能登半島地震から10年。被災した小学生の女の子から連絡をもらい、私は会いに行ってみた。。

「能登半島地震」と聞いて、ピンとくる読者はどのくらいいるだろうか?

2015年11月、私のブログに一つのメッセージが届いた。

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あの、能登半島地震のときにお世話になった美容師の娘、宮本ひなたです!

覚えてますか?

最近、地震についての作文を書き、発表する機会があり、思い出して探しちゃいました!

また、時間があれば遊びにきてください。

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「能登半島地震」と聞いて、ピンとくる読者はどのくらいいるだろうか?2007年3月、震度6強の大地震が能登半島を襲い、2000戸以上が全半壊し、300人以上の死傷者をだした。当時、毎日新聞奈良支局で一年生記者だった私は現地に3回入り、延べ3ヶ月間復興の様子を取材した。

宮本ひなたさんは、当時小学2年生。母子家庭で育ち、地震で家が全壊し、避難所で一ヶ月暮らした後、仮設住宅に移った。私が、母親の香織さんを取材するうち、ひなたさんと妹のましろさんとも仲良くなった。

能登半島を去ってから、宮本家と連絡を取ったことは一度もなかった。自分が、小学生の女の子が8年後に「連絡してみよう」と思えるに値する記者だったということが、とても嬉しかった。私は、すぐに返信をし、香織さんからもメッセージがくるようになり、「近いうちに能登半島に行きます」と断言した。

そして、今回の大型連休。新潟から車で生後8ヶ月の長男と能登半島を目指した。能登半島は地震から10年を迎えていた。宮本さん家族以外に、再会したい人がいた。名前は宮腰昇一さん。地震で妻喜代美さん(当時52歳)を亡くした。喜代美さんが地震の唯一の犠牲者だったことから、昇一さん宅は地震直後から多くの記者が訪れた。昇一さんは寿司職人で、私は寿司屋のカウンターで昇一さんの寿司を食べるなどして交流を深めた。

私も昨年9月に妻が亡くなり、「昇一さん、今頃どうしているのだろう?」と考えることがあった。もう年齢は70近いはずだ。体は壊されていないか。寿司屋はまだ続けているのだろうか。そもそも、私のことを覚えているだろうか。

5月4日、実家から車で6時間かけて、石川県輪島市に来た。輪島名物「朝市」は観光客で大賑わい。そこから徒歩3分のところに、昇一さんの寿司屋がある。店兼自宅になっており、午前11時半ごろに店に到着。暖簾は出ておらず、自宅のドアから「ごめんくださーい」と挨拶した。数秒後、「はい」と中から返答があり、黒いジャージ姿の昇一さんが出てきた。

「10年前の地震で取材させてもらった者ですが、、」と自己紹介を始めたら、昇一さんが「ああ、くろいわようこうさん」とフルネームで返してくれた。「覚えていてくれたのですね」と私が喜ぶと、「顔がちょっと太くなったけど、わかりますよ」と言う。

「丁度10年ですね」と私が言うと、「もう今回は取材は全部断わらせてもらったんだ」と昇一さん。地震発生から1年、5年、10年などの節目で、メディアは特集を組むため、昇一さんのところにも数社から連絡があったという。

私は「実は、去年9月に妻が亡くなりました。この子を出産した翌日に」と伝えると、昇一さんの表情は一変し、「ちょっと中に入って」とお邪魔させてもらった。

寿司屋のカウンター席に座らせてもらった。店内はきれいに掃除されている。昇一さんはお茶とせんべいを出してくれ、「実はな、去年の8月から扁桃腺に癌が見つかって、金沢の病院に入院しながら、放射線治療受けている。たまたま連休で自宅に帰っていたのだけど、また3日後に病院に戻る。だから、寿司屋もずっと営業できていないのだけど、40年を目標にやってきたから、体が良くなったら後2年は続けたいと思っている」。

昇一さんは今69歳。子どもはおらず、寿司屋の手伝いをしてくれていた喜代美さんなしで、ずっと営業を続けてきた。

私が「あんな体験をされて、一体、どこからそんなパワーが出てくるのですか?」と尋ねたら、「親しい友人が『喜代美さんを守るためにも、あなたが頑張らないといけないのよ』って言ってくれた。この言葉の意味が最初わからなかったけど、3回忌、7回忌とあって、なんか、わかってきたような気がする。次は13回忌だ」

昇一さんは、喜代美さんの頭のお骨を今でも寝室に大切に保管されているという。私が「能登半島地震を知っている人はあまり多くありません」と言うと、「他にも大きな災害は起きているからね。別に覚えてもらいたいとは思わないよ。私の中では365日、頭から離れないけどね」と返した。

能登半島地震発生の4ヵ月後、新潟で中越沖地震があった。昇一さんは、車で被災地を周り、被災者の方たちに見舞金などを渡した。「東北の時も行きたかったけど、なにせ体力がなくなってね」とこぼした。

「この子のためにも、黒岩さんも頑張らないといけないね」と昇一さんは長男を見ながら言った。私は、妻が亡くなってから、他人から「ああしろ、こうしろ」と言われるのが一番嫌だったが、なぜか昇一さんの言葉は素直に受け入れることができた。

私の車が1キロ離れたところにとめてあると言うと、「じゃあ、送っていくよ」と昇一さん。「本当はご飯とか一緒に行きたいところだけど、申し訳ないね。これでも持って行って」とおせんべいを紙に包み始めた。

車の中で、私は最後に質問をした。「10年前は私たちの取材を受けてくれたのに、今年はなぜ断ったのですか?」。「どうせ同じこと話すだけだし、私は、毎年、妻が亡くなった中庭で手を合わせるのですが、病気になってから庭の手入れができていません。そんな所を見られたくなくてね」と言った。

そして、別れ際、「これも持って行ってください」と、昇一さんの車のトランクにあったティッシュボックスを私にくれた。3日後、昇一さんは一人で2時間車を運転して金沢の病院に戻るという。その姿を想像しただけで胸が締め付けられ、私は常に一緒にいてくれる長男の存在が一層ありがたくなった。

その日の夜は、宮本家と食事をした。香織さんは10年前と変わらず、元気一杯。ひなたさんは、5年一貫コースで看護師を養成する高等学校衛生看護科に推薦で入り、中学3年のましろさんも同じ学校を受験予定という。香織さんは「ひなたは倍率5倍で合格したんだぞ。立派に育ったやろ」と誇らしげ。

「私を茶髪にしたのは、宮本さんが最初で最後ですよ」と、当時、宮本さんの美容室で散髪をお願いしたら、「じゃあ、特別サービス!」と勝手に髪を染められた時のことを話した。そしたら、「そんなん。毎日のように、美容室に取材に来られて営業妨害されてたのだから、一度くらいは売り上げに貢献してもらわないと割に合わんわ!」とけらけら笑った。

仕事の方も順調で、「収入が少し上がったせいで、支払う国民健康保険料も上がって、困ったわー」などと愚痴っていた。

ひなたさんもましろさんも、地震の体験などを綴った自己主張作文で好成績を残したという。私が「地震はひなたさんの人生にどんなインパクトを残したの?」と聞くと、ひなたさんは「また、記者っぽい質問してー」と照れながら、「ましろは避難所でオムツ替えるのすごく嫌がっていたし、私もお風呂に長い間入れないのがすごく嫌だったな」と当時を振り返った。

香織さんも、「私も当時はから元気に振舞ってたけど、実は、円形脱毛症になってたんや」と打ち明けた。小さい娘2人を抱える母子家庭で、家が突然ぶち壊されながらも、よくここまで立ち直ったものだ。宮腰さんといい、宮本家といい、生きる元気をたくさんいただいて、私の大型連休は終わった。

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