監視されるべき権力者が監督する異様さ−欠陥を抱えている放送制度

高市総務相が電波停止の可能性に関して言及した答弁の全文を確認したが、重要な点は2つある。

別の記事(【答弁全文】高市総務相、電波停止の可能性に言及)で答弁全文を確認したが、電波停止の可能性に触れたこの答弁で重要な点は二つある。

一つ目は、民主党の奥野議員が高市総務大臣に「電波停止になる可能性がある」という発言をするように促した点だ。奥野議員は「第四条の違反に関しては使わない」という回答を求めていたが、これを絶対に使わないと言ってしまえば法律の意味がなくなり、そうなれば別の問題が生まれるだろう。その意味では、今回高市総務相、また政権を責めても大きな意味はないように思える。

しかし、重要なのは二点目だ。「選挙期間中やその前後に特定の候補者に偏った報道」や「国論を二分するような政治課題について、一方の政治的見解に偏った報道」の政治的公平性について、総務大臣が判断するということだ。これは現在の自民党政権に限らず、どの政権でも問題である(実際、民主党政権時代にも「第4条も法規範性を持つもの」と答弁している)。

ただ、法的根拠のある総務大臣(行政)が介入するのは別だが、自民党や議会が放送局幹部に呼び出しを求め介入するのは問題があるだろう。

放送法は権力から独立するために作られた

放送局の制約に関しては、放送法と電波法で定められている。

放送法とは、戦前の日本放送協会が政府の宣伝機関になっていたことへの反省を踏まえ、放送局が権力から独立したものになるよう作られたものである。戦前は政府が放送内容に介入することができるようになっていたため、当時の芦田内閣や吉田茂内閣は大きな抵抗を示したが、GHQが政府による監督や介入を禁止し、民主化を進めた。

(目的)

第一条

この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

また、第三条では放送番組編集の自由について書かれている。

(放送番組編集の自由)

第三条 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

そして今回、民主党の奥野議員が「第四条の違反に関しては使わない」という回答を求めた四条の内容は下記のとおりになっている。

(国内放送等の放送番組の編集等)

第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

一方、総務大臣の権限については放送法第174条と電波法第76条で定められている。

(業務の停止)

第百七十四条 総務大臣は、放送事業者(特定地上基幹放送事業者を除く。)がこの法律又はこの法律に基づく命令若しくは処分に違反したときは、三月以内の期間を定めて、放送の業務の停止を命ずることができる。

第七十六条 総務大臣は、免許人等がこの法律、放送法 若しくはこれらの法律に基づく命令又はこれらに基づく処分に違反したときは、三箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ、又は期間を定めて運用許容時間、周波数若しくは空中線電力を制限することができる。

欠陥を抱えている放送制度

しかし、冒頭に述べた通り、政治的公平性について、その時の総務大臣が判断する、というのは非常に危険である。本来、権力から独立するために作られた放送法であるが、これでは権力に依拠することになる。ではなぜこのように欠陥を抱えているのだろうか。

それは、放送制度が放送法を作られた時から変遷しているからだ。放送法は1950年にGHQの指示によって作られたが、その際に、放送局を監督する独立機関として「電波監理委員会」が設置された。これは米国の米国連邦通信委員会(FCC)に相当するものである(内閣総理大臣が委員を任命するものでBPOとは異なる)。

しかし、1952年に日本の主権が回復すると、吉田内閣は効率性という名目で電波監理委員会を郵政省(総務省の前身)に統合し、政府が監理するようになる。だが、実際には内閣の権限が及ばないことに吉田内閣が大きな不満を持っていた背景がある。これによって、電波と放送の監督が総務大臣に一任されることになった。また、1980年代以降、やらせ番組が発覚し、郵政省・総務省が行政指導をするようになる。政府(行政)が放送局を監理している国はOECD諸国では日本だけだ。

このように現状の放送制度は、放送局を規制するのが批判される側の政府というアンバランスなものになっており、第三者機関を再度作る必要性がある。もしくは電波の自由化だ。新聞・ウェブメディアのように自由に参入できれば政治的公平性など大きな問題にはならない。

現状は、電波を与えられている放送局も権力の一部になっている。誰もが参入できる新聞・ウェブメディアとは大きく異なる。そのため、放送局にも制約(虚偽の報道やテロ組織翼賛などをしないよう)を与えるために電波停止される可能性が残っているのは当然の帰結である。問題は、その判断をするのが政府という同じく権力側であるということだ。本来、政府が放送局に介入するのを制限するための放送法が、政府が介入することができる根拠になってしまっている。

一方で、放送事業は不健全な独占市場となっており、電波利用料が数億円〜十数億円なのに対し、事業収入は数千億円となっている。本当に「言論の自由」を担保するのであれば電波も自由化し、多様な放送局がある環境を作るべきだ。「言論の自由」だと謳いながら参入障壁を高くするのは違和感がある。

だが、まずは、民主主義を健全に機能させるために、政府という権力の監視はメディアが行い、第四の権力である放送局は第三者機関が監督すべきだろう(電波を自由化すれば抜本的な解決策になると思うが)。

(2016年2月14日「Platnews」より転載)

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