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アフリカン・アメリカンを殺害した白人警官の不起訴――構造的な人種差別を変えるのは、長い戦いになる

2014年12月11日 20時44分 JST | 更新 2015年02月10日 19時12分 JST
Anadolu Agency via Getty Images
LONDON, UNITED KINGDOM - DECEMBER 10: Hundreds of people demonstrate outside White City Westfield Shopping Centre in London, England on December 10, 2014 during a protest after two grand juries decided not to indict the police officers involved in the deaths of Michael Brown in Ferguson, Mo. and Eric Garner in New York, N.Y. (Photo by Tolga Akmen/Anadolu Agency/Getty Images)

ミズーリ州ファーガソンで丸腰のアフリカン・アメリカン(AA)の少年が白人警官に射殺され、ニューヨークではアフリカン・アメリカンの男性を逮捕する際に白人警官が首を締めて窒息死させた。いずれの警官も大陪審で不起訴の決定が下され、全米で抗議デモが拡大している。

アメリカ国内での警察に対する信頼感は、人種によってかなり異なる。白人や東アジア人系の人間であれば、何か事件やトラブルが起きたら警察に通報すると考えるが、アフリカン・アメリカンをはじめ、ラテン、ネイティブアメリカンなどの肌の色が濃い人たちや移民層、LGBTQなど、社会的弱者にされているコミュニティでは警察に対する信頼はない。あるとしてもごくわずかだ。人種をベースとした社会的弱者たちの警察不信は今にはじまったことではなく、今回の2つの事件で改めて浮き彫りになったと言える。それは、警察の人種差別的な振る舞いは日常茶飯事といっていいほどありふれたことであり、今回の事件もテレビや新聞などの主要メディアが大々的に報じただけにすぎず、ネットで草の根的に発信するオルタナティブ・メディア(非主流メディア)、インディペンデント・メディア(独立メディア)ではよく報じられていることだ。

とはいえ、なぜ今回の警察の人種差別的な行動が全米規模での抗議デモにつながるような特別な事態となったのか。それは、人種差別が一対一の個人から他の個人に対しての孤立した行動でなく、団体として警察がその差別的な行動を容認し、それを裁くはずの法システムも不起訴という決定によって直接的に、差別を助長したからである。このような孤立した行動でなく、社会的基盤によって支えられた人種差別を構造的な人種差別と呼ぶが、社会的弱者はほぼ毎日このような差別に直面せざるを得ない。

2012年2月にフロリダ州サンフォードでAAの少年トレイボン・マーティンが射殺された事件でも、射殺した自警団員の加害者(私は加害者と呼んでいる)が無罪になった。この事件も一個人の差別的な行動に基づいた殺人行為だけでなく、法システムも加害者を無罪にすることにより、個人行動よりさらに一歩レベルの高いシステムにおける差別を行ったのである。

個人レベルの差別は、一個人が学ぶことで短い時間で変わることが可能かもしれないが、構造的差別は、システムにおける何層もの差別的な基準、それを行動に移す人々の再教育が必要なため、長い時間をかけないと、特権的なシステムの根本は変わらない。

理由ははっきりしないが、「これってもしかしたら差別的だから言ったらだめかも知れない」「本当は差別的な気持ちがあるけど、みんなに攻撃されたら困るからネットでは言わないでおこう」などという、正しい知識に基づいた価値観を持たない人たちは、権力を持った人間がヘイトスピーチや差別的な発言をしたときに、ああ、「自分の考えは間違ってなかったんだ」と肯定されたような気持ちになり、そのような発言または、そのような発言をする人々を支持してしまい、大きなコミュニティとなり、個人レベルの差別をさらにコミュニティレベルまたは特権的なシステム化してしまっている。

今回の事件は、構造的な人種差別を正すシステムが十分に機能していないことが露呈した。それが普段よりさらに多くの人に「目撃」されたのだ。最近、日本でヘイトスピーチが主要メディアでも取り上げられるようになったことと同じ現象が起きたのではないか。

ミネソタ州ミネアポリスでは2012年、ネイティブアメリカンとフランス系カナダ人の血をひき、また、女性のパートナーをもつ女性ジャネー・ハートーが市の警察長官に選出された。彼女の努力によって、市民と警察との人種問題、LGBTQ問題などが公の場所で語られるようになった。

今回、ミネアポリスで行われたデモは、警察がすべての人の安全を保障することを目的に謳いデモに理解を示すという立場で行われたので、デモ参加者に対し、暴力的行為、またはデモ参加者を排除しようという行為はほぼなかったように思われた。もちろん他の地域に比べて参加人数が少なかったとはいえ、ファーガソン警察の対応とはずいぶん異なる印象を受けた。しかし、デモの列に車がわざとつっこみ、人に軽症を負わせたのにもかかわらず、その加害者は起訴もされていなければ、逮捕もされなかった。

アメリカではもちろんアジア系への差別もある。移民の国ではあるが、人種差別がおもむろに出てくる。しかし、主要メディアで見る限り、デモに参加しているアジア系は少ないように見える。ミネアポリスではカリフォルニアなどに比べ、アジア系の住民が少なめという事情もあるが、ほとんど白人(に見える人)とAAが占め、ラテン系は少し、アジア系は数えるほどだった。アメリカ社会で、モデルマイノリティという神話をかぶせられ、特権システムにかかわることが多いからなのか、それともアジア系アメリカ人および移民がもつAAに対する差別観なのだろうか。数少ないアジア系市民団体が今回の判決に関して、AAに対する差別に自分たちもかかわっていくという連帯声明をだしたが、私は社会運動に関するアジアでの関心の少なさ、および社会運動がアジアにおいて強く暴力的に抑圧されたきた歴史から社会運動への参加を恐れるアジア人が多いことが、今回の運動でアジア人の参加を抑えているのではないか思う。

※モデルマイノリティとは、アメリカで「マイノリティ」と呼ばれる人、特にアジア系アメリカ人(その中でも特に東アジア系アメリカ人)の社会的な成功を描写するのに使われる言葉で、こつこつと勤勉に努力し、我慢すれば、厳しい社会状況に囲まれながらも、社会的に成功する例として使われる。しかし、この言葉の裏には、社会の中の構造的な不平等の存在を認めず、逆に社会変革を市民権運動などの政治運動により変えていこうとする「マイノリティ」同士、特にAAとその他のモデルマイノリティとの連帯を防ぎ、さらには互いの不信感を高めよういう意図が多くの場合含まれる。

構造的な人種差別問題を変えていくためには、単発的なデモでなく、長い戦いを覚悟しなければいけない。そして、いろいろな社会問題に対して活動しているいくつものNPOと連帯しながら行動する。ミネアポリスとミシシッピ川を挟んだセントポールの、いわゆる「ツインシティ」にあるいくつかのNPOはそう考えている。2013年には、同性婚を合法化する運動が実を結んだ。この成功には通常、同性婚には直接かかわっていない組合、アジア系団体、AA系団体、宗教団体などいろいろな社会運動と連帯したことがキーとなったとされている。NPOの中にも、それにならって今回も連帯を広く組んで長く運動を続けていこうという人が中核にいる。

長い戦いに備えて、人種差別がアフリカン・アメリカンのみの問題でなく、人種を越えた社会的弱者すべての人が当事者感覚をもち、連帯を組み、そして、差別を行う抑圧者の側にいる人に働きかけ、共に行動しないかぎり、この怒りは単発的なものにとどまり、根本的な解決に向かわないのだから。

ナチスの拡大を阻止できなかったことを悔やむドイツのマルチン・ニーメラー牧師はこういいました。
「ナチスが最初に社会主義者を攻撃したとき、私は行動にでなかった。なぜなら私は社会主義者でなかったから。
ナチスが次に労働組合員を攻撃したとき、私は行動に出なかった。なぜなら私は労働組合員でなかったから。ナチスがユダヤ人を攻撃し始めたとき、私は行動に出なかった。なぜなら私はユダヤ人でなかったから。
そして、ナチスが私を攻撃し始めたとき、私のために声をあげる人は一人も残っていなかった。」

社会的抑圧を自分とは関係のないことと思うのではなく、この問題が自分に、そして自分の周りの人にどのような影響を及ぼすのか、そしてそれを阻止するのに自分にできることは何なのか、また自分にしかできない役割はないだろうかと考え、そしてそれを行動に移すことが、現在私たちをとりまく不信感をすこしでも軽減するのではないだろうか。

Ferguson Responds To Grand Jury Decision