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加藤裕介 Headshot

ベテランママの会代表番場さち子と第一秘書

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震災後、不安を抱える福島県民と向き合い続けてきたベテランママの会代表番場さち子先生のことを記します。

番場さち子先生は、相馬中村藩の伝統神事「相馬野馬追」で有名な、福島県南相馬市で生まれ育ちました。福島県浜通り地方は、日本でも稀有な相馬藩の末裔が現存する地域です。先生曰く、「先祖は、天明の大飢饉の際に、相馬中村藩の財政復興と人口回復のため加賀藩から相馬藩に移った移民の一人」だそうです。

33年前、南相馬市内に学習塾「番場塾」を開業以来、福島の子どもと親御さんを見守り続けてきました。2011年3月の原発事故により30キロ圏内の公教育が停止、南相馬市民が散り散りに避難する中で、地域に残った小中高生30~40名を連日塾に無償で受け入れ、教材や授業を提供してまいりました。

「任意団体ベテランママの会」を大震災翌月に設立した後は、南相馬に残った子どもや親御さんの放射能に対する不安の声に応えるべく、坪倉正治先生(医師。東京大学医科学研究所、南相馬市立総合病院/相馬中央病院勤務)のご協力の元、「教えて坪倉先生!放射能のほんとのこと」という放射能に関する草の根勉強会を始めました。

私が先生と出会ったのは、私が福島に移住してから3か月ほど経った2012年の初夏でした。当時24歳の私は、新卒で入った会社を退職し、一度も訪ねたことすらない福島に移住し、非営利団体の専従職員として働き始めて間もない頃でした。

大震災の混乱後、東京で働く私には何か腑に落ちない、いたたまれない胸中が錯綜し、私は復興の最前線で活動するリーダーを支え、新しい事業を素早く・数多く形にする「現地復興リーダーの右腕」として、NPO法人ETIC.の「右腕プログラム」(http://michinokushigoto.jp/magazine/6047)を通じて福島に来ることを選びました。

発災から2012年2月までの1年間、岩手県・宮城県でのボランティア活動者数累計は、それぞれ約32万人・約45万人であったのに対し、福島県は大幅に少ない約14万人(※1)であり、福島県にマンパワーが必要であることがうかがえました。

「収入を捨ててまで行く価値があるのか」「24歳の君に何ができるのか」と様々なご意見を頂戴しました。地道に、根気強く歩んでいくことが子どもの頃から好きだった私は、「やってみないとわからない」と考え、「まずはやってみよう」と福島に単身飛び込んだのですが、番場先生の、団体の収支はおろか、ご自身の生活すらも全く顧みず困っている人の支援に突き進む姿は、あまりにも豪放磊落で無謀に見えました。大いに心配になった私は、出会ったのも何かのご縁と、先生のお手伝いに通い始めたのです。

先生の第一印象は「南相馬復興の星」・・・と記せばカッコイイのですが、震災後、114名いた生徒が0名になり、5人もの弁護士から自己破産を勧められるほどの経営難にもかかわらず、南相馬に残った人の不安に寄り添うべく、費用をすべて持ち出しで「ベテランママの会」の活動を行っている「後先顧みない無謀な人」でした。

番場先生は、原発事故により教室を2つ閉鎖し、2トントラック4台分の教材や備品をやむを得ず廃棄し、震災復興活動に対しても、助成金や寄付金などで支援が受けられることも先生はご存知ないまま、収入源が全く無いにも関わらず、自己資金のみで活動に励んでいらっしゃいました。この4年半、たくさんの団体の方々とお会いし、活動のお手伝いをしてきましたが、ここまで自己犠牲を払って天衣無縫に活動されている人を見た事がありません。

私はベテランママの会の活動実績の整理、活動への助成申請、書類作成のお手伝い・・・と足しげく通ううちに、いつしか先生によって「ベテランママの会 第一秘書 加藤裕介」と名付けられ、通帳までお預かりする関係になりました。人間は信じて任せてもらえると、もっとお役に立ちたいと思うものです。私もそうです。

それが先生の計算なのか、単純に安直なのか、最初は驚きつつも、この先生のことは絶対に裏切れないと覚悟も決まりました。先生が年上の年長者からも、年下の若者からも慕われるのは、この無防備さかもしれません。

ベテランママの会は少しずつ活動費用を支援いただけるようになり、先生は「困っている人、弱っている人をもっと支えたい」と、次々新しい取り組みをつくってきました。「ニットサークル」「書道教室」「カッコイイ大人の話を聞こう」「おやこ食堂」「医師と市民の集い」「駅マエ保健室」など、枚挙にいとまがありませんが、コンセプトは戻って来た住民の方の不安に寄り添い、癒しの空間を与え、教育に繋がることばかりです。

先生の取り組みは、尊いものです。先生のもとには多様な悩みや背景を抱えた老若男女がお越しになりますが、先生は、目の前の人の話にじっくりと耳を傾ける傾聴の姿勢を貫きます。たとえ相手が先生を非難する調子であっても、先生は決して逃げませんし、相手を詰ることもありません。坪倉先生とともに小冊子『福島県南相馬発 坪倉正治先生の放射線教室』(監修 東京大学大学院理学系研究科教授 早野龍五先生)を作成し、「東京電力の回し者」などといわれなき中傷を受けた際にも、先生はスタッフにも愚痴をこぼすことなく、ただひとりじっと受け止めていました。ずいぶんとたくさんの苦情や中傷の電話があったようです。

「それは覚悟の上での小冊子の発行だ」と言い切りました。「手弁当でまったくのボランティアで協力してくれているベテランママの会のスタッフたちには迷惑をかけたくない」とも仰っていました。
正しいと思うことを、自分の信じる方法で、淡々とやり続ける先生の姿に心動かされ、先生のもとへ次々と人が集まるようになりました。肩書や立場に関係なく、目の前にいる人の心を、先生は見つめます。誰に対しても、態度も意見も変えません。この姿勢には良くも悪くも驚きを感じます。先生を怖いという方は、見透かされるような気持ちになるのでしょう。

2016年9月時点で、ベテランママの会には123種類の取り組みがあり、通算1032回実施した活動に、延べ14,615名のかたがご参加くださいました。先生が、困っている人、弱っている人の話にじっくりと耳を傾け続けた成果だと感じます。

しかし、いつも気丈に振る舞う先生が、たった一度だけ、私に弱音を吐露したことがありました。福島市で夜、電話を取った私に、先生はいつになく弱った声で「私、もう駄目かもしれない・・・」と私に告げたことを強く覚えています。今にも消え入りそうな先生の声に、私は焦りました。気づいた時には、夜道を2時間運転し、私は南相馬の先生のもとにいました。

もちろん私が来ることなど想定もしていなかった先生は驚いた様子でしたが、しばしお話しするうちに、先生の不安が和らぐのがわかりました。後日、先生が「あの日、私にはもう何もないと絶望した時、加藤君が『先生には、人を動かす力があります。現に、こうして私は、電話を切った後すぐに先生に会いにきたじゃないですか。』と言ってくれたことは大きな励みになった」と私に打ち明けてくださいました。

日本中から寄せられる、福島県人の悩みに先生は応え続けていました。しかし、先生が心の奥底にしまいこんだ悩みや不安に寄り添う人は少ないのだと、私は傍にいながら気づけませんでした。福島の復興という膨大な時間のかかる難題を先生に押しつけて、先生自身の人生を縛ってはいないかと、私は自問自答しました。

この出来事からしばらく経った2015年2月、ベテランママの会は「第1回日本復興の光大賞」という大変名誉な賞(※2)を、他のNPOを差し置いて、任意団体のままいただくこととなるのですが、ジャーナリストの池上彰審査委員長は「正しい情報を冊子で発信し、英語版を作成して世界にも発信した」と授賞理由をお話しくださいました。

小冊子『福島県南相馬発 坪倉正治先生の放射線教室』を4万冊、英語版を1万冊発行したこと、福島県民の拠点である東京駒場東大前「番來舎」を私費で開設していることが評価されての大賞受賞でしたが、番場先生は、「『正しい情報』と言い切ってもらえたことが何より嬉しかったし、私がやってきたことは、間違ってはいなかった」と感激していました。何をするのが正しいか誰もわからない中、南相馬の子どもや親御さんの不安に向き合いたい一心で続けた活動が、認められた瞬間でした。

豪放磊落の先生の逸話には続きがあります。この大賞受賞で副賞をいただいたのですが、番場先生は東京では日本橋「たいめいけん」を貸し切って、南相馬では駅前のホテル丸屋をお借りして、それまでお世話になった100名以上の方々をお招きして感謝の集いを開催し副賞は使いきりました。先生らしいと思います。その際に、初めて小冊子にまつわる思いやお一人で受け止めてきた武勇伝の数々をご披露し、スタッフの皆さんが涙している姿に、改めて番場さち子という人の大きさを思い知った印象です。

先生は、今後も困っている人、弱っている人がいる限り、彼らの話に耳を傾け続けるはずです。私は、これから先生が何を始めるとしても、どこにいても、先生の描く未来を実現するためずっと先生を支え続けます。「誰が正しいかではなく、何が正しいか」と批判的精神を胸に日本を築いたのは憲政の父・尾崎行雄先生、そして尾崎先生の三女であり旧相馬中村藩・相馬家33代当主相馬和胤公の母である相馬雪香先生でしたが、番場先生もまた、周囲の人間関係やしがらみに左右されることなく、正しいと思うことを淡々とやり続けるはずです。

一方で、新しい挑戦を続ける先生の姿を4年半にわたり見続けた私も、地元横須賀の課題解決に向け新たな一歩を踏み出すことを決断しました。皆様が思う横須賀とは、どのような所でしょうか?
神奈川県横須賀市は、1853年(嘉永6年)ペリーの黒船来航で有名です。最初、久里浜にたどり着いた船は、砂浜の久里浜には接岸できず、浦賀に誘導されたという話があります。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌1854年に日米和親条約締結に至りました。ここから明治維新までが幕末と言われる歴史ある地域です。

ところが現在の横須賀市は、2013年に人口減少全国ワースト1を記録しました。特に、20代~40代の子育て世帯の転入が少ないことに危機感を覚えています。私がたくさんの友達と少年時代を過ごした横須賀市浦上台の団地からは、子どもの声が聞こえなくなりました。人がいなくなった街を復興させる大変さは南相馬で骨身にしみています。人口減少を食い止めるには、子育てしやすい環境づくり、魅力ある教育、安心できる高齢者福祉など、複合的な施策を今すぐ打つ必要があります。

市債(市の借金)は約2,900億円、市民一人当たり69万円に上り、使えるお金も時間も限られています。今を生きる一部の人の利益に与するのではなく、40万人の市民の意見にじっくり耳を傾け、将来を見据えた決断をせねばなりません。尾崎行雄先生の言葉を借りるならば、「人生の本舞台は常に将来に在り」という思いで、現在のしがらみに縛られることなく、地域の将来に関わる政策を構想し実行せねばなりません。

私は30年後も地域に暮らし仕事をする責任世代として、政策を最終的に決める市議会に挑戦します。30年後の子ども世代に「自分たちの住む地域の将来が危ないとわかっていながら、なぜ何もしなかったの」と言われたくはありません。今ある問題を、将来へと先送りしたくはありません。

福島復興の道のりにおいては、あらゆる対策が後手に回り、立ち遅れている印象を受けます。事故を起こした福島第一原発の廃炉には30年以上の歳月が必要とされていますが、福島県に暮らす人たちの不安が完全に消えるまでにどれだけの歳月が必要なのか、何をすべきなのかは誰にもわかりません。

この現世に、尾崎行雄先生がご存命であったのなら、どう決断を下されたでしょう。番場先生は、「教育者」ですが、議員でないだけで「民間政治家」だと思います。これからも福島県が抱えている問題に最前線で向き合い続けるでしょう。番場先生の「じっくりと耳を傾ける傾聴の姿勢」「まず何でもやってみる挑戦の精神」「諦めない粘り強さ」は、先生に影響を受けた周囲の人たちを通じて、今後も日本中の課題解決に役立っていくと信じています。私もその一人として、地元横須賀のために、しいては日本の時代を担う子どもたちのために、立ち上がる所存です。

※1: 『東日本大震災災害ボランティアセンター報告書』 社会福祉法人全国社会福祉協議会http://www.shakyo.or.jp/research/11volunteer.html
※2: 「『エルトゥールル号からの恩返し 日本復興の光大賞』とは」http://www.nittokai.org/report/detail104.html

(2016年11月24日「MRIC by 医療ガバナンス」より転載)