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朝ドラよりも「ごちそうさん」を実感させる映画

2014年03月03日 00時24分 JST | 更新 2014年05月02日 18時12分 JST

NHKの朝ドラ『ごちそうさん』も残すところ1カ月。高視聴率をマークし続ける"あま超え"ぶりが話題です。

大人気だった『あまちゃん』ですら、平均視聴率20.6%。対して、『ごちそうさん』は放送開始から19週連続で21%超とか。数字が人気の一端を示している、ということでしょう。

キムラ緑子、高畑充希、宮崎美子......脇の役者陣は光っているし、糠床が話をする、という不思議な設定も面白い。ナレーションの声が味わい深く響いてくる。小道具の陶器類・道具類もよく吟味されていてウソッぽくなくていいのですが......。

『ごちそうさん』はタイトル通り、料理やお菓子の話が頻繁に出てくるドラマ。けれども、「食べる」という行為そのものの意味については、掘り下げが甘くて物足りない。

ストーリーを展開するきっかけに「料理」「お菓子」を都合よく使っている、という表層的な印象が否めない......と感じているのは、私のような偏屈だけでしょうか?

そんな時、「食」に関する一本の映画と出会いました。纐纈(はなぶさ)あや監督のドキュメンタリー作品、『ある精肉店のはなし』。大阪で精肉店を営む北出一家の仕事と生活を、細かに、リアルに、雰囲気や感触やシズル感とともに、丁寧に描いています。

自分たちが育てあげた牛を、近所の屠畜場まで縄で引いて連れていく。自分たちの手で解体し、商品にし、店頭に並べて、お客さんと会話しつつ、売る。食べる。皮はなめされて、だんじりの太鼓になる。

路上に響く牛の蹄の音。屠畜場にたちのぼる湯気。どっと倒れる牛。解体する指先、手のひら。鈍く光る、金属の道具......。キメ細やかに、しかし淡々と描かれる仕事の様子。目撃した私たちは、「命をいただく」ことの深い意味について考えることになる。

普段、私たちは「肉」を単なる食材として見ています。しかし、この映画は、食材に「なるまでのプロセス」も含めて、現実を見つめ、感じようとする。その仕事にまつわる被差別部落の歴史やいわれなき差別からの解放運動なども含めて。

 食べ物をいただく。命をもらう。その複雑さと、過酷さと、豊かさに思い至る。「いただきます」という何気ない一言。そこには先祖たちから延々と続く思いが込められている。だからこの映画を観た後は、「ごちそうさん」という言葉が、何倍何十倍にも意味を増して口から出てくるようになります。

 そもそも、「ごちそうさん」の「馳走」とは何なのか。読んで字のごとし、「走り回ること」。走り回って自分のまわりの食べ物をとりそろえて、誰かをもてなす。そこから「ご馳走」は、「おいしい食べ物」の意味になりました。

 どこかで加工された食材ではなく、足を使い自分の目と手が届く範囲で新鮮な素材を一生懸命、誰かのために用意する。命をいただくことも含めて「ごちそうさん」は成り立っているのです。

「屠場を特別な場所として扱うのでなく、北出さんたちにとっての普通の暮らし、日常の仕事として撮ることで、作品にできるのではないかと、ある時気づいたんです。北出さんの生きものや食べものを扱う手つきはていねいで、その"手の雰囲気"がとってもやさしいんですよ。決して雑なモノ扱いをしていない。生身の人間が、いのちあるもの、あったものに対して有機的に反応している。それを伝えようと思いました」(纐纈あや監督の言葉 「ハフィントンポスト」2013.12.05より

 朝ドラ『ごちそうさん』に物足りなさを感じている方々。『ある精肉店のはなし』を通して、もう一度、食について考えてみてはいかがでしょうか。(東京・ポレポレ東中野、大阪・第七藝術劇場他で上映中)

出典:2014年3月1日「NEWS ポストセブン

映画「ある精肉店のはなし」の画像集