政教分離がありえないイスラム教と言論の自由

今回の事件がなぜ起こったのかについて、単純に言論の自由は宗教批判について許されるべきなのか否かという枠組みで捉えるべきではなく、イスラム教とキリスト教の根源的な価値観の違いが引き起こした事件として、捉えるべきだと考えています。
DHAKA, BANGLADESH - 2015/01/11: Muslim devotees participate in the last day Biswa Ijtema called 'Akheri Munajat'. The Akheri Munajat in the last day of 'Biswa Ijtema', an event where Muslims focused on prayers and supplication and they are not allowed for political discussions, at Tongi in Gazipur district. (Photo by Mohammad Asad/Pacific Press/LightRocket via Getty Images)
DHAKA, BANGLADESH - 2015/01/11: Muslim devotees participate in the last day Biswa Ijtema called 'Akheri Munajat'. The Akheri Munajat in the last day of 'Biswa Ijtema', an event where Muslims focused on prayers and supplication and they are not allowed for political discussions, at Tongi in Gazipur district. (Photo by Mohammad Asad/Pacific Press/LightRocket via Getty Images)
Pacific Press via Getty Images

7日、「シャルリー・エブド」のパリ本社で、風刺画家などを含む12人が、アルカイダ系と見られるイスラム過激派によって殺害される事件が起きました。

言論の自由を脅かすような行為は許されるべきものではないとする意見が国際世論を埋め尽くしていますが、日本の一部の言論では、表現の自由はどこまで許されるべきものなのかと、議論も起こっています。

私ももちろん、言論の自由を脅かすような行為はあってはならないと信じますし、この事件についても非難します。

しかし、今回の事件がなぜ起こったのかについて、単純に言論の自由は宗教批判について許されるべきなのか否かという枠組みで捉えるべきではなく、イスラム教とキリスト教の根源的な価値観の違いが引き起こした事件として、捉えるべきだと考えています。

■心情規範のキリスト教、行動規範のイスラム教

日本人は、あまり宗教というものに馴染みがありません。宗教というものが、オウム真理教に代表される狂信者の集まりのようなものであるという理解に閉じ込められ、宗教とはどのようなもので、どのように社会形成に関わるのかということについて、理解が乏しいように思います。

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本では、キリスト教プロテスタントが現代社会の諸制度を築きあげる上で、重要な役割を担ったことが指摘されています。宗教は、文化や政治体制の形成に、多大な影響を与えるのです。これは、当然イスラム教においても同様です。

キリスト教とイスラム教の決定的な違いの一つは、心情規範か行動規範かという違いにあります。キリスト教は心情規範の宗教で、イスラム教は行動規範の宗教です。

心情規範とは、心の内面が問題にされる宗教ということです。キリスト教において最も大切なポイントは、神の存在を信じることができるかどうかということです。心の中で神の存在を信じることができれば、実社会での行動については問題にしないという宗教です。「しなければいけないことリスト」というのは、事実上ありません。

一方イスラム教には、「しなければいけないことリスト」もしくは「したほうがいいことリスト」のような項目が山のようにあります。「豚肉を食べてはいけない」「一日5回お祈りをしなければならない」「利子を取ってはならない」などです。

このような「しなければいけないことリスト」、つまり行動規範を固く守りながら生きるのが、イスラム教徒の特徴です。

では、この「しなければいけないことリスト」は、どうやって決められるのかというと、神アッラーの言葉を預言者ムハンマドがまとめたコーランを参考に決められます。

例えばコーランに、「豚肉を食べてはいけない」と書いてあるので、それが法律になります。

法律というと、国会で議論して決定するものだと思うかもしれませんが、イスラム教圏では違います。コーランが法律なのです。

つまり、イスラム教は政教一致なのです。

コーランから行動規範を読み解くというロジックで社会を形成しているイスラム教圏においては、心情規範のキリスト教のように政治と宗教を分離することは、ほとんど不可能です。

■言論の自由はイスラム圏で成立するか?

言論の自由は、議会制民主主義を運営する上でもっとも大切な価値観です。権力に対してものが言えなければ、権力の暴走を許して、まわりまわって国民が犠牲になるからです。

イギリスの哲学者ジョン・ロックは、暴走する国家権力を縛り上げるために立法と行政を独立させる統治二論によって、国家の暴走を制御しようと考えました。これにフランスの哲学者モンテスキューが司法を加えて三権分立に発展させ、現代の統治体制を考え出しました。

このように民主主義を標榜する国家では、言論の自由を保障して、国家権力を三権分立によって管理監督することがもっとも大切な政治のあり方だと考えられています。そして、そのために政治的意見を表明したという理由によって、刑務所に入れられたり暴力を受けたりしないように保障されています。

ところが、イスラム圏では、先に述べたように政教一致です。コーランがまずあって、法律があるという順番です。ですから、解釈をめぐる論争は起こりえますが、ルールの根本を支配するコーランについては問い直すことはできません。絶対に変えることのできない憲法があるようなものです。

もし、このコーランを踏みにじるような動きがあったとき、イスラム教徒は殉教の精神で、コーランの教えを守ろうとします。

例えば、小室直樹は『日本人のためのイスラム言論』の中で、1979年のイラン革命が、そのような行動であったと述べています。 当時政権を担っていたパーレビ政権は、西洋化政策、近代化政策を推し進めていましたが、それらの政策がイラン市民にとってイスラム教の教えを踏みにじる行為に映ったことから、政権打倒に乗り出します。パーレビ政権も数千人もの市民を虐殺して対抗しますが、ついにパーレビ政権は崩壊し革命が成功します。

このように、イスラム教徒は西洋的な振る舞いをしてコーランの教えに背くことと自らの死を天秤にかけたとき、コーランの教えに背くくらいなら、自らの命と引き換えにアッラーのために殉教するほうがマシであると考えるわけです。

つまり、突き詰めると、政治を行う上で最後まで守るべきものの優先度が、2つの宗教で異なることになります。キリスト教文化圏では言論の自由を、イスラム教文化圏ではコーランになります。

■言論の自由はコーランにおいては適応されない!?

キリスト教社会は、言論の自由をなによりも大切にする価値観と政治体制を普及させることにある程度成功したわけですが、それと同じことを、イスラム社会でも実現できるかというと、イラン革命を見てもわかるように非常に険しい道程であると言わざるをえません。

また、ムハンマドの風刺画のような行為を言論の自由と呼び、今後もイスラム教の根本部分を批判するようなことがあれば、このようなテロ行為によって殉教の精神でその批判者に襲いかかるようにテロリストが出てきても、なんら不思議はありません。

しかし、逆に言えば、コーランや預言者ムハンマドに対する批判でなく、イスラム教の正義をなしたいと考える人々を理解した上での批判であれば、このような悲劇は発生しなくなるだろうと思います。

私たち日本人は、少なくとも22億人いるキリスト教徒からも、16億人いるイスラム教徒からも嫌われていません。私たち日本人のように、2つの文化圏の外にいるからこそ、平和のために語れることがあるはずです。

スピーチの本質は、聴衆に寄り添って言葉を語ることです。今日本人は、2つの文化圏に何を語るべきか、大きく問われているように思います。

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