日本バドミントン界の躍進にみる成長の三要素

日本のバドミントン界は急に生まれ変わったわけではない。緩やかな変革を経て、着実に進化してきたのだ。

筆者は生まれも育ちも関東で、現在は神戸で産婦人科専攻医として働いている医師だ。一方で仕事の息抜きとして、趣味として、今でも中学から始めたバドミントンを続ける一人の選手でもある。最近オリンピックが近くなり◯◯選手はメダルを取れるの、と聞かれることが多くなったがこれには驚いた。今までそんな質問は聞かれたこともなかったからだ。

オリンピックでの髙橋礼華、松友美佐紀ペアの金メダル、奥原希望選手の銅メダルを筆頭に、多くの日本人選手がスーパーシリーズ(世界選手権やオリンピックの次のグレード)で優勝・入賞するようになった。本稿のほとんどの読者はなぜ急に日本のバドミントンが強くなったのか、と不思議に思っているだろう。

実は、日本のバドミントン界は急に生まれ変わったわけではない。緩やかな変革を経て、着実に進化してきたのだ。本稿では日本バドミントン界成長の歴史とその背景について紹介する。

バドミントンがオリンピックの正式種目として採用されたのは1992年のバルセロナからだが、それから2004年のアテナまで金メダルを取った国はたった4カ国(中国・インドネシア・韓国・デンマーク)。

日本人は金どころか一つのメダルも取れていなかった。競技として注目されるためにはオリンピックでの活躍が不可欠と考えた日本バドミントン協会は、現役時代オリンピックで2つのメダルを獲得した韓国の朴柱奉氏をコーチとして招聘した。

朴氏がコーチとして最初に取り組んだのは勝利へのこだわりと高いモチベーションを持たせることだったという。当時の日本選手を見て、「勝ちたいという気持ちが感じられなかった」と朴氏は語る。朴氏のもと勝利を常に意識した練習を続けたことで、次第に国際大会での結果につながった。

また、当時日本人選手は上位に食い込みやすいややレベルの低い大会に出場していたが、朴氏がコーチに就任してからはよりレベルの高い大会に出場する方針へとガラッと変わった。「1回戦2回戦で負けても、自分のレベルがわかる。一番上の、目標も見えてくる」と語る朴氏の指導のもと、日本人選手は着実に実力を伸ばしてきたのだ。

また日本バドミントン協会以外の下部組織や、小中高でも変化が起こった。

一昔前までは中学生から本格的にバドミントンを行うのが主流であった。ところが当時日本小学生バドミントン連盟強化部長であった能登則男氏らが強豪国である中国を訪れた際に小学生からバドミントンのための全寮制学校に通う子供たちを見て、「このままではとてもかなわない」と実感したという。その後能登氏らの働きかけで小学生からの選手育成がスタートした。

さらに中学、高校での指導でも変化が起きた。大宮東、関東第一高校といった強豪校の監督が積極的に世界の強豪国との交流を推し進めたのだ。大宮東の大高氏は強豪国を回り指導法を学び、関東第一の渋谷氏は海外の実力ある若手を留学生として招き練習に参加させた。こうした海外との積極的な交流によって小中高と成長してきた世代が現在の活躍を生み出したのだ。

上記のエピソードから、日本バドミントン界の躍進には強力なリーダーシップを持つコーチが日本に就任したこと、時を同じくして様々なレベルの組織で積極的な対外交流が行われたこと、そしてそれらの動きを日本バドミントン協会が後押ししたこと、この3つが大きく影響していると言える。

若くから頂点を目指し練習を重ね、積極的な対外交流を行い世界中の「本物」を見て育った世代が、組織と選手を一番に考える強力なリーダーシップの下でついに金メダルを獲得した。まさに日本バドミントン界の悲願と言える瞬間であったことだろう。

こうした日本バドミントン界の躍進から、我々は何を学ぶことができるだろうか。例えば個人として、成長するために積極的に自分と異質な存在と交流することや、各分野の本物に触れること。

また組織としては、下部組織や民間から出てきた今までにないアイデアを柔軟に取り入れ、必要があれば支援することの大切さだろうか。我々は毎日の仕事の中で、同じ分野に打ち込むことでともすれば大切なことを忘れがちである。オリンピックから、スポーツから学べることはまだまだ多くありそうだ。

(2016年8月23日「MRIC by 医療ガバナンス学会」より転載)

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