「あそこで子どもを抱いてしまっていたら、私は仕事に戻れただろうか」4人の子と離れ、防災無線で避難を呼びかけ続けた大熊町職員の記憶

「必ず避難のバスは来ます」と伝えないと、パニックになり、けが人などが出たら大変だと考えました。

大熊町職員 武内一恵さんの証言

地震発生当初から防災行政無線を担当しました。地震の揺れが大きく、役場2階にはテレビがあったので、見ると沿岸部が津波警報で真っ赤になっていました。

最初の放送は熊川地区に対する津波の避難誘導でした。同じ文章を繰り返しながら、とにかく言葉をきちんと届けたかったので、声のトーンを下げ冷静に、ゆっくり丁寧に話すことを心がけました。

行政無線の内容は基本的に当時の総務課長か企画調整課長、生活環境課の上司の指示で行いました。基本的には口頭で指示を受け、その内容を私がメモにまとめたり、前に話した内容に付け加えたりして放送するスタイルでした。

津波に関しては、国道6号の東側の住民を町総合スポーツセンターに避難誘導という指示が来た時に「そこまで津波被害は大きいのか」と驚きました。

原発について初めて触れたのは、記録上では午後5時21分となっています。役場で同じフロアにいても私には災害対策本部の動きはほとんど伝わってきません。第10条、第15条の通報も知りませんでした。

漏れ聞こえてくる言葉や喧噪で感じるだけであり、指示された内容を伝えるだけです。この時はまだ原発の緊急停止を伝えるもので、私自身も危機感はあまり感じていなかったと思います。

気持ち悪いと感じたのは12日午前3時41分、「車のエアコンを内気循環にして下さい」と伝えた時です。はっきりと「内気循環」という指示がありました。

それまで津波や地震による避難の広報が続き、原発対応が加わっても万が一のため。そこに「内気循環」と言われて「なんで?」という疑問が浮かび、状況が深刻化しているのではないかと思い至りました。外気に放射性物質が含まれているということだからです。

この放送をした時に、一番嫌な印象が残っています。

その後、12日早朝の全町避難の放送は、とうとう来たという感じで、より丁寧に話すことを意識しました。「必ず避難のバスは来ます」と伝えないと、パニックになり、けが人などが出たら大変だと考えました。

避難途中、バスが戻らず自家用の大型車への乗り合いをお願いしたり、渋滞が発生したため自家用車での避難を控えてもらったりしています。

私の避難は午後2時半頃、職員が避難する最後のバスでした。うまく説明できませんが、その時、私はもう町には戻れないと感じていました。

バスの窓から見える町の風景を見ると自然と涙が流れてきました。役場にいた職員全員が避難すると思っていたら、総務課長以下、私の直属の先輩係長も残ると言いました。その人たちが手を振ってバスを見送ってくれていました。

私はまるで今生の別れのように泣いていて、別に原発の状況を詳細に知っていたわけではないのに、「なんで自分はこんなに泣いているんだろう」と自分で不思議に思っていました。

2011年3月、避難先の田村市総合体育館に設置された町災害対策本部で対応にあたる職員たち。左から2番目は武内さん

一連の避難の中で最もつらかったのは4人の子どもと会えなかったことでした。我が家は夫も町職員で2歳の末娘を保育園に迎えに行くこともできずにいました。

11日夜、たまたま用事で訪ねた役場裏の体育館で「ママ」と呼ばれ、振り向くと末娘が1人、立っていました。私は「ああ、親戚とここにいたんだ」とホッとしてそのまま仕事に戻りました。

人見知りの盛んな頃だったのに娘は泣かなかった。あそこで泣かれ、子どもを抱いてしまっていたら、私は仕事に戻れただろうか、と今でも思います。

12日は避難の広報をしながら、子どもたちがどう避難しているのか知る術もなく、「どこかで必ず会える」と思うしかありませんでした。子どもたちは私と夫それぞれの両親とともに避難所に入っており、その後、県外の親戚へ預けました。

親戚の所へ送る際、一度だけ再会でき、ぎゅっと抱きしめた時の子どもたちの匂いは忘れられません。

「地震発生時のままの町立小学校の教室」(撮影日時不明)

私の避難先だった田村市総合体育館の廊下では、子どもたちと電話しながらよく泣いたなあと思い出します。

上司の一人には「もう辞めろ」と言わせてしまいました。私は「避難所運営の足手まといだ」と言われているのかと思い、「肩たたきですか」と強がったら、彼は「そうじゃない。もうお母ちゃんに戻ってもいいんじゃねえのか」と言ってくれました。気持ちを汲んでくれる人がいた、そのことがとてもありがたく、その後の支えになったのを強く覚えています。

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武内さんが防災行政無線で話していた内容は、会津若松市に避難した後、武内さんと上司が放送時間のデータと記憶を基に文書化し、保管されています。

今回、記録誌をまとめるにあたり、震災直後の町がどのような情報を基に何をしたのか、見定める一つの基準となったのがこの防災行政無線の記録でした。

震災直後、携帯電話や無線が混線しつながりにくい状況が続き、町災害対策本部にとって防災行政無線は町民や庁舎外で活動する職員と情報を共有する手段でした。

しかし、「防災無線で避難指示を知った」という町民がいれば、「無線を聞いた記憶がない」という職員もおり、放送した内容は町民や職員の耳に届いていたとは限らないようです。

2011年3月12日に始まった全町避難。県から指示された町の避難先は隣の田村市でした。

しかし、同市の避難所は町に近い場所からどんどん満員になり、空いている施設を探して避難経路の国道288号を進むうち、避難先は近隣4自治体の20カ所以上にわたりました。

288号は渋滞し、一部の町民は受け入れてくれる避難所を見つけるのに翌13日未明までかかっています。

13日には職員が各避難所に割り振られました。数日間、自分の家族がどこにいるのか分からないまま避難所運営にあたっていた職員も少なくありません。

徐々に電話が通じたり、名簿が整理されたりして家族の安否も確認されていったようですが、複数の職員が「子どもたちの様子を知人や同僚に聞いて知るしかないのがつらかった」「一番不安な時に子どもの側にいれなかった」と複雑な心境を語りました。

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(震災記録誌は町民以外にも配布している。ウェブ版はこちら(http://www.town.okuma.fukushima.jp/fukkou/kirokushi)。冊子版の取り寄せ依頼は、大熊町役場企画調整課 kikakuchosei@town.okuma.fukushima.jp まで。

(記録誌をまとめた福島県大熊町企画調整課・喜浦遊)

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