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より正しい物語を得た音楽はより幸せである ~佐村河内守(新垣隆)騒動について~

2014年02月08日 23時13分 JST | 更新 2014年04月10日 18時12分 JST

被爆二世、独学で音楽を学んだ全聾の天才作曲家と謳われた佐村河内守氏のほぼ全作品が、実際には桐朋学園大学の講師を勤める現代音楽作曲家・新垣隆氏の手になるものだった、という衝撃的な事件が世間を賑わせている。これに関連して、少し自分の思うところを書いておきたい。

メディアや音楽出版社のあり方、またはポリティカル・コレクトネスについての議論はほかに譲るとして、音楽そのものについての話になる。今回の事件はかなり根源的な問題まで浮き彫りにした、というのがもっぱらの認識のようだ。人は音楽にいったい何を聴き、何を根拠に評価しているのかということ。また純粋に音楽を聴くのはいかに難しいかということ。そんな問題についてだ。ここで私は、純粋に音楽を聴くことなど不可能であるのは当然として、そんなことを目指す必要さえない、という主張を述べたいと思う。

私が初めて佐村河内氏の名前を知ったのは昨年、おそらく例のNHKスペシャルが放送された直後のことだ。人づてに話を聞いて興味を持ち、ネットで検索してプロフィールやら言及する文章やらを読み、曲の断片を動画で視聴したと記憶している。そのとき強烈に残ったのは、まず違和感であった。

違和感というのは、その音楽のたたずまいとプロフィールや売り出し方とのあまりの乖離に対してである。端的に言ってその音楽は、丹精込めて仕上げられた工芸品のように思われた。真っ当にクラシック音楽の教育を受け、あらゆる作曲技法に長けた知性に優れる人間が、都度つど何らかの書法の制約を自らに課しながら書き上げたものだと「わかった」。今このようなことを書いても後出しだと言われるのはわかりきっているが、そう思ったのは事実で、おそらくクラシックを学んだ心ある人間の多くが直感できたはずだ(実際、私の知る音楽家の幾人かは今回の発覚に対して「やっぱり」といった感想を漏らしていた)。聴覚を失った後に真実の音に目覚め、それまでの楽曲を全て破棄した元ロック・ミュージシャンが、常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って作り上げた物とは、到底考えられない。プロフィールのそれらの言葉には薄ら寒さすら覚えた。オエッ。売り出すためのストーリーを誰かが描いている。作曲家はそれに乗じて悪びれずにいるらしい。そんな構図を漠然と思い描いた。

私はそのとき、彼の音楽を嫌った。いや、嫌おうとしたのだ。彼が自らに課した書法の制約とは、泣ける音楽にするための――言い換えればマス・マーケットに届けるための――打算であったに違いないと想像した。売る気満々で書かれた、嘘にまみれた、いやらしいパッチワークなのだろうと想像した。そうして想像してみて結局、最初の印象に戻るのだった。怖気の走るようなまがい物にしては「丹精込めて仕上げられた」ものに聞こえる。真摯に音楽に向かわずしてこれが生み出せるのなら、随分な才能の持ち主なのだろう。その点だけは悔しいが認めざるを得ず、周りに評価を聞かれても曖昧なことを言うほかなかった。CDなんてもちろん買う気もしなかった。胡散臭い人間が胡散臭い売り出し方をしている、大量の嘘が混ぜ込まれた(はずの)曲が、聴いてみたら本当に見事な出来だった、なんてことになれば余計に悔しいし。そうそう、聴かなくたってわかる。きっと、聴いてて腹が立つような作品に違いない。あーあ、佐村河内守の曲なんて、嫌いだ。

――見たまえ、ここに「物語」によって音楽への好悪を左右される情けない人間の姿がある。しかも漠然と思い描いただけの、自分の脳内で生み出した勝手な物語によって認識を歪められているのだから世話がない。私だけがこんな情けないのか? ......いや、そうでもない......ですよね?

さて、話は変わるが、クラシックの演奏家にはある程度の「勉強」や「研究」が求められる(もしかすると、聴衆にも)。曲の形式について。その時代に共有されていた音楽上のイディオムについて。そして作曲家本人について。「この曲の作曲当時、彼は熱烈な恋をしていた」だの「この曲の作曲直前に娘を亡くした」だの、そんなことまで。時代によって、あるいは作曲家の個性によって、それらの外部的な研究成果と演奏をどういう態度で結びつけるべきかは変わってくるが、基本的には、知らないよりは知っていた方が良い、というのが普通の態度である。なるべく正しい情報を、多く知っているべきだ。その方が「この曲のここがこうなっているのはこういう理由に違いない」などという考察を深めやすくなるはずだからだ。外部の情報によって音楽への理解度が変わるなんて、当たり前の話である。作曲家が何らかの真実に到達したのだとして、演奏家や聴き手がそこにより近づくために、補助具となる情報を利用する。何も間違っていない。

――ここで「じゃあ人間以外が作った音楽があったとして」みたいな話についても書こうかと思ったが異様に長くなりそうなので割愛。

さて、今回の新垣氏の暴露についてである。これはもう、腑に落ちた。なるほど、あの音楽はそのようにして生まれたものだったのか、と納得がいった。これを知った上でなら、音楽を素直に聴ける気がしたのだ。なぜなら、少なくとも新垣氏は作品に嘘を混ぜていないとわかったから。「発注書」にある熱量を忠実に曲に盛り込もうとして、自らの持つ技術と能力を注ぎ込んであれを完成させたのだから。背後にあるより正しい情報を、「物語」を知ったからこそ、どのように工夫して書かれ、何が表現されているのか、よりよく理解しながら聴けると思った。

考えてみれば、あれらの音楽は現代に生まれた真の奇跡と言えるかもしれない。クラシック業界にある問題のひとつとして、能力のある作曲家は(多くの)演奏家が演奏したくなるような曲、聴衆が聴きたいような曲を書こうとしない、というのがある。そりゃそうなのだ。クラシックの作曲家というのは、少なくともオーケストラ楽器を用いた作曲については圧倒的な知識と技量を誇る。あらゆる技法を分析し自家薬籠中の物とできるような人が、過去の作品の焼き直し・パッチワークを作ることに甘んじて満足できるわけがない。感動的に盛り上げるための和声進行も知っている、恐怖を覚えさせるためのリズムも知っている、きらめきを感じさせるための管弦楽法も知っている。つまらない、つまらない。使い古された書法も聞き飽きた調性の世界もつまらない。面白いものを、自分だけの新しい音楽を書きたい。そういうわけだから、自分の作品として、あえて過去の語法に則ったスタイルの音楽を書く人間は、現代にはまずいない(そこからして胡散臭かったわけだ)。往年のクラシック作品みたいに聴いていて素直に心の動くような書法の音楽は、たとえば映画やアニメ、ゲームのBGMとして「発注」されない限り、なかなか生まれない。

新垣氏のような作曲技術に長けた人が自発的にあのようなタイプの作品を書くことは不可能だった。なぜロマン派~ペンデレツキ風、みたいな書法の制約を自ら課すのか、という問いに答えようがないからだ。自分はもっと面白いことができるはずなのに。しかし、発注書があれば話は別だ。なぜそんな制約を課すのかって? そういう発注だからだ! わかりやすい。書法のことを置いておいても、現代社会において80分の大交響曲が生まれるというのはまずありえない。交響曲に必要とされる精緻なスコアを書くための知性と、交響曲を書こうという誇大妄想的な動機がひとりの人間に同居するというのは相当に考え難い状態だからだ。

個人的には、こういうプロデューサーつきのスタイル、現代のクラシック業界の停滞を吹き飛ばすひとつの手段として広まっても良いんではないかとさえ思える。制約があってこそその枠内で創意工夫を凝らして良いものができることだってある。

佐村河内氏の誇大妄想的なアイディアを新垣氏が形にするという、この特異な状況下でしか生まれ得なかったあれら一連の楽曲とその魅力を、「全聾の作曲家が轟音の中で」云々よりよほど真実に近いだろうこの(小説より奇なる)物語とともに味わい、よりよく理解し、より正しく評価すること。それが、取りうる最も適切な態度ではないかと思う。

佐村河内氏の詐欺行為は断罪されるべきことだろう。しかし、週刊誌記事などを読む限り、「凄い曲を世の中に出してやろう」という強い意思だけは本物であったのだ、と感じられる。記者会見で新垣氏が述べた言葉が印象に残っている。その言葉だけで、この事件は悪いことばかりではなかったんだと思えた。彼はこう語っていた。

彼の情熱と私の情熱が、非常に共感しあえた時というのはあったと思っています。

(2014年2月7日「森下唯 official site」より転載)