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「看取り」から「見送り」へ-終末期ケアは誰のためのもの?

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私はアメリカのホスピスで10年間音楽療法士として働いた後、3年半前に帰国しました。日本での活動をはじめた当初、多くの人に聞かれた質問があります。

「今まで何人を看取りましたか?」

私には最初その質問の意味がわかりませんでした。「看取り」は日本語独特の表現で、英語にはない言葉だからです。

アメリカをはじめとする欧米諸国でよりよいケアについて考えるとき、その焦点はあくまで患者さんにあります。彼らのニーズや権利、といったことが最も重要なテーマなのです。私が「看取り」に違和感を覚える理由は、そこに患者さんではなく、医療者や家族など、ケアする側を主体としたニュアンスがあるからです。

先日、いつもお世話になっている在宅医の千場純先生と電話で話をしていたら、先生が思いがけないことを言いました。

「僕は『看取り』より『見送り』を広めたいと思っているんです」

千場先生は横須賀で在宅医療をされていて、何十年もいわゆる「看取り」をしてきた人です。その彼もやはり、「看取り」に違和感があるそうで、その理由は私が感じていたことと同じでした。

ホスピスケアのみならず、医療における主人公は患者さんです。そういう意味で、私たち医療者や家族はあくまでも脇役。だからこそ「看取り」より「見送り」の方が、しっくりくるのです。

人の死に立ち会うことは、赤ちゃんの誕生に立ち会うことに似ている。新しい命をこの世に迎えるように、亡くなる人が次のステージへと向かう手助けをすることが求められるからだ。その感覚は、「看取る」というよりは「見送る」に近い。 ~『死に逝く人は何を想うのか』より

単なる言葉の問題だと思う方もいるでしょう。でも実はこれは、終末期(エンド・オブ・ライフ)をめぐるさまざまな課題と関係していると思います。

信じられないことかもしれませんが、現在日本では、自分の意思ではない延命治療を受けている人がたくさんいます。また、治る見込みもないのにいつまでも治療を続けて、その副作用に苦しみ息絶える人や、十分な疼痛ケアを受けられず、激しい痛みとともに旅立つ人も大勢います。

その理由はさまざまですが、その大きな要因として、日本では患者さん本人が何を望んでいるかということよりも、周りの意見が重要視される点が挙げられるでしょう。患者さんはあくまで家族の一員であり、大事なことは家族が決めるという考えは、文化の違いによるものだと思います。

「欧米諸国と比べたとき、終末期になっても、家族が後悔しないためにどういった『看取り』をするかが大きなテーマになっていることは驚くべきことだ。本来であれば、いかに患者さんが穏やかな最期を迎えるか、それを周りがどのようにサポートするか、が焦点となるべきではないだろうか?」 ~『死に逝く人は何を想うのか』より

死に逝く人が何を想っているのかを彼らの立場になって考え、彼らが必要としているサポートを提供することこそ、本当の意味での「後悔のない看取り・見送り」につながるのではないでしょうか?

終末期をめぐる問題は難しく、その答えはひとつではありません。大切なことは、健康なうちから家族と会話をしていくことだと思います。

ハフィントンポストの読者の皆さんの中には、まだ自分の死など考えられないような若い年代の方も多いと思いますが、死を考えることは生を考えることと同じです。どうすれば良い最期を迎えることができるか、という問いに対する答えは、どうすれば良い人生を歩むことができるか、という問いから生まれるはずです。

(2017年1月13日 「佐藤由美子の音楽療法日記」より転載)

(『死に逝く人は何を想うのか 遺される家族にできること』(ポプラ社)

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