高倉健さんと刀匠

高倉さんは日本刀に造詣が深く、自らもお気に入りの刀を所有していた。刀を手入れする父親の姿が目に焼き付き、刀への憧れがあったという。

間もなく俳優・高倉健さんが亡くなって一年が経つ。彼が亡くなったとき中国の映画監督のチャンイーモウ氏がコメントを寄せていた。おおよそこんな内容だった。

「高倉さんと一本の映画を撮っただけですが、彼が私に与えてくれた影響はとても大きなものです。高倉さんは私に日本刀も送ってくださいました。刀は持ち主を守ってくれるものだと聞いています。その日本刀は今も私のオフィスの1メートルと離れていないところに置いてあります。私は高倉さんが私を守ってくれるような気がします」

高倉さんはチャンイーモウ監督と『単騎千里を走る』(2005年)という映画を作っている。「一本の映画を撮っただけ」というのはそのことである。その後も二人の交流は続き、チャンイーモウ監督が北京オリンピックの開会式・閉会式の演出を引き受けたときに、高倉さんは自ら刀匠に依頼し一振りの日本刀を打ってもらい、励ましの意味を込めてそれを贈った。

高倉さんに贈呈用の刀の制作を依頼されたのは、長野県坂城に住む刀匠・宮入小左衛門行平師。昭和32年(1957年)生まれ、現在58歳。父は人間国宝だった刀匠・宮入行平。19歳の時、その父が死去。兄弟子に当たる藤安蒋平に弟子入りし、腕を磨き、平成12年(2000年)に、43歳の若さで財団法人日本美術刀剣保存協会から新作刀展覧会無鑑査の認定を受けている。

高倉さんは日本刀に造詣が深く、自らもお気に入りの刀を所有していた。刀を手入れする父親の姿が目に焼き付き、刀への憧れがあったという。研究熱心で、多くの名刀を見てきた高倉さんは刀に随分こだわりを持っていた。

宮入刀匠との付き合いの始まりには縁があった。高倉さんらしさを語るものがあるので紹介する。

宮入行平氏(父の方)は大正2年(1913年)生まれ。野鍛冶の家に生まれ、鉈などを作っていたがどうしても刀を作りたくて、上京。栗原彦三郎師に入門。戦中とあって、軍刀などを打っていたが、敗戦で、日本刀の製作は禁止されてしまった。伊勢神宮への奉納刀など極わずかのチャンスしかなかった。

講和条約締結の後、日本刀製作は美術刀として認められ、復活することになるが、その運動の中心になっていたのは佐藤寒山、本間薫山という刀剣研究家たち。刀鍛冶達を励まし、再び作刀の道へ邁進させるのに二人の力は大きかった。現在玉鋼を作っている蹈鞴の復活、多くの名刀の研究書、名刀図鑑類を完成させたのもこの人達である。宮入行平氏も二人のお世話になっている。

因みに現在宮入小左衛門行平氏の鍛刀所の扁額は寒山氏の書いたもの。昭和38年(1963年)宮入行平氏は日本刀製作者として、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定された。寒山氏の息子が映画監督の佐藤純彌氏。『野生の証明』『人間の証明』『君よ憤怒河を渉れ』など高倉さんとの仕事も多い。そうした伝もあって、寒山氏から高倉さんが宮入刀匠の刀に関心があるという話が来た。

宮入行平氏は昭和47年(1972年)に紫綬褒章を受章、東京・松坂屋で個展を開いた。そのときの刀一振りを松坂屋の外商部が高倉さんに持っていった。じっと見た上で、高倉さんはイメージに合わないので、今回は遠慮しますと断られたそうだ。外商の人は「値上がり間違いないので買われた方が得だ」という意味のことを述べたそうだが、頑なに断られたとか。その話を聞いた宮入行平氏は「やっぱり一流の人は違う。自分で欲しくないものはどんなものでも要らないと断られるのだ」と感心していたことを、息子の小左衛門さんは覚えている。

それから20年ほど経ったある日。高倉さんは渋谷のビンテージ物のジーパンなどの輸入衣料を扱うお店に立ち寄った。贔屓にしている店でよく訪れたらしいが、ある日店主とこんな話しになったそうだ。店主が「自分の友人で刀鍛冶がいる」と。高倉さんが刀に関心を持っていることを知っていての話だ。そのとき高倉さんは「国はどこ?」かと聞いた。「信州です」という答えに「その人は宮入っていう人かい」という話になって、一度会ってみたいと高倉さんが言いだし、直接電話をくれたのだという。

「俳優の高倉です。深く縁を感じています」という話になって、その友人の渋谷の店で、宮入小左衛門行平氏は高倉さんと会った。さまざまあって、平成7年(1995年)に高倉さんは宮入氏(息子の方、父は既に死去していた)に刀を頼んだ。その時に、こんなものがいいと持ってきたのが同田貫という肥後の刀だった。バランスのいい、身幅のある江戸時代の太佩だった。高倉さんは故郷である九州の刀を愛好していた。自分でも気に入った幾振かの刀は買い求めて持っていた。

平成9年(1997年)、宮入氏は出来上がった旨連絡し、白鞘に入った刀をお見せした。精魂込めた、自信の作であった。じっと見て、考えていた高倉さんは、父上の刀を見たときと同じ言葉を言われた。「イメージと違うので」と。

その件はそれで終わったのだが、その後高倉さんは亡くなるまでの間に友人へのプレゼントや記念に10振りほどの短刀などを頼んで買ってくれた。

宮入氏を食事に誘ったり、坂城に訪ねてきたり、一緒に博物館に刀を見に行ったり、高倉さんは宮入氏(本名を恵と言う)を「恵ちゃん」と呼んで親しくしてくださった。宮入氏の個展の目録には、言葉を寄せてくれている。

平成20年(2008年)、坂城に高倉さんが訪ねてきた。その日は珍しく時間が取れ、半日ほど滞在し、ゆっくり話したり刀を見たりした。何かの弾みで、10年ほど前に頼まれて打った刀の話が出た。「ご覧になりますか」宮入氏は聞いた。高倉さんは「まだ置いてあったの?」と驚いて、じっくり見た。そして「美しいねえ。これもらうよ」という話になった。

高倉さんのために打ったからと言うのもあったが、その刀は自分でも手応えを感じていたので、自分の基準として残してあったのだという。

物づくりには分岐点が生ずる。そのたびに悩み、試行するが、自分を確かめるために振り返る基準の仕事というのが必要になる。そのために手放さずに手元に置いてきたのだ。

高倉さんは購入したが、その刀は持ち帰らずに、拵えを作ることになった。

刀匠が打ち、研ぎ師が研ぎ、銘を打たれて刀は登録される。多くの場合、そこでハバキ師に渡り、ハバキという鞘に収めるとき必要な金具を作る。それがなければ鞘に収まらないし、柄も出来ない。ハバキが出来て白鞘が完成する。そのままの状態でもいいのだが、侍達が持って歩いた状態の刀は「拵え」という姿が最終形である。

高倉さんは再会したその刀を「拵えまで」作って欲しいと頼んだのだ。

どんな拵えにするか、話は弾み、肥後拵えという形式にすることに話しはまとまった。そうしたときの話しは楽しそうだったという。

拵えにはさまざまな金具や鍔、金工、組紐、塗師の仕事が関わってくる。笄や小柄という物も付く。 現代作家の品物を特注することもあるし、年代物の美術品を探し出してそれを使うこともある。

宮入氏は拵えもデザインする数少ない刀匠である。高倉さんとの話し合いで、おおよその姿は詰めていた。しかし、拵えは高倉さんの死には間に合わなかった。

高倉さんの死の後、遺族が高倉さんの意志を継いで、高倉さんが所有していた刀剣類の全てと刀剣に関した書籍類を宮入氏に届けた。

坂城町には「鉄の展示館」という施設がある。宮入行平が亡くなった後に、小左衛門氏はその多くを町に寄付して父の仕事を閲覧できるようにしたのだ。そのために町は施設を作った。そこで定期的に特別展を開催し、刀鍛冶の町を標榜してきたのだ。高倉健さんの贈り物はそこに収蔵され、機会を設け展示されることになった。

1回目は2015年10月に「高倉健さんからの贈り物」展として紹介された。そこには「縁の刀」も展示された。

宮入小左衛門行平氏の仕事に関しては、私が長い取材の末に今最終原稿の整理中である。この高倉さんとの話もその中で聞いたことだ。その本には研ぎ師で人間国宝である本阿弥光州氏、白銀師(ハバキ師)、鞘師、塗師、柄巻師の刀職5職の聞き書きなどを一緒に紹介するつもりで取材を終えてある。来年(2016年2月末)刊行予定。この中には宮入氏と高倉氏の魂の付き合いの様子も詳しく触れるつもりである。

(写真提供:宮入小左衛門行平/宮入小左衛門行平一門 河内一平)

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