Huffpost Japan
ブログ

ハフポストの言論空間を作るブロガーより、新しい視点とリアルタイムの分析をお届けします

野村善文 Headshot

明日に「芸術」を見るな「科学」を見よ。

投稿日: 更新:
印刷

アメリカに拠点を置く銀行、ウェルズ・ファーゴが先日発表した広告が炎上した

左: "A ballerina yesterday. An engineer today."
「昨日のバレリーナ。明日の技術師。」
右: "An actor yesterday. A botanist today."
「昨日の役者。明日の植物学者。」

そしてその下には
"Let's get them ready for tomorrow."
「お子さん達の明日に向けて。」

「みんな!いうまでもなく「明日」には芸術家はみんないなくなって、エンジニアと植物学者に溢れかえるよ!」

10代の若者とその保護者向けに開催されるイベントの広告だったのだが、ミュージシャンや役者を中心に炎上し、本社が謝罪声明を発表した。恥ずかしいことにインターネットを見ないので、大学の授業の冒頭に教授から手渡されて初めて、本件を知ったのだが、思わず溢れる涙が堪えきれず、退出してしまった。

いつから、人々は、明日に「芸術」を見なくなったのだろう。

芸術は嫌いだった。小学校の図工は3だったし、芸術の"センス"が特別あったわけでもないし、美術館に行っても高級な額縁に丁寧に飾られている絵は、どれだけ近くで見ても遠かった。芸術家なんてただの変人だとも思ってた。とにかく好きになれなかった。

「芸術」と出会ったのは、去年の終わりにレディガガのインタビューを聞いた時だった。17の時にレイプされた過去を明かすのだが、サバイバーとして生き抜くためにどれだけ音楽に救われて、痛みも憤りも哀しみも抱きしめながら生きる時、どれだけ「芸術」に助けられたかという話だった。

ちょうどその頃、自分の近しい人にも「そういう」事があって、頭も心も真っ白になりながら生きていた僕にとって、彼女の生き方は希望そのものだった。「芸術家」とはもしかしたら、こうやって生きること、そのものなのかもしれないと思った。

うっすらとはしていた。だけども、その「うっすら」なものに賭けようと思って、演劇の世界に飛び込んだ。間違っていなかった。模範解答がない「芸術」において「みんなちがって、みんないい」は断じて綺麗事じゃない。

そこまで流暢でもない僕の言葉にもしっかりと耳を貸してくれて、創った作品に対して本気で向き合ってくれた。「芸術」は、どんな「コンプレックス」も「そんなのくだらないよ」と笑い飛ばしてくれた。「芸術」は僕にとっての生き方になっていた。

芸術とは食べれられないが、ご飯のように生きる事を豊かにしてくれるものであり、その必要性は科学のそれと全く変わらないはずだ。「芸術」VS「科学」という線引きはあまりにも恣意的である。「芸術」&「科学」でいいはずだ。

アートマニフェストという、芸術家による芸術に対する提言書のようなものがある。1850年代から流行り始めるムーブメントで今は、若干しりすぼみになっているが、「芸術」を守り抜くために戦ってきた先人たちへのリスペクトも含めて、今、必ず問い直さないといけいない。

あの広告はきっと、科学者になれというよりも「人生、お金になることをしようよ」とか、「もっと社会の役に立つことをしようよ」とかそういう事を言いたいんだと思う。「芸術」なんて実用性の対極にあるものだと、1年前の自分もそう思っていたからこそ、提言したいのである。

2016-09-05-1473102290-9259037-22.jpg
「世界が叫ぶなか、僕は一人でそこに座る」by Yoshi Nomura

芸術は「みんなの」ものだ。
鍛錬と技術が裏付ける専門家だけに許された「特権」ではない。
何者でもない庶民の手の中で静かに眠る「権利」だ。
美しさじゃない、叫びだ。

芸術は「する」ものだ。
額縁に飾って惚れ惚れしながら、スパークリングワインを飲むためのツマミではない。
魂と真正面から向き合った時に溢れる叙情的な涙を、ただそのままに流すためのものだ。
受動ではない、能動だ。

芸術は「真に生きる」ことそのものだ。
赤ペン先生の顔色を見ながら、綺麗に上手に繕うものではない。
答案用紙を投げ捨てて、教室からも飛び出して、目をつぶって宇宙旅行にでることだ。
バニラじゃない、裸だ。

明日に芸術を求めなかったら。
明後日には、みんな死んでしまう。
明日に芸術を見よ。