感情と論理どっちが優先?

論理と感情は相対的なもの――その上での話なのですが、これからは相対的に感情が優先されるようになる時代が来るかもしれないと感じています。
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こんな記事を読みました。

この記事は、いくつか例を挙げて「世の中の人の行動には非論理的なことが多いのでよろしくない」と主張されています。

その主張の論理の疑問点については多くの方が指摘されているので、私は特にそこには触れません。

ただ、私が思ったのは「そもそもそんなに論理より感情が優先されてるかな?」ということでした。

例えば、この記事の筆者のようにロジカルシンキング(論理的思考力)の乏しさをあげつらう方は少なくありません。「女はすぐ感情的になるから嫌だ」などという皮肉を聞いたことが無い方はいないでしょうし、感情的な行動は「子どもだ」とか「社会人としてどうか」などと揶揄されます。

また、多くの方はロジカルシンキングが大事であることは認識していると思います。実際、ロジカルシンキングの能力向上を謳った自己啓発書のようなものは本屋に山のように積まれています。

そして、多くの方が経験する受験勉強についても、一部の悪問を除けば、全てロジカルシンキングが求められます。スポーツや文化的活動が評価される入試は依然ごく一部です。

ビジネスの世界でも、ビッグデータを用いた統計分析から人の感覚に左右されない合理的な戦略を立てようという動きが盛んです。

これらのことからは、「論理>感情」ととらえる向きは少なからず存在していて、一概に「論理よりも感情が優先されている」とも言いがたいのではないでしょうか。

おそらく、自身を論理的と考えてる方は世の中を「感情的で愚か」だと認識し、自身を情緒豊かと感じている方は世の中を「理屈っぽくて冷徹」と思う傾向がある、そんな相対的なものではないかと私は思います。

■これからは感情の時代かも

さて、論理と感情は相対的なもの――その上での話なのですが、これからは相対的に感情が優先されるようになる時代が来るかもしれないと感じています。

まず、「論理」もこれだけ重視されるようになったのは最近のことです。

中世以前の時代では重視されていたのは論理ではなく武力や体力でした。戦うのも農業をするのも、まずは身体能力ありきですから、それも仕方がないことでしょう。

一部に学を修めた偉人たちはいらっしゃいましたが、文武両道といった言葉に象徴されるように、どんなに頭の良い子でも身体能力がなければバカにされていたはずです。

それが、ルネサンスや産業革命といった科学技術の発展が始まると状況が一変します。どんなに個人の身体能力が高くとも機械のパワーには勝てないですし、鉄砲で撃たれたり大砲を撃ち込まれたらあっさり死んでしまいます。

結果、この時代以降は機械を操ったり設計したりする知的能力と、そもそも鉄砲で撃たれないようにする戦略的思考能力あるいは新しい技術を見出す科学能力が求められるようになりました。

各国がこぞって皆教育に力を入れ始めるのもこの時代以降で、工業や科学の基となる知的能力がいかに重視されるようになったかが分かります。

そして、現代のような情報社会に至っては、体力よりも論理のような知的能力がとても大事になっています。

実際、私達を支えている様々な科学技術も「論理の子どもたち」です。電車やパソコンやスマートフォンなどなど、ロジカルシンキングが無くては生まれ得ないし、進歩しない物たちです。

これらのようなロジカルシンキングを礎にした科学技術の目覚ましい発展から、20世紀を「論理の時代」と呼ぶ方もいます。

さて、それでようやくこれからの時代なわけですけれど、「身体能力」が産業革命で機械に取って代わられたように、「論理能力」もコンピューターに取って代わられていくのではないかなと、私は思うんです。

以前、将棋のプロ棋士がコンピューターソフトに敗北して話題になりました。純粋な論理活動ではそろそろ人間はコンピューターに勝てなくなってきています。

ビッグデータの統計解析だって、論理の申し子たるコンピューターが発達して初めてできるようになった代物です。あの膨大な計算を人がやろうとしても一生かかっても終わらないでしょうし、多分計算も間違ってることでしょう。

こうなってくると大事になってくるのが、「ロジカルシンキングそのもの」よりも「コンピューターという強力なロジカルシンキング装置を使って何をするか」です。

それはつまり「私たちがどうしたいのか」に他なりません。しかし、これはどんなに論理をこねくり回しても出てくることはありません。

なぜなら、「私たちがどうしたいのか」という命題は、「私たちが何を幸せと感じるか」「私たちが何を大事にしたいのか」という価値観すなわち感情に直結しているからです。

論理を動かすには仮定や前提条件が必要で、その前提条件が分かっていなかったり、存在していなければ、論理は何もできません。ですが、その前提条件こそが私たち自身の感情なのです。

私たち自身の感情を見出すのは実は容易ではありません。

「自分探し」などと「自分のやりたいこと」が見つからずさまよう人は後を絶ちませんし、ふと「今の生活で自分は幸せなんだろうか」と悩むのが人間です。

このように自身の感情でさえ分かりにくいのですから、他者の感情はもっと分かりません。

自分の配偶者や恋人の考えてることが分からない、友人がどうしたいのか分からない、自分の子どもが何が嫌でグズってるのか分からない、上司や部下の言ってる意味が分からないなどなど、そういった悩みに無縁であった方はまずいないでしょう。

しかし、私たちが社会の問題を考えていく時には、自身の感情だけでなくこういった他者の感情への配慮が不可欠です。なぜなら社会は「私」や「他者」で構成される「みんな」のものだからです。

例えば苦手科目だった数学が得意科目となり得点源になったとすると今度は次に不得意だった国語が今後の課題として取り上げられるように、一般的に、あるステップの遂行が技術革新で容易になると次は他のステップの遂行がボトルネックとして認識されるようになってきます。

機械の発達で私たちの「身体能力」の限界は突破され、コンピューターの発達で私たちの「論理能力」が劇的に向上した結果、次に課題となるのは私たち自身や他の人々の価値観・感情を把握する言わば「共感能力」ではないでしょうか。

この「共感能力」を向上させるのは容易なことではありませんが、容易ではないからこそ大事なのだと思います。

まとめます。

人類の科学技術の進歩によって、力が優先されたフィジカルの時代から、論理が優先されたロジックの時代を経て、21世紀は感情・共感・感覚・直感を大事にするアートの時代になるのかも、私はそう感じています。

論理も確かに大切で私たちの生活に不可欠な存在ですが、今後のことを考えますと、感情を蔑視し論理ばかりを重視する向きもあまりよろしくない、私はそう思います。

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P.S.

色々書いたのですけれど、実のところ、普段私も「雪たんは理屈っぽい」と言って怒られるタチだったりします。

何とか論理と感情と良いバランスになりたいなあとは思うのですが・・・(´・ω・`)

(2015年2月11日「雪見、月見、花見。」より転載)

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