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自発的に「難民」になる道を選ぶ人たち

私が出会った難民の人たちは「戦争が終われば故郷に戻りたい」と切実に願っていた。それが、なぜだ?

2017年09月02日 17時22分 JST | 更新 2017年09月02日 17時22分 JST

昨年亡くなった妻との思い出の国、タイを生後11ヶ月の息子と訪れた。妻とは2005年10月、バンコクでのNGO会議で出会った。

会議終了後、「北部の難民キャンプがある地域を3-4日間放浪する」と言う妻に、「偶然、私もそちらに行く予定なんだ」と嘘をつき、高速バスで8時間かけて隣国ミャンマーに接する国境の町、メソトを訪れた。

 

タイのミャンマーとの国境地帯は、私にとっては特別な場所。2003年、バンコクの移民研究所のインターンとして、半年間、国境地帯に住む子どもたちの調査に携わった。

さらに、2004年、メソト周辺の難民が通う学校に、4ヶ月間住み込んで、大学院の論文のフィールドワークをした。妻の私の第一印象は「突然叫びだす変な人」だったらしいが、私が同世代の難民の人とふざけ合う姿を見て、「単なる変人ではないみたい」と印象が変わっていったという。

つまり、私が妻と結婚できたのは難民のおかげであり、その地を息子に見せてあげたかった。

 

10年以上振りのメソトは変わり果てていた。ミャンマーの民主化と経済成長に加え、政府軍と少数民族の武装勢力との間で停戦協定が結ばれ、国境地域の治安が改善され、メソトがミャンマーとの交易の拠点として栄え始めたのだ。

当時はバンコクからバスでしか行けなかったが、今は飛行機が一日4往復。レンタカーショップや大型ショッピングモール、KFCまであり、当時200円だった豚焼肉食べ放題は600円まで値上がりし、当時、一泊1000円の最高クラスのホテルが、格安ホテルになっていた。

私が最初に訪れた2003年には、この地帯には長年続く紛争から逃れた難民約10万人が、九つのキャンプに暮らしていた。2005年、米国などの先進国が長期化したキャンプにいる難民を助けようと、「第三国定住」という制度で、これまで10万人以上をこの地域から招き入れた。

第三国定住」というのは、出身国(第一国)で命の危険にさらされ、別の国(第二国)へ逃れ難民申請したが、難民キャンプでのみ生活を許され、就労許可ももらえず、長年不安定な生活を強いられている人たちらを米国などの「第三国」へ難民として招き入れる制度。

通常の制度で欧米諸国が難民を受け入れる場合、難民申請者が米国やドイツなど受入国まで自力で辿りつき、政府から難民認定を受けなければならない。

しかし、難民かどうかの審査期間が数年かかることがあり、その間の就労許可がもらえなかったりなどで立場が不安定になり、難民申請者による犯罪が起きたりと治安悪化の要因とも指摘された。

第三国定住なら認定作業を自国内でやる必要がなく、難民は第三国へ到着したその日から就労許可などの生活支援を受けることができるため、近年増加傾向にある。日本も2010年から開始し、タイのこの国境地帯から、この制度でこれまで80人ほどの難民を受け入れてきた。

2003年に10万人が暮らしていたキャンプから、10万人が他国へ招き入れられ、その人たちの故郷に平和が訪れたのなら、もう難民キャンプがなくなっていてもおかしくないと思うだろう。

しかし、現在も同じ九つのキャンプに約10万人が暮らしているのだ。キャンプを支援するNGOで働く友人によると、現時点でミャンマーへ戻る意思を示した難民はたったの数百人。

つまり、2003年以来、さらに10万にの難民がタイに押し寄せ、そしてその大多数が紛争が終わっても故郷に戻りたくないと言っているのだ。

当時、私が出会った難民の人たちは「戦争が終われば故郷に戻りたい」と切実に願っていた。それが、なぜだ?

私はレンタカーを運転して、メソトから約1時間かけ、人口3万人のメラキャンプを訪れた。まず、以前と比べ、キャンプを巡回する警察官の多さに驚いた。キャンプは塀で囲われているのだが、数箇所ある入り口すべてに警察官が常駐している。

黒岩揺光

息子を腕に抱えながらキャンプの市場を歩くと、「ハイ!ハウアユー」と英語を流暢に話す40代くらいの男性に声をかけられた。名前をジャックといい、2008年からキャンプで暮らしているという。

私が十数年振りにキャンプを訪れたことを告げると、「英語ができる友人がもう一人いるから」と呼んでくれ、3人で近くのカフェに座り込んだ。その友人も40代くらいで、ジャックと同じく2008年に来たという。

その友人は私が外国人とわかるなり、第一声に「第三国定住はいつ再開されるのですか?」と尋ねてきた。ミャンマーでの停戦協定を受けて、タイからの第三国定住制度は終了しつつある。

国連やNGOで働いているわけでもない、ただの通りすがりの私に第三国定住について聞いてくるということは、それだけ欧米へ渡れることを夢見ているということだろうか。

第三国定住が始まった2005年以降、ジャックの様に、多くのミャンマー人が国境を越え、キャンプへ押し寄せ、ピーク時には18万人ほどになった。無論、紛争から逃れた人も多くいただろうが、当時、現地の国連で働いていた友人は「彼らの多くは欧米に行きたいだけで、『難民』じゃないですよ」と私に言い放った。

別のカフェで出会った難民の男性は「第三国定住で米国に渡るまでは、このキャンプを出るつもりはない。ミャンマーにはもう家はないし、妹が米国に渡っている」と言い切った。

NGOで働く友人によると、2016年のキャンプの自殺者が28人と、過去最多になったという。

自殺未遂も60件以上あった。欧米諸国へ渡れることを夢見て、故郷を捨てて来てみたら、渡れない。故郷に戻っても生活の基盤はもうなくなっている。

そして、ミャンマーの治安が改善されたため、援助資金は減り続け、食料配給も減り、2019年にはキャンプ内での支援がすべて打ち切られる方針が援助機関から示された。

キャンプを巡回する警察官が増えた理由もわかった気がした。前々から難民キャンプを1日でも早く閉鎖したかったタイ政府は、停戦協定が結ばれた今こそが絶好の機会だと捉え、監視を強め、間接的に帰還を促しているのではないか。

難民がキャンプを出て不法に就労していないか、海外の支援者が許可なしにキャンプに出入りしていないか監視を強化すれば、キャンプに居続けたいと思う難民は減るかもしれない。

私はフェイスブックで国境で30年以上暮らす友人に連絡した。彼女はミャンマー出身で、幼少の頃タイへ逃れ、現在は別のキャンプで難民の自助組織の幹部を務めている。稀に欧米諸国への移住を拒み、国境に残って故郷の再建のために力を尽くしたい難民がいるのだが、彼女もその一人だ。

私は「難民が帰還を拒む要因の一つに第三国定住への期待があるのだろうか?」と尋ねた。

友人は「確かに、それは理由の一つです。ただ、長年の紛争の結果、住民たちの政府に対する不信感と、そこから生まれる治安への懸念の方が大きいかもしれません」と答えた。

私が「第三国定住制度は難民にとって『支援』になったと思う?」と尋ねると、彼女は答えた。

「2005年の第三国定住が始まる前にキャンプに来た人と、その後にキャンプに来た人では、大きく異なります。以前に来た人たちは『本当の難民』で、彼らは紛争が終われば故郷に戻って地域再建に力を尽くしたいと思っていた。しかし、彼らのほとんどは欧米に渡ってしまいました。当時は、いつ紛争が終わるかもわからなかったため、欧米に渡る道しかないと思っていました。2005年以降に来た人の多くは、紛争から逃れるというよりも、欧米でのよりよい生活を求めてやってくる人たちで、彼らは欧米に渡ることが第一目的で、故郷の復興のために力を尽くすとかいう気持ちは希薄です」

2004年、私が住み込んでいた学校は、キャンプの高校を卒業した17-26歳の若者30人が通い、祖国再建のための将来のリーダーを育成する目的で建てられ、学生たちは英語やパソコンなどを学んでいた。

しかし、第三国定住が始まり、卒業生のほとんどは米国などに渡り、この学校も資金不足で2006年に閉鎖された。優秀な人材が欧米に流出し、祖国再建する人材がいないことも、難民が祖国へ帰れない理由の一つになっているのかもしれない。

ケニアの難民キャンプで3年働いた時も、多くの難民が第三国定住制度で米国などへ渡って行った。しかし、定住できる候補者リストに名前が挙がってから、実際に渡米するまで2-3年以上かかったり、受け入れ国の都合で突然キャンセルになったりすることもあり、その間、精神病になってしまう難民もいた。

現在、世界的に第三国定住制度を使った難民受け入れが増加傾向にあり、有識者の中には、第三国定住こそ難民を受け入れるベストの方法だ、みたいなことを言う人もいる。

確かに、10年、20年と宙ぶらりん状態に陥った人々の生活に終止符を打つことができる数少ない手段かもしれない。しかし、あらゆる支援策がそうであるように、第三国定住も負の面がある。

第三国定住での難民受け入れが増えれば、第三国定住目当てに国境を越える人も増え、今後、難民の定義自体が形骸化しかねない。

妻と一緒に訪れた時は最初のキャンプ設立からすでに20年が経過していた。さらにそこから10年が経ち、60年以上続いた武装闘争は終わり、欧米諸国が10万人以上受け入れたにも関わらず、キャンプの人口に変化はなかった。一体、出口を失った難民たちは、この先、どこに居場所を見つけるのだろうか。

黒岩揺光

ちなみに今回の旅で「0歳児を海外へ連れて行って、難民キャンプとか入って大丈夫?」と心配されたが、息子は鼻水一滴も垂らさずに2週間に及んだ旅行を終え無事帰国。次の日、新潟の自宅近くの保育園に行ったら、3日後に手足口病を発症。

タイの難民キャンプより、日本の保育園の方が0歳児にとっては危険なのかもしれない笑。

黒岩揺光