大切な人を失った時、あなたはどんな「送りびと」になりたいですか?

宗教とは関係なく、私のやり方で、妻をあの世へ送り出す「お別れ会」を開くことにした。

中東ヨルダンで昨年9月、長男出産後に妻スージンが33歳の若さで亡くなり、葬儀は妻の母国の韓国で2週間後にした。

スージンの両親が敬虔なキリスト教徒で、葬儀には牧師や教会関係者ら約300人が参列し、その多くは私もスージンも面識がなかった。葬儀中の賛美歌やお祈りは、キリスト教の儀式で牧師が司り、妻の生き様が語られることは少なかった。

わざわざ韓国まで来てくれた日本の家族や友人は、遺影を前にして、「どうやってお祈りすればいいの?」と宗教的儀礼について聞かなければならなかった。香典はすべて、教会建設のために使われるという。葬儀は計3日間で、喪主の私は、スージンの遺影の横に2日間座り続け、来た参列者に挨拶をし、最終日に火葬場に行き、妻の遺骨を渡されて、すべてが終わった。

悲しむ暇もないまま、ただ疲労だけが残った。会場に届いた多くの花は次の日に処分された。一番悔やまれたのは、妻が命をかけて産んだ千汪(せお)が、生後間もないために韓国まで行けず、スージンを見送れなかったことだ。

妻も私もそこまで強い信仰心はなかった。日曜の礼拝には滅多に行っていなかったし、妻が私にキリストについて話すことは皆無だった。

そこで、宗教とは関係なく、私のやり方で、妻をあの世へ送り出す「お別れ会」を開くことにした。場所は、妻が2年暮らしたことがある東京。

そう思い立ったが、私一人では到底できない。私の母親は、東京に住んでいる兄にやってもらったらいいと言う。しかし、兄は3人の小さい子どもがおり、毎晩遅くまで仕事をしている。韓国の葬儀には家族5人で来てもらっている。

すでに、たくさんのお金とエネルギーを費やしてくれた家族ではなく、妻と仲が良かったけど、韓国の葬儀には出れず「何かさせてほしい」という友人6人で実行委員会を結成した。東京在住者に限らず、参加者からのメール対応や案内分作成など遠隔でできる仕事もあるので、バングラデシュやケニアで働く友人にも参加してもらった。時間が比較的柔軟に使える独身者や子どもがいない人が6人中5人を占めた。

まず、会場選びと日程設定。日程は、海外で働いている友人が日本へ一時帰国する時期に合わせようと、年末年始とした。しかし、忘年会シーズンで会場探しが難航。結局、12月26日夜、神田にあるイベント広場が見つかった。堅苦しい葬儀というイメージにしたくなかったため、私は、イベントの名前を「スージンとセオと過ごすクリスマス」とした。

告知は、Eメールとフェースブックを通してのみ行い、会場のキャパが120人のため、キャパオーバーの場合に備え、申し込み締め切り日を12月19日と設定した。

会場では、「ハナミズキ」や「星になれたら」など、妻との思い出の音楽を流し、妻が好きだった韓国料理やタイ料理、寿司などを並べ、妻との思い出の写真をポスターにして壁に張った。立食形式で、メイン広場を自由に歓談できるオープンスペースにし、隣接した8畳の部屋を「お祈り部屋」とし、妻の遺骨や遺影、結婚アルバムなどを置いた。

さらに、メッセージ箱を置き、参加者が自由に妻宛に手紙を書けるようにした。そして、参加申し込みされた方に妻との思い出の写真を送ってもらい、それをメイン広場でスライドで流し続けた。

問題は「参加費」だった。実行委から、妻が東京の難民支援団体で働いていたことから「難民の方が参加した場合、参加費を取るべきでない」という声が上がった。私は、参加者はすべて平等に扱いたく、経済的に困窮しているからお金を取るべきでないというのも理解できなかった。

高い渡航費を払って韓国の葬儀に参列してくれた方や、高価なプレゼントをしてくれた方が、この会に参加する可能性は十分にあり、彼らからこそ、私は参加費を取りたくなかった。

私は「この会は私が皆さんに感謝の気持ちを伝える場なので、参加費は原則なしにしましょう。『どうしても支援がしたい』という人のために、自由な額を募金できる募金箱を設置しましょう。もし、イベント運営費以上の募金が集まらなかった場合は、私が負担します」と伝えた。

「斬新的」と賛同するメンバーがいた一方、「参加者に必要以上の額を納められたら、逆に心苦しくないですか?難民の方も張り切って、結構な額を包んでしまうかもしれません」という声もあった。

私は「心苦しくありません。これまで私を支えてくれた友人たちは、私に『助けることができて嬉しい』と言ってくれました。これは、彼らが彼らのやり方で妻の死に寄りそうことができたからこその喜びだと思います。この会でも、個々の寄り添い方を尊重したい。

私がアフリカの難民キャンプで3年働いた時のお別れ会で、一番高価なプレゼントをしてくれたのは国連の同僚ではなく、難民でした。私はその難民の方に『あなたは貧しいのだからこんな高価なものを買ってはいけない』と言うことはできませんでした。もし、貧しい難民の方が募金をするのだとしたら、それこそ、妻の人生をありのままに表しているのではありませんか?」と伝えた。

80-100人と見込んでいた参加者数は140人まで膨れ上がった。私が140人全員と話すことは不可能のため、会の最初、中盤、最後の3回に分けて、私が短いスピーチをし、途中退席される方含め全員に直接感謝の言葉が届くようにした。

私は1回目のスピーチでは、サンタの格好をした千汪を前向きで抱きかかえ、「私は黒岩千汪です」と切り出し、腹話術の様に、千汪の言葉で、妻が妊婦時代に大事に千汪を育てていた様子を話した。偶然にも、スピーチ中に千汪が会場に笑いかける場面があり、場が和んだ。

2回目のスピーチでは、妻が生前「(私と)時間を過ごせば過ごすほど愛が深まっていく」と言ってくれたことを紹介。「この言葉のおかげで、『妻は33年の人生で一番幸せな時に旅立つことができたのだ』と思えることができています」と話した。

二次会は私の大好きな広島カープのお好み焼店でやった。「自分が死んだ時もこんな風に送り出してもらいたい」と参加者の方から言っていただいた。そして二日後に、実行委のメンバーと新潟の温泉旅館に1泊2日で打ち上げ旅行に行き、妻との思い出を夜遅くまで語り合った。

会の運営費総額は約30万円と、韓国の葬儀の3分の1以下。「会終了後、持ち運びできる荷物に限度がありますので、プレゼントの持ち込みはご遠慮ください」と案内文に記したため、処分しなければいけなかったものは、わずかに残ったタイ料理だけだった。

募金総額は71万円で、運営費から差し引いた額は千汪の養育費に充てることにした。私の希望通り、すでに韓国の葬儀に出ている家族や友人、遠方から参加した方の多くは募金しなかった。

実家に戻った後、参加者から頂いたメッセージを一つ一つ読んだ。韓国語、日本語、英語とそれぞれの言語で、「スージンへ」「ヨウコウへ」「セオへ」とそれぞれが語り掛けたい人に向けられたものとなった。

「頭に浮かぶのは、『スージンちゃーん』と黒岩君に抱きしめられ、『モー』と言いながらもいつも笑っていたスージンの姿です」

「よく笑い、よくしゃべり、よく食べる『生』にあふれていたスージン」

「はじけるような笑顔、楽しそうな笑い声、素敵な日本語のアクセント。お花のようにオフィスが明るくなりました」

「スージンはいつもようこうさんの話をしてくれました。どのように遠距離恋愛を乗り越えて今一緒にいるのかとか。2人のやりとりを見て、いつも嬉しい思いでした」

一文字一文字が、スージンが今でもたくさんの人の中で生きている証であり、私は救われる想いになった。驚いたのは、スージンに1度か2度しか会ったことがない参加者が相当数いたことだった。

ほんの数時間会っただけなのに、年末の平日の夜の貴重な時間を割いて参加し、長々とメッセージを綴ってくれる彼らの存在こそ、妻の人間性を物語っている。誰とでも笑顔で接し、親身にその人の話に耳を傾け、両手を動かしながら自分の想いを語る。振り返れば、私が妻を好きになるのにも、数時間もかからなかったっけ。

最後に、会で私が妻に捧げた最後のスピーチを綴る。

「スージンへ。私たちの息子の名前は『千汪(セオ)』にしたよ。『セオ』はスージンが一番最初に思いついた案だったよね。漢字は漢数字の『千』にサンズイに王。「汪」は涙が溢れる状態を意味するんだ。千汪は1000人の涙によってこの世に迎えられたから、スージンの様に、他の人の涙に共感できる人間になってもらいたいと思った。

それともう一つ、この名前には意味があるんだ。私はスージンの前で泣くことってほとんどなかったけど、千汪が生まれる直前、スージンの前で大泣きしたのを覚えている?その時はスージンが旅立つなんて想像もしていなかった。12時間以上の陣痛に耐えて、全身に痛みが走るスージンを前に、何もできない自分が情けなくて大泣きしたよね?自分にもあんなに涙があったってこと初めて知った。そして、誰かが自分にとってこれほど重要になるなんて夢にも思わなかった。

だから千汪には二つの意味があって、たくさんの涙に迎えられたというだけでなく、私がスージンの前で最後に涙を見せることができたということ。千汪はスージンの様な笑顔で周りに幸せを配っているよ。私には絶対真似できないような無邪気な笑顔。スージンがお腹の中にいる千汪にたくさん話しかけてくれたおかげだね。ありがとう。千汪と2人でずっと感謝し続けるよ。私たちのこともずっと見守っていてね」

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