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差別をなくすのは難しい。でも、南アフリカを旅して希望を一つ見つけた

2017年04月10日 17時40分 JST | 更新 2017年04月11日 15時56分 JST

2017年3月11日~19日、私は仲間6人と一緒に、南アフリカ共和国へ7日間の旅にでた。

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(ヨハネスブルク街中でなびく南ア国旗)

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(11の公用語で書かれた南アフリカ「憲法裁判所」の看板)

11の公用語、400近い民族。カラフルな国旗で多様性を象徴する「虹の国」、南アフリカ。白地に赤一色、シンプルな国旗で統一感を象徴する日本。ふたつの国の間には、情報の交流も少なく、世界地図を広げても、南アフリカと日本が、同時に目に入ることは少ない。

2015年11月、作家の曾野綾子氏は産経新聞上で、「日本は労働移民を認めないといけない立場に追い込まれている」としたうえで、かつて黒人差別が「公式」に行われていた南アフリカに言及。白人と黒人が別々に住むことが「良いこと」と考えていると、捕らえられかねない発言をした。日本が移民を受け入れても、別々の地区に住むべきなのだろうか。

アメリカもEUも、人種や宗教間の分断が進む。日本でも「多様性」という言葉をよく聞くようになった。海外からの観光客は増えているし、移民受け入れの議論も少しずつ出てきている。

1990年代にアパルトヘイト(人種隔離政策)を終結させ、故ネルソン・マンデラ大統領が新憲法を樹立してから20年以上。現在の南アフリカで、黒人と白人はどのように暮らしているのだろうか。より豊かになり、寛容の心が本当に生まれているのだろうか。それが、私たちが抱いた問いだった。

南アフリカで見つけた3つの矛盾

①白人ばかりの街の風景

南アフリカの人口構成は、8割黒人、1割カラード(混血)、1割白人だ。しかし、初日、南アフリカ有数の都市、ケープタウンに向かう機内で既に、私はこうした統計とは矛盾した現実を体験していた。周りは8割白人(中にはもちろん観光客もいたであろう)、1割アジア系、黒人は残り1割にも満たない、片手で数えるほどの人数しか見当たらなかった。

市内を散歩し、ホテルのある海沿いの街へ向かう。状況は変わらなかった。「あのアパルトヘイト廃止運動でついに自由を勝ち取った、多数派であるはずの黒人はどこにいるのか」。そんな感想を仲間とつぶやき合った。

観光地化されたケープタウンのウォーターフロントでは、見渡せば9割以上白人。まるでヨーロッパの保養地に来たかのような錯覚を覚えた。

しかし、そこから10分もバスを走らせれば、窓の外には、路上を埋め尽くすようにずらりと並んだ日雇い労働者の黒人の列。南アフリカの若者の失業率は50%に達することも多い。

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(道端に座る日雇い労働者の列)

「アパルトヘイト時代の方が、生活は豊かだった」。私たちが貧困地域を訪れた際に出逢った黒人の中に、そう訴える人さえいた。この国の富の集中は、アパルトヘイト廃止以降、むしろ悪化しているようにも受け取れる発言だった。もちろん私が「たまたま」そんな光景を見たのかもしれないが、少し想像と違った。

テーブルマウンテン、喜望峰、国立公園、ワイナリ―のぶどう畑。私たちが今回の旅で目にした美しい自然は、昔から多くの白人をひきつけ、ヨーロッパからの移住者を増やした。

あるいはこの国のプラチナ。埋蔵量も世界的なシェアも大きい。その美しさと豊かさこそが、人間の欲を引き出した。

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(監獄島から見あげたテーブルマウンテン)

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(ワイナリーのブドウ畑)

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(アフリカ最南西端 喜望峰からの大西洋の眺め)

豊富な資源に惹かれた白人にとって、この土地で裕福な生活を手に入れるための得策は、資源採取にかかる人件費の削減だった。そして、肌の色の違う先住民、黒人が、「労働者」として選ばれた。南アフリカがこんなにも美しく、豊かな土地でなければ、人種差別はありえなかったのではないか。少し極端かもしれないが、ふと考えた。

②繰り返す、権力を手にした者の腐敗

富が不正をもたらす----。マンデラ氏は、そんな予言をしていた。

不正を正し平等を実現したANC(マンデラ氏が所属していた政党。人種差別撤廃以来、ずっと政権の座を握る)だが、いずれ、今度は彼らが不正を犯すことがあるかもしれない。マンデラ氏は「そのときはまた、一致団結して、戦わねばならない」と考えていたと伝えられる。

そして現在のANC政権。党首であるズマ大統領は、私邸改築に約16億円の税金を注ぎ込み、その一部が不正等に費やされたことで国内の憲法裁判所から違憲判決を受けたことは、去年3月31日、日経新聞でも取り上げられた。

こうした報道が事実だとしたら、明日の生活に必要な水や電気さえ十分に得られない、不法居住区(タウンシップ)の黒人住民はどのような気持ちを抱いているのだろう。

私たちは、ヨハネスブルグ郊外にある「クリップタウン」というまちのタウンシップを訪れる事ができた。前日ここを歩いていた欧米人女性二人組が恐喝に合い、お金を盗られたのだと、案内をしてくれた地元の黒人女性ノマソントさん(24歳)が、教えてくれた。タウンシップで顔が知られている彼女の同行なしには、観光客にとって、非常に危険な場所だった。

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(タウンシップを案内してくれたノマソントさん)

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(タウンシップを歩くと子供たちが抱っこを求めに来る)

皮肉なことに、タウンシップから線路を一本挟んだ向かいに、かつてのANCリーダーたちがアパルトヘイトに代わる理想的な国の基本指針として掲げた「自由憲章」が公表された広場がある。

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(線路の左側にはタウンシップの家々)

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(線路の右側には自由憲章の広場)

自由憲章の「60周年」を記念する2012年3月21日、同じ場所で演説を予定していたズマ大統領に対し、タウンシップの住民は国内メディアIOLの取材で怒りを露わにした。「私はズマに知って欲しい。彼が私たちを見捨てたからこそ、私たちは違法に電気を盗むことを余儀なくされているのだとうことを。私は彼がクリップタウンに来ることを歓迎する。このような状況下で、どうすれば普通の子供たちを育てることができるのか、私たちにぜひ教えてほしい。」

ズマ大統領は「タウンシップの住民の声に耳を傾けることは少なかった」と現地を訪れる記者と多く繋がりをもつガイドさんが教えてくれた。

③カリスマ的リーダーの不在

ヨハネスブルグでは、人種差別の歴史を物語るアパルトヘイトミュージアムを訪れた。

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(敢えて入り口を隔離し、差別を体感させるアパルトヘイトミュージアム)

様々な展示の一角に、マンデラのリーダーシップの特徴に関する印象的な記述があった。

「ネルソン・マンデラは、リーダーは常に集団の意思に忠実であるべきだと心得ていた。しかし、長い間進展が見られなければ、同胞の反発を押し切ってでも、リーダーが信じる方向へ組織を引っ張っていかなければいけない時があることもわかっていた。彼のように、現実的かつ道義的な勇気を持ち合わせたリーダーシップこそ、時代に繰り返し求められたものだった」

こうしたリーダーシップは、大統領就任後にも繰り返し見られ、黒人の仲間を動揺させた。「マンデラとデクラーク」という映画に詳しいが、マンデラ氏は、アパルトヘイト執行当事者であったデ・クラーク前大統領を、新生南アフリカの副大統領に任命した。

ほんの数か月前まで黒人取り締まりのための特別訓練を受けていた白人警備隊を、大統領ボディガードとして起用した。刑務所時代に自身の監視を担当した(当時18歳の)白人看守クリスト・ブランド氏を、マンデラ氏は大統領就任式にも、私的なホームパーティにも何度も招き、亡くなる前夜まで他愛のない言葉を交わすほどの深い絆を築いた。その奇跡の(或いは禁断の)関係がいかに築かれたか、幸い、私たちは今回ブランド氏に直接話を伺うことができた。その一部始終は2014年に出版された著書「Mandela: My Prisoner, My Friend」にもしっかりと綴られている。

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(マンデラ氏牢獄時代の白人看守ブランド氏)

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(マンデラ氏との絆がいかに作られたかを語ってくれた)

マンデラ氏の施策は、政治に留まらない。南アフリカに住む黒人にとって「アパルトヘイトの象徴」であった白人のスポーツ「ラグビー」。満場一致の廃止決議を覆し、南アのラグビーチーム「スプリングボクス」を残す命令を下したことは、マンデラ氏への直接取材を頻繁に行っていたイギリス人ジャーナリスト、ジョン・カーリンの著書「インビクタス」に記録されている。周囲の黒人の苛立ちをよそに、ラグビーを南アの国民的スポーツとするべくメディア戦略を徹底した。

強引にもみえるこうした戦略が、奇跡的な結果を生んだ。1995年ラグビーワールドカップ。至上最弱といわれたスプリングボクスの奇跡の初優勝が決まったとき、スタジアムの外で観戦していた白人警官と黒人少年が抱き合って喜ぶ実際の映像が、ミュージアムの一角で流れていた。政権交代から、わずか1年後の出来事だった。

こうして理想の南アフリカを誕生させていったカリスマリーダー、マンデラ氏は、とうとう3年半前の2013年12月5日、この国から息を引き取った。そして2017年3月30日、マンデラ氏を最も近くで支え続けた同志のひとり、大統領専属の政治顧問を務めたアーメド・カトラダ氏が後を追った。黒人と白人が真に共に生きる平和な南アフリカへの道のりは、まだ遠い。

「現実的かつ道義的な勇気を持ち合わせた」リーダーシップ。後を継げるのは、果たして誰なのか。

矛盾を「抱きしめて」

南アフリカは、いまだ矛盾だらけだ。

しかし、多様性を共存させようとする試み無しには、そもそも矛盾は生じない。

「この国は、勝者も敗者もつくらず、敵の過ちを赦すことで紛争を終わらせた。世界で初めて、加害者に特赦を与えるということをした。だから南アフリカは、絶対に紛争を繰り返さない。」

コンスティテューションヒルとよばれる丘の上に立つ憲法裁判所の前で、ガイドさんが力強く言った。

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(熱心に語り掛けるヨハネスブルグのガイドさん)

「裁判所で罪を裁く代りに、加害者と被害者が共に真実を話し合う場が設けられたんだ。」

今回の旅で訪れた、未だ生々しさの残る紛争の跡。多くの黒人リーダーが政治犯として収容されたロベン島刑務所、わずか2メートル四方の独房、そこでマンデラ氏が書いた家族への手紙、その家族が日々警察に怯えながら暮らした家、こうした家々を無差別に踏み潰した白人警官用トラックの、見たこともないような大きなタイヤ・・・。

しかし、この文章の冒頭で紹介した「白人だらけの風景」と違ったシーンにも出会った。最終日に訪れたレストランで私たちが目にしたものは、斜め前のテーブルに向かい合わせで座る、お年寄りの白人と黒人の男性二人組の、なんとも楽しそうな会話の様子だった。昨日の敵を、今日から無条件に愛する。こうした風景をもっともっとみたい。

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(我々のテーブルの向こう側をみると多様な人種の人々が食事と会話を楽しんでいる)

帰りの飛行機。

南アフリカの人々から、私は何を学んだのか。機内食のパスタが冷めていくのを眺めながら、ひとつ印象的なシーンを思い起こした。この旅の7日間、繰り返し出逢い続けたシーンだ。

移動のバスに乗り、窓の外を眺める。道を歩く人、道に座る人。子供の手を連れて歩くお母さん、家の周りで食べ物を売る人。どこを訪れても、同じことが起こる。

目が、合うのだ。

「・・・やっぱり、見ているよなぁ」少し時間をかけて、そーっと目を合わせてみる。1,2,3・・・3秒ぐらいだろうか、いや、1秒程度にすぎないだろうか。

旅が後半に差し掛かり、彼らにつられるように、私自身も最初から真っ直ぐ相手の目を見てみるようになっていった。そのとき、わかったことがあった。見知らぬ人とすれ違う。その人が誰なのか、いま何をしているのか、相手の文脈がよくわからない。もしも目が合ったら、どう反応をしていいかもわからない。「わからない」という戸惑いから、私は目をそらしていた。しかし、彼らは違うようだった。「わからない」と戸惑うより先に、「知りたい」という好奇心で一生懸命に見つめてみるのだ。私には、そう思えた。

ケープタウンで出逢った、南アフリカ在住の日本人の女性がふと呟いた一言がある。「この国で生きていくには、生命力がいる。」それを嫌がる言い方ではなかった。さりげない笑顔でこう続けた。「だってこの国の人たちに、生命力があるから。どんなに忙しくても、疲れてても、放っておいてはくれないのよね。」

私には、その生命力とは、「好奇心」と言い換えられるような気がした。わからなくても、はじめてのことでも、不確実な状況から目を逸らさない。真っ直ぐ突き刺さる視線だが、攻撃的でない。時間をかけて、じっくりと理解に努める。「次の瞬間に何が起ころうとも、両手を広げて歓迎しようではないか」というような大胆さが感じられた。もしかしたらこれこそ、南アフリカに暮らす人々が、現在の南アフリカ社会に存在するたくさんの矛盾を見つめる姿勢なのかもしれない、と、思った。その姿勢こそ、私が南アフリカで出逢った、一つの、しかし確かな、希望だ。

こうした姿勢は、より多様性を受け入れるための制度を整えつつある日本(移民の受け入れは避けられない、と私は思っている)にとっても、大きなヒントになるのではないだろうか。

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