「富の偏在」の問題は「富が偏在していること」ではなく「富が偏在していくこと」

私なりに「富の偏在」の何が問題なのかについて考えてみたいと思います。

先日、ちきりんさんが「富の偏在」について興味深い記事を書かれていましたね。

相変わらずのちきりん節で、富裕層への富の偏在の促進という過激な主張をされています。ザッと見た限り、読者の反応は案の定、賛否両論のようです。

私としては部分賛成、部分反対なのですが、「富の偏在」について「何が問題なのかわかりません」とあっさり書かれてしまっているのは、流石にちょっとモヤモヤしてしまいました。

というわけで、今日は私なりに「富の偏在」の何が問題なのかについて考えてみたいと思います。

「富が偏在していること」自体は問題ではない

ちきりんさんの主張の論旨を要約しますと以下のような形です。

富裕層には成功した実業家が多い

富裕層はお金の扱いが上手い優秀な人たち

お金の扱いが下手な一般層よりお金の扱いが上手い富裕層にお金が集まる方が社会のため

こうして、富裕層への富の偏在を肯定されています。

実際、ちきりんさんが仰る通り、「富が偏在していること」自体は問題ではありません。

社会に優れた物やサービスを提供した人が、その対価(感謝の印)として代わりに社会から何かもらえる権利(お金)を受け取ることは、古典的な共産主義思想の方でなければ納得されるところと思います。

つまり、価値を生み出した人にお金が集まること――富が偏在することそのものは資本主義経済では当然、というか偏在することが前提なので、それ自体は問題はありません。

また、よく言われる主張ではありますが、「1%の人間が99%の富を持っているのは流石におかしい」という数字上の「程度問題」とするのもあまり筋が良くないように私は感じています。

なぜなら「どのぐらいの偏在なら適切なのか」というのは社会状況によって変動するので事前に設定できないからです。

例えば、社会の1%の人しか働かず(社会に価値を生み出さず)、99%の人がほとんど何もしてない社会があるとすれば、その少数の人に富が集まるのは当然ですし、もし0.01%の人しか働いてないなら、さらに偏在するのが自然でしょう。

もちろん私も感覚的には現社会がそこまで偏在すべき状況とは感じないのですが、「程度問題である」としてしまえば「どれぐらいなら適切なのか」を示さなければいけなくなるので、けっこう大変です。

ですので、ちきりんさんが仰る通り、富が偏在していること、優秀な人にお金が回ることが問題なのではありません。

そうではなくて、「富の偏在」で問題なのは、ちきりんさんが前提としている

「富裕層→お金の扱いが上手い優秀な人たち」

が正しくないおそれがあることなんです。

富は偏在していく性質を持つ

御存知の通り、お金や資産というものには利子がつきますよね。

普通預金では雀の涙(0.0何%)ですが、定期預金にしたり、個人国債にしたり、投資信託にしたり、株式や不動産にしたりと、リスクの高い投資になればなるほど利回りがアップします(数%レベルにはなります)。

すると、例えば1億円持っている人が数%の利回りのリスク投資をしていたとすれば、それだけで年数百万円の不労所得が生まれます。資産を持たない人や普通預金だけしている人と全く同じ仕事をしていたとしても1年で数百万円分、富の格差が広がってしまうわけです。

こう言うと「リスクを負っているのだから当然」と言われるかもしれません。

実際、リスクが高いからこそ、そのボーナスとしてリスク商品の利回りが高くなっている(リスクプレミアムが付く)のですけれど、問題は富を持っているかどうかでこのリスクの重みが違うことです。

100億円持っている人が1億円のリスク投資をして万一失ってしまっても99億円残っているのでそんなに痛くありませんが、お金を持っていない人が1億円借金をしてまでリスク投資をして万一失ったら人生終了です。同じ富を得るためでもリスクの重みが全然違います。

しかも、99億円になってしまった富裕層の方も引き続き投資を続けていけば、いずれ元の100億円を超えて富が増えていきます。なぜなら、多くのギャンブルと違って投資の期待値はリスクプレミアムのお陰もあり長期的にはプラスだからです。破産することなく引き続き投資を継続できるのであれば、投資の結果は期待値通りプラスに収束します。

富があれば無茶さえしなければその恩恵にずっと浸かることが出来るんです。

これはすなわち富が富を集めること、富そのものに偏在を促進する性質があることを示しています。

富裕層ではなく優秀な人にお金を回すために

富に富を集める性質があるとすれば一大事です。

なぜなら、優秀でなくても富さえあれば富を増やすゲームに有利な立場になるからです。

得点が高くなればなるほど得点が多く得られるルールでは、たまたま最初に得点が高くなった者が有利で、本当の天才ならまだしも、ちょっと優秀なぐらいではその得点差をひっくり返すことができなくなります。

没落や革命ルールの無いトランプゲームの「大富豪」を遊んでいるようなものとも言えるでしょう。よっぽど運が悪いか、リスキーなプレイをしなければ、優秀なカードを常に得ることができ、大富豪から落ちることがなくなります。

そして、ちきりんさんが好むような全人生を事業に賭ける者――真の意味でリスクを取る者――が優秀にもかかわらず高いリスクのために運悪く没落していけば、凡人だけど無難にリスクを分散し安定した不労所得を得ている者ばかりが富裕層に残ります。

こんなことで凡人に富が偏在していくならば、ちきりんさんにとっても不本意ではないでしょうか。

確かに、資本主義経済を支える市場原理は優秀な人にお金を回すための優れたシステムです。

しかし、市場原理に基づく個々の取引がフェアであっても、大きな視点ではフェアでなくなりうることに注意が必要です。

市場原理を上手く回すためにこそ、ただ市場原理の正当な結果として「富の偏在」を放置するのではなく、どう処理するか考えることが必要で、まさに私たちの社会の「お金の管理能力」が試されているのです。

P.S.

よいお年を!

(2014年12月28日「雪見、月見、花見。」より転載)

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