「コンピュータに仕事が奪われる」は本当か

SFにおいて好まれるモチーフの一つに、「ディストピア」がある。近年、そういった映画や小説が描く世界が現実になるのではという懸念、つまり「コンピュータが職を奪う。世界は富裕層と貧困層に2極化する」が、議論の対象として頻繁に取り上げられている。

SFにおいて好まれるモチーフの一つに、「ディストピア」がある。

この言葉は「ユートピア」の反対語であり、古くはフリッツ・ラングの描く映画「メトロポリス」や、テリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」、最近では昨年公開されたニール・ブロムカンプ監督の「エリジウム」などがあり、そこでは「機械による労働の代替」そしてセットで「支配者階級と被支配者階級の2極分化」が描かれる。

近年、そういった映画や小説が描く世界が現実になるのではという懸念、つまり「コンピュータが職を奪う。世界は富裕層と貧困層に2極化する」が、議論の対象として頻繁に取り上げられている。

例えば、ベストセラーとなった「ワーク・シフト」という本がある。著者はリンダ・グラットン。ロンドン・ビジネススクールの教授で英タイムズ紙の選ぶ「世界のトップビジネス思想家15人」の一人だ。

この本のキャッチフレーズは、「下流民か、自由民か。地球規模で人生は二極分化する」である。

単純労働は機械に置き換えられ、人はクリエイティブな事を行う上位2割と、機械に置き換えにくい肉体労働や単純労働を行う8割に分かれていくという「ストーリー」は、自分も下流に転落するのではないかという人々の恐れを煽っているようにも見える。

ご存知の通り、このような「機械に対する恐れ」は初めてではない。1800年代初頭に、イギリスにおいて「ラッダイト運動」というものが発生した。

「機械の打ち壊し運動」といったほうがわかりやすいが、産業革命による機械の浸透が、「職人」から仕事を奪うのではないかと恐れを抱いた労働者が紡績機などを破壊した騒動である。

当時の英国政府は機械を破壊した人物を「処刑」するなど、深刻な対立に発展した。

しかし、現実は彼らの懸念とは反対の方向に発展した。産業革命は結果として機械の発展、労働の効率化につながり、その結果労働者の生産性が大きく向上、余剰分は労働者に還元され、中流階級が生まれたのである。

2極化どころか、世界はより平等になった。

ピーター・ドラッカーはこの現象を分析し、「資本家と労働者が対立し、階級闘争の果てに資本家が打倒されるというマルクスのシナリオは全くの間違いだった」と述べる。

さて、現代にもこのようなことが起きるのだろうか。2極化という不幸な未来を回避し、再び中流階級が数多く生み出される世の中になるのだろうか。

結論から言えば、「その可能性は十分ある」だろう。確かにコンピュータは多くの人から一時的に職を奪う。

しかし、考えてみると、100年前に「プログラマー」は、ほとんど存在しなかった。「ネットワークエンジニア」や「CAD設計士」も同様である。未来においては、コンピュータは活用される業務に付随する大量の職業を生み出すだろう。

実際に、総務省のデータを見れば、IT関連技術者は30年で10倍近くの人数になっている。

コンピュータは人から職を奪うのではなく、職を変化させるだけであり、その時代において、大量に人を必要とする職業が必ず生まれる。

そして、今我々に求められているのは、純粋な「肉体労働者」でも無く、純粋な「クリエイター」でもない、専門病院の看護師や、ゲームプログラマー、あるいは倉庫の在庫管理者といった、「肉体労働」と「知識労働」をバランスよくこなす人々であり、考えながら実際に手も動かす仕事こそ、今後の主流となるのではと推測できる。

ただ、現在よりもはるかに多くの「知識労働者」が必要となることは間違いない。

それには、より優れた教育の手法や、職業訓練が望まれるが、「大学」や「企業」はその担い手になることができるだろうか。または、「第三の教育の担い手」が出現するのだろうか。

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