「ネット炎上」は関係性の終わりか、会話の始まりか

「相手を笑わせたい」という表現者の意図が、結果として、ある立場の人を傷つけたり、排除するようなメッセージへと変わってしまう
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(トップ画像は《ムーニーから、はじめて子育てするママヘ贈る歌。 「moms don't cry」(song by 植村花菜》の場面の一部)

■メディア関係者が集まってテレビやCMについて考えた

東大5月祭の賑わいの中、東京大学本郷キャンパスで行われていた「第1回メディアと表現について考えるシンポジウム」に参加した。土曜日にも関わらず、ホール内の全ての椅子が埋まっており、ギリギリに到着した私は、後部に新しく追加された白いパイプ椅子に座った。印象ではあるが、大学生よりも少し年齢層が上の方々(30〜60代)が多いようにみえた。

以下が、シンポジウムの開催趣旨だ。

「今回、新聞、テレビ、ネット、広告代理店といったメディアの制作者側と、研究者、弁護士、関心ある人が集まり、なぜ炎上は起きるのか、こうした表現のどこに問題があるのか、多文化共生社会におけるメディア表現について話し合う機会を持ちたいと思います。」(Webページ)

東京大学大学院情報学環 林香里教授の司会のもと、以下の豪華ゲストが登壇された。

ちゃぶ台返し女子アクション共同発起人 大澤祥子氏/

UNWOMENアジア太平洋地域部長 加藤美和氏/

エッセイスト 小島慶子氏/

ジャーナリスト 白河桃子氏/

ハフポスト日本版編集長 竹下隆一郎氏/

大妻女子大学准教授 田中東子氏/

日経DUAL編集長 羽生祥子氏/

弁護士 緑川由香氏

■どうして「炎上」するの?

まずはゲストの皆様から、いくつかの炎上案件の紹介と、そこで使用されていた表現の問題が指摘された。例えば、鹿児島県志布志市が「ふるさと納税」をPRするために養殖うなぎを水着姿の少女で擬人化した「うな子」の動画や、ユニ・チャームのおむつブランド「ムーニー」をPRするため、育児に勤しむ女性(とそれを傍観するように見える男性)を描いた動画など。

ユニ・チャームのおむつブランド「ムーニー」の動画広告

参加者からは、「育児で忙しい女性を救いたいという想いで作られた、ジーンとくる動画ではないか。この動画が何故問題なのか」という声が上がった。「確かに、そういった視聴者の声もたくさんありました」と竹下氏。

「ただ、」と小島氏。「この動画の最後に出てくる"その時間が、いつか宝物になる"という表現を見て、"だから女性は(一人で)育児を頑張りなさい"という不公平なメッセージに受け取った方もいるのではないか」と続けた。

他にも、「相手を笑わせたい」という表現者の意図が、結果として、ある立場の人を傷つけたり、排除するようなメッセージへと変わってしまうことがあると指摘された。

「笑いがとれればOK」とさえ考えられてしまう。小学校の頃の教室では、笑いが人気者の条件だ。誰かが誰かを傷つけてピラミッドのトップに行こうとする。そんな空気を私も思い出した。

言われてみれば、お笑い番組やコメディ映画も同じことが起きている。どうして、一方の人がもう一方の人を中傷したり、不利にするような展開が多く見られるのか?どうして私たちは、こうしたシーンを見て「笑ってしまう」のだろうか?少し自分に対しても疑問が湧いた。

■言葉が「再生産」される時代

テレビや紙の新聞から、メディアの主要媒体がインターネットへと移り変わっている。これまでは、一度発信された情報はその後形として残ることなく、次へ次へと情報が流れていく時代だった。

しかし、インターネットメディアの活躍により、情報が、表現が、無限のオンラインストレージに残り、一般の人がいつでも引っ張り出せる世の中になりつつある。しかも、それは視聴者/読者の手により自由に切り取られ、別の場所で用いられる。また別の視聴者/読者が解釈をし、切り取り、コメントを加え、再び発信する。

つまり、一度発信されたことばが、「再生産される」時代に来ている。元の表現者の意図した文脈とは切り離され、意味を変え、ことばが一人歩きをしていく。こうした「ことばと文脈の分断」が、結果として「あなた(ある立場の人)とあなた(また別の立場の人)との分断」を生んでいる。

■分断を、どう超えるか

イメージ写真

「分断を超えるためには、対話が必要だ」

そんなことを登壇者の全員が、一貫して言い続けていた。シンポジウムの間、ずっと話を聞いていると、どうやらその「対話」は、二種類の意味で使われているように思えた。

これは私の解釈だが、一つは表現を世の中に出す以前に行う「前の対話」、もう一つは表現をしたあとに、後悔する「後の対話」。

表現をする「前の対話」は、自分の頭の中でも行える対話だ。例えば、自分の表現が、特定の立場の人に対して「あなたは、ココにいるのがふさわしくない」というメッセージを発していないか。様々な視点からよく考えることを小島氏が強調した。

また、羽生氏はその具体的な策として「Wordで単語を一括転換する機能を使い、文章の主語を変えて読んでみている」というユニークなアイデアを紹介した。

例えば、「女性が・・・、女性により・・・・、女性として・・・」と書いている文章を、「男性が・・・、男性により・・・、男性として・・・」と一度置き換えて読み直してみたらどうだろう。今度自分もやってみようと思った。すると、自分の文章に偏りがないか、様々な立場から事前に確認してみる事ができるはずだ。

二つ目の対話、つまり一度表現を公開した「後の対話」とは、あらゆる立場の人がそのメッセージをどのように捉えているかということに、表現者側が耳を傾けることだ。メッセージに込めた真の意図を改めて説明したりしながら、互いに話し合うことだ。これは、炎上案件についても同じだ。

炎上したら、取りやめるのか?議論を始めるのか? たとえば動画広告が炎上して、それが消費者の評判を落として売り上げ減少に直結するとしたら、企業にとっては死活問題だ。

だが、最近は、「視聴者に見てもらって一緒に考えたい」という企業も少なくないとのこと。取りやめるのではなく、むしろ何度も繰り返し見てもらうことで、表現の解釈について視聴者と一緒に考えていく。発信する側ー受け取る側の境界線を超え、私たち社会全体として、どのようなことばを使えば「あなたもあなたも幸せ」になれるかということを話し合うことで、分断を再び統合していく試みだ。

おむつブランド「ムーニー」の動画広告が批判を受けた「ユニ・チャーム」の広報担当と話した経験を竹下氏が紹介し、「批判をきちんと受け止めて、みんなに考えてもらおうという姿勢だった」と語った。

■シンポジウムは「文句」ではなく「対話」であふれた

小島慶子さん

私は、冒頭にも申し上げたが、遅い到着のため会場の一番後ろの席に座っていた。部屋の反対側に立つ登壇者の息遣いよりも、目の前の参加者の息遣いの方がより伝わってくる位置だ。

うんうん、とうなづく人。思わず「そう!」と声をあげる人。時々立ち上がって、登壇者の顔を見ながら聞こうとする人。何か言いたげに、貧乏ゆすりをする人。質問の時間には真っ先に手を上げ意見する人。メディアに関連する個人の経験や想い、疑問をぶつける人。

「メディアのプロフェッショナルこそ、時間や媒体特有の制限だらけで、表現の自由がないのではないか」という参加者の疑問に、「制限があるからこそ、自由があると感じている」と登壇者からの意見が返された。「ジャーナリストは、(世の中に) 結果を出していない」という意見に対しては、「結果とは何ですか?」と、ことばの解釈を確認する質問がされた。

東京大学の一角。講義机と椅子が規則正しく並べられた扇型の部屋では、スピーカーと参加者の相互的な交わりがいささか困難なこともある。しかし、今回のシンポジウムでは、両者の情熱が、その距離を超えて飛び交っていたように感じた。多くの人が、テーマに真剣に向き合っていたのだと思う。怒りや迷いも、望みも、登壇者と参加者の双方の息遣いの中で表現された。

テンポが単調でなく、多様なリズムで時が流れた2時間だった。

このような「対話」が今後も続き、シンポジウムそのものが「分断を超える対話」の場の先駆けとなっていくことを期待したい。

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