「『廃炉』って言葉が悪い」......獄中を知る堀江貴文と加藤登紀子が原発問題で激論

7月3日、創業60年以上になる新宿の老舗・どん底に、"獄中"を知る2人の歌声が響いた。1人は1972年に服役中だった藤本敏夫と獄中結婚した歌手・加藤登紀子氏、そしてもう1人は今年3月に仮釈放された堀江貴文氏だ。
Akira Kobayashi

7月3日、創業60年以上になる新宿の老舗・どん底に、"獄中"を知る2人の歌声が響いた。1人は1972年に服役中だった藤本敏夫と獄中結婚した歌手・加藤登紀子氏、そしてもう1人は今年3月に仮釈放された堀江貴文氏だ。

加藤氏が獄中結婚をした1972年は、堀江氏が生まれた年でもある。世代を隔てながら、ともに"獄中"というキーワードでつながった2人の対談は、刑務所の中の話から始まり、やがて刑務所の外へ。そして、原発と未来へと広がって行った。

■量の成長を求めない社会の基準は「GN Love」?

Ustreamチャンネル「Tokiko's Bar」とニコニコ生放送「ホリエモンチャンネル」のコラボとして企画されたこの対談は、"獄中"というキーワードでつながる2人ということで、獄中の食事の話などからスタート。

加藤氏の嘆願によって刑期が短くなった藤本氏が「もう少しで(獄中で自分が育てていた)菊が咲くところだったのに。満期までいたかった」と語った話や、堀江氏の「獄中で強盗犯の先輩がちゃんと作業などの報告をしないと長時間説教をしてきて面倒だった」といった獄中のエピソードに花を咲かせたが、やがてテーマは人生観の話に。堀江氏の著書から気になった言葉を抜粋して書いてきた加藤氏が、色紙を見せながら堀江氏に質問を投げかけていった。

序盤では特に個人の話に焦点が当たった。たとえば、「お金がなくても贅沢はできる」という言葉を紹介した加藤氏は、堀江氏に「贅沢って何?」と問いかける。

堀江氏はこれに対し、「時間がありあまるほどある生活」と応える。「予定を入れなければ時間はあるでしょう?」と突っ込まれると、「でも、予定を入れるのが好きなんです。時間を無駄にしないのが大事」と語った堀江氏は、その後のテーマでも、六本木ヒルズに居候している人の話をしながらこう語る。「お金持ちの人って忙しいから、付き人みたいな感じでいっしょに遊ぶ人が欲しかったりするんです。そういう人と一緒にいてヒルズに居候してる人を知ってる。ブラブラして、お小遣いまでもらったりしてますよ。(そういう人になるには)人生の機会を無駄にしないことじゃないですか? みんな新しいことに対して勇気がない。誰かに誘われても『明日早いから』とか言っちゃう人はダメ。機会を大事にしないと」(堀江氏)。

また、生き方の質の話になると、加藤氏が新たな概念を提案。「いまや量の成長を経済が求める時代じゃない。かといって、GNH(Gross National Happiness=国民総幸福量)というのもよくわからない。何か新しい尺度はないか」と堀江が著書で書いていたのに対し、加藤は「いい加減に考えたからいい加減に聞いて欲しいんだけど、『みんなが生きることに愛情を持てているか』『みんなが生きていることに対して愛情がいっぱいあるかどうか』という、『GN Love』というのを私の尺度にしたい」と、独自の観点を披露した。

■生産と消費が一体化するインターネット社会はアナーキズムに近い?

その後、対談は徐々に国家をめぐる問題にシフト。堀江氏がジャーナリスト・佐々木俊尚氏の著作『レイヤー化する世界―テクノロジーとの共犯関係が始まる』(NHK出版新書)を紹介し、「国民国家ができたあとは、国家や会社というものがすごく大きくなってきた。そう思われてきた。だけど、インターネットがこれだけ大きくなった今、国家が(人生における比重として)小さくなってきている。大学を卒業したら会社しかレイヤーがなかったが、今はSNSを通じて趣味のレイヤーを広げられる」と指摘すると、加藤氏がアナーキズムの一派であるアナルコサンディカリスムを紹介。国家をつくるのでなく、労働組合がアメーバ状に広がっていくことを理想としたアナルコサンディカリスムについては、堀江氏も「インターネットはそれに近い」と頷く。

さらに、「インターネットは消費することはできるけど、生産はどうなるの?」という加藤氏の問いかけに、堀江氏はクラウドファンディングなどの仕組みをあげ、生産も行われていると主張。「UNIXやLinuxのカーネルやツールなど、インターネットの基盤もソーシャルでコラボして開発されてきた。今、3Dプリンタ革命なんかとクラウドファンディングがくっついて、モノまで全部ソーシャルでできるようになっている」と指摘する。

かつては国家と密接に関係していた産業が、国家と少しずつ離れていきつつある現状を分析した。

■原発をめぐる技術と理念の対立

おだやかに進んでいった2人の対談だが、ある話題にさしかかったとき、論調が一転した。原発問題だ。

加藤氏は堀江氏が著書で、「原子炉を廃炉するのがどれくらい大変か、みんなわかってない」と主張したことに対し、「どれくらい大変かなんてわかってると思う。わかっていて原発に反対している」と真っ向から反論。「時間がかかるし、大変。だからこそ、早く(廃炉に)手を付けないといけない」と語った。

これに対し、堀江氏は「(廃炉の大変さを)知らない人も多いと思うんですよ」、「(原発を残すか否かは)僕、どっちでもいいんですよ」とした上で、「ただ、原子力についてわかる人がどんどん少なくなっていくのは不安」と原子力技術者の問題を指摘する。

2人の対立は、政治・国家と技術者の対立といっていい。堀江氏は「E=mc2(アインシュタインによるエネルギーと質量の関係を示す方程式。核反応技術の基礎となる公式)という公式を知ってしまった以上、止めることはできない」という立場に立つ。アインシュタインが政治的意図や価値とはまったく無関係にE=mc2という公式を見出したにもかかわらず、それが政治によって爆弾へと変換されたように、技術者、研究者の情熱は技術や真理そのものに向けられる。好奇心は政治とは無関係に駆動し、技術を進化させていくというわけだ。だからこそ、堀江氏は「(知ってしまった以上、原子力は)人類共有の財産として技術を保持しなくてはならない」と語る。

もちろん、廃炉もまた原子力に関わる技術のひとつだ。しかし、堀江氏は「『廃炉』って言葉が悪い」と指摘する。何かを廃止する、失わせるという言葉は「技術者が夢中にならない」というわけだ。未来がない技術に技術者は没頭しない。「廃炉をやるんだったらイメージアップ作戦が必要」と語るように、堀江氏にとっての「廃炉の大変さ」とは、技術と同時にその研究をめぐる環境の問題でもある。

こうした問題を踏まえ、堀江氏は「原発は宇宙でやればいいと思う」と話す。「僕は原子力ロケットをやりたいだけなんで。それでみんなが普通に宇宙に行ける時代を創りたい」と、自身の夢と絡める形で、宇宙開発での原子力の可能性を指摘した。

これに対し、加藤氏は技術の帰結としての原発を見据える。「(原発は)ものすごい技術なのに、熱を出してそれで水を沸かし、タービンを回してるだけ。そしてその熱を水で冷やし続けなければならない稚拙な原理」と語るように、高度な技術の帰結するのが極めて原始的な場所であることを指摘する。

「廃炉の現場は恐ろしい場所。エンジニアやテクノロジーという問題以前に、(何か事故が起これば)誰かが原始的に現場に立ち入ってメンテナンスをしなくてはならないという、命を必要とする現場なんです。そういう稚拙で惨めな(現場の原始的な)問題を、かっこ悪いから語らないというのはもうできない」(加藤氏)。原発を始め、原子力関連設備にはもちろん技術の粋が集められている。しかし、その粋を集めた施設は、一方でボルトやネジなどの原始的な技術に支えられており、そうした初歩的な部分を守り、メンテナンスすることが常に必要とされる。有事の際であれば、危険と隣り合わせで人間の手が必要になることもあるだろう。

異なる立場の2人の議論は、平行線をたどり、最終的には加藤氏が「これだけはもうあなたが何を言ってもダメ」と切り捨て、堀江氏も「最後(自分が)圧倒されてましたね」と苦笑気味に語る形で幕を閉じた。

原発に対する2人の議論は、明確な結論がない。それは、堀江氏が「水が高いところから低いところに流れていく」というような一種の自然の法則を押しとどめることの難しさを語り、水流を変える必要性を説いているのに対し、加藤氏は結果的に水が人を流すのであれば自然の法則に逆らってでも押しとどめなくてはならないという理念を語っているためといえる。それは、おそらく両方とも原子力にとって必要な視点だ。自然法則だけでは世界は変わらないし、理念を実現するには自然法則と技術を制する必要がある。

あさま山荘事件が起こり、"政治の季節"が終焉へ向かっていった1972年をめぐる2人の対談は、形を変え、再びこの国の未来と政治を見据えていたといえるのではないだろうか。

(文:小林聖

北海道電力の泊原発

日本の主な原子力発電所と関連施設

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