「偏見」とは「偏って見てる」のではなく「偏った部分しか見えないこと」

実際に会って交流してみたり、または自分自身がその中に入り込んでみたりした時に、「思ってたのと違う!」って感じたことってありませんか?
TaiChesco via Getty Images

お久しぶりです。夏休みの宿題は早く終わらせるタイプの雪見です。

でもブログは月末に思い出したように更新するという、完全に締め切りに追われる月刊誌連載状態ですね。。。

はてさて、何でも良いのですけど、「○○という職業の人」とか、「△△というタイプの人」とか、「□□という団体に所属してる人」とか、実際に会って交流してみたり、または自分自身がその中に入り込んでみたりした時に、「思ってたのと違う!」って感じたことってありませんか?

例えば、堅い職業だから堅い人ばかりかと思ってたら、話してみればけっこう緩くて面白い人が多かったとか。

ブロガーなんてみんなアクセス数が欲しいんでしょと思っていたら、そう思わないブロガーさんも居ることを知ったりとか。

商品とかCMのイメージに憧れてどこかの有名企業に就職してみたけれど、内実は思ってたほど華やかでなかったとか。

このように、外から見ていた時の印象と、直に接してみた時や内部に入り込んでみた時の印象が大きく違うことは少なくないと思います。

逆に、自身が内部に居る時に、「外の人の持ってるイメージ」に違和感を持つという場合もあるでしょう。みんな真摯に頑張ってる人ばかりなのに、「現場を知らない上層部」から「現場はたるんでる」みたいな批判を受けて納得出来ない時とか。

これらのイメージの違いを「偏見」と言い放って片付けるのは簡単です。

そもそも、中のイメージと外のイメージが同じである方が不思議ですし、イメージが違って当たり前ではあるでしょう。

ただ、何故このような現象(偏見)が生じるのか、何故「当たり前」なのか、私は少しばかり考えてみたいなーと思うんです。

これも当たり前と言えば当たり前でしょうけれど、外部に居ながら「偏見」を持っている人たちは「自分が偏見を持っている」と思っていません。本当に「○○という人種はこういう奴らだ」「△△グループはどうせあんなことしか考えてない」「□□の人たちってこんな感じ」って思っています。

では、外部に居るにも関わらず、人は何故そう思い込むようになるのでしょうか?

それは「(一応)対象のことを知ってる(と思っている)から」ではないでしょうか。

考えてみてください。全く存在すら知らなかった集団について、「偏見」を持つことは難しいですよね。

何せ、何の予備知識も無いのですから、イメージさえつきません。

ですから、外部に居ながら「実際には会ったことのない人たち」に対して持っているイメージというのは、人から聞いた話や、テレビに出てる人や、本やドラマ・映画などから得た知識などで形成されているはずです。

つまり、良くも悪くも「対象について間接的に何かは知っている」時に外部でのイメージは形成されます。

ですが、外部の人にも伝聞で伝わるような話や、テレビに出てくるような人、ストーリーとして形成できるようなエピソードというのはどういうものでしょう。

特に興味も無い人にまで伝わっているということから、それはきっと、外部の人の中で広まる敷居の低い、一般の人でも分かるような非専門的な話だったり、その集団の中でも目立ちたがりの人あるいは際立った才能を持つ人だったり、心動かされる感動的・衝撃的なエピソードだったりする傾向があるはずです。

専門的な話や、その集団の中でも平凡な人、または地味なエピソードについては、外部の人からすると特に面白くも何とも無いので、おそらく口コミで広まって来ないですし各種メディアでも扱わないのです。

つまり、外部の人から見える「集団」というのは、その集団の平凡なところ、いわば普通のところではなくて、華やかだったり尖ってたり目立ってたりする側面ばかりになるわけです。

それは集団の「平均」というよりは、むしろ「外れ値」的な集団の異端な部分にあたります。外から見ると「普通の人」より、どちらかというと「変わった人」が目に付くわけです。

ですから、「偏見」という言葉は一般には「その集団について偏った見方をする」という意味で使われますが、私はちょっと違って「偏見」とは「その集団の偏った部分を見ている」ではないかと考えます。

ただ外に居るだけでは偏った情報しか得られないので、その「外の人」が得た「偏った情報」を総合すると、結果的に「その集団全体に対して持つイメージ」が「本当のその集団の普通」からズレてしまうんです。

それはその人に悪気があるとか、主観的な愚かな人だからではなく、ただ、外に居るとそういう偏った情報しか得られないからこそ必然的に「偏見」が生まれるのです。

自分の持ってる情報を全て冷静に吟味しても、情報自体が偏っていれば「そういう集団」にしか見えないのですから。

だから、これをただ「偏見」として「悪」として糾弾してしまうのは、「偏見」を無くすための良い解決策ではないと思うんですよね。

そうやってただ「偏見を持たないようにしよう」と言って排除しようとしても、ある意味これは必然的に生じる不可避な現象で、人の自然な性なのですから、難しいでしょう。

世の全ての集団と交流し「内部の情報をなるべく得る」というのが一番理想的な解決策ではありますが、人の活動範囲には限界がありますから、それもある程度以上は現実的ではありません。

そこで、私が提案したいのは、今回の話の通り、「外から見える部分はその集団の一側面でしかないこと」「外部の自分の持っているイメージは恐らくその集団の縮図でないこと」を意識することです。

「氷山の一角」と、見えてないものまで均質に捉えるのではなく、「木を見て森を見ず」と、背後の多様性を見落とすことの方を恐れるべきなんです。

逆説的ですが、そういった「偏見を持っているという自覚」こそ「偏見」を「直視」に変えるんです。何せ「偏った情報」を「偏ったもの」として真っ直ぐ見ているのですから。

ソクラテスの「無知の知」ではないですが、まず自分の認知の限界を知ることが「偏見」を和らげることにつながる、私はそう思うんです。

P.S.

自戒も込めて。

この話自体も、「偏見」についての「偏見」がある可能性もありますからね。。。

難しい!

(2014年8月31日「雪見、月見、花見。」より転載)

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