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「偏っていますが、何か」に対する違和感

2016年01月14日 23時35分 JST | 更新 2017年01月13日 19時12分 JST

今更ながら、神奈川新聞が2015年10月16日に掲載した「偏っていますが、何か」の記事について、僕も遅ればせながらささやかに声を発してみようかなと思います。実はあの記事が掲載された際、僕は大学院についていくので必死で何もコメントできなかったのですが、色々と思うことがありました。ですので、今年の抱負という文脈で、少しばかり意見をしようかなと思い立ったわけであります。

安保関連法案に対するSEALDsなどの市民団体による活動が活発化していく中で、現政権を支持する人々からの反撃もそれに呼応して大きくなっていったように思えます。その対立の中では、時折、複雑な問題がシンプルな二項対立の下で取り扱われ、論理が飛躍していく様相が見受けられました。

「偏っていますが、何か」の記事は示唆に富んでいて、新聞の役割に関する議論から民主主義における個々のあり方に至るまで様々な問題提起をしましたが、その記事に関しても同じようなことが起きているのではないかと感じたのが、今回意見することになった直接のキッカケです。

当たり前ですが、新聞には事実報道と主張表明の大きく二つの側面があり、神奈川新聞は後者の側面で徹底的に政権批判のスタンスを取っていることで有名な新聞です。ただ、少なくない数の人々が、そのスタンスが事実報道にも影響を及ぼしているのではないかと主張しています。そのような人々にとってはあの記事はただの開き直りに過ぎず、もはや新聞ではないとの声も上がっていました。

神奈川新聞社としては言うまでもなく、強大な権力を持つ政権に対する報道機関としての役割を意識した上で、主張表明として独自の見解を打ち出しているわけです。記事の元となっている「時代の正体」もその文脈での企画であることは間違いないのですが、その位置づけが曖昧となっていることで記事に対する批判を招いているのかと思います。ちなみにこの点は上智大学文学部新聞学科教授の田島泰彦さんも指摘しています。

あの記事では最終的に民主主義における多様性の重要性が主張されています。「それにはまず自らが多様なうちの一人でいることだ」という一文が非常に印象的でした。また、高知新聞報道部の高田昌幸さんは、今の日本では「偏向」vs「中立」という対立ではなく「偏向」の対義語は「多様性」とコメントしており、そちらも多分に示唆的です。

さて、問題となるのはこの多様性についてです。提起されたこの多様性をどう理解するかは各々に委ねられており、ここで少し思考が必要になってきます。

「偏っていますが、何か」は少々ブームとなったようで、TwitterやFacebookで、高校生や大学生がその言葉を使って自分の立ち位置を改めて表明したり、自身の意見に対する批判に反論している投稿をいくつも見かけました。「自分の意見は誰のものでもなく自分のもので、それは民主主義の要諦である多様性を形作る絶対的な意見だ」というのはよくわかるのですが、その先はどうでしょうか。

基本的に、「偏っていますが、何か」という姿勢は、安直に受け入れると、思考の放棄に繋がる可能性があります。そしてそれは違う意見や立場への無理解や拒絶へと繋がる可能性を持っています。その果てに出来上がる民主主義(?)を僕は素敵なものだとは思えません。それどころか、紛争の構図をそこに見るかもしれません。

一人ひとりが多かれ少なかれ偏っているのであれば、そんな偏った他人の意見を理解した上でその意見を超えるもしくは包括するような意見こそが、より積極的な意味で有意義な意見となるはずです。そのような意見は、実に様々な可能性を持ちます。十分な説得力を纏った洗練された意見は、到底無視できるものではなく、ポリシーメーキングにも影響を与えるほどのものになりえます。しかし、そうでなければ、相手にされません。なぜなら自分以外の人間も「偏っていますが、何か」の楯を持っているのですから。

有意義な意見を持つためには、それなりの知識と常に他人の意見を理解しようとする姿勢(≒他人の意見を排除するのではなく論理に取り込む)が必要となります。広い視野で、色々な論理を使い、意見を構築する――その作業は孤独で地味なものであるかもしれませんが、それこそが、一人ひとりが多様性を表明する先になければならないものではないでしょうか。その作業の後に辿り着く自分なりの「偏っていますが、何か」は、ただの開き直りではなくなっているはずです。

「安保関連法案は戦争するための法案」、「政権支持者はファシスト」、「デモする奴らは中核派のテロリスト」、「左派は売国奴」、「中立でいる人は何も考えていない」...。皆等しく多様性を体現する一つの意見ですが、そこにどれほどの説得力があるのでしょうか?もし僕が「紛争の原因は武器が存在していることだから全ての武器を今すぐ無くすべき」とだけLSEの教授に主張したとしたら、僕はもれなく落第となるでしょう。

また、自分だけの多様性を超える必要もあります。自分の領域から一歩踏み出して、幅広く自分以外の意見に触れてみる。そして自分と異なる論理を理解しようと努力する。自分にとって悪魔に見える他人にも、自分と同じく、大切にしているものがあるということを認めてみる。

その過程には数えきれないほどの恐怖が待ち構えていますが、その先で対面することとなる多様性は、自分の中だけで感じるものではなく、自分以外の存在から感じることができるものです。そして、それこそが理想的な民主主義の要諦になりうる多様性なのではないかと思うのです。

その多様性の中で、説得力のある意見がしっかりと議論されていけば、その民主主義はさらに発展していくはずです。世界や日本にいる膨大な人口数を考えるとどうも途方もないように感じざるを得ないですが、それこそが僕らの一つのゴールである以上、常にそこを目指していかなければなりません。いきなりゴールまで飛躍したい気持ちを堪えて一歩一歩進めていく。そんなことが必要なのかもしれません。

僕は、その姿勢を通して多様性を担保する一つでありたい。今一度、そのようなことを意識しなおさなければとふと感じた次第です。人は皆、形は違えど平和を望んでいるのにもかかわらず、世界はなかなか良くなりません。その原因と解決策を、開き直らず考え続け、実際に現実化させるべく、引き続き精進していきたいと思います。

(2016年1月9日「「偏っていますが、何か」に対する違和感」より転載)