が300円もした。米国のすし屋でバイトしたことがあった私は、「日本人が握った寿司をランチタイムに会社までお届けします」という広告を、妻やヨルダンのSNSなどを通じて発信した。

価格はレストランより少し安く、8貫セットで800円ー2000円にし、大使館や国連機関などから1日に2-30人分の注文が入り、6時間の労働時間で3万円の収益を出した。

寿司教室は「ヨルダン、唯一の日本人シェフによる寿司教室」と題し、1人4500円の受講料を頂き、2時間の教室で2-3万円の収益を出した。初めて競馬場を訪れた時の様に、自分の利益のために決断、実行したことに対価が支払われるということにわくわくした。

やっぱり、一人は最高だと思った。

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妊娠した妻の出産の時期が近づき、寿司業を一時中断し、主夫として育児に専念しようとした。そしたら、長男は無事に生まれてきたのだが、翌日、妻がお産に伴う大量出血で亡くなった

一人が最高だと思っていたはずの私が、一人でいることが怖くてたまらなくなった。家族や友人たちにヨルダンへ来てもらい、私の家に泊まりこんでもらった。

一人が最高だと思えることができたのは、常に妻という精神的支柱があってのことだということに気付かされた。

育児も一人でするものではない。長男が私とだけ過ごせば、私にしかなつかなくなり、私への育児の負担がより増えるだけでなく、長男の社交性も養われない。

昨年10月に新潟に里帰りしてから、13カ国から計40人が我が家に泊まりに来て、長男と接するうち、私なしでも2時間、3時間、4時間とだんだん長い時間を過ごせるようになり、生後10ヶ月の今では週に2日、8時間、保育園にいても泣かずに、友達や保育士さんと遊べるようになった。

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今でも一人で作業した方が効率的だと思えることは多々ある。

ただ、自分の人生を潤してくれるものは、優越感や収益や効率性ではなく、誰かとの精神的なつながりなのだということを、妻が命を賭けて私に教えてくれた。それをそのまま息子にも伝えていきたい。