「ムーミン」創作の源泉 生誕100年の作者トーベ・ヤンソンの素顔に触れる秘蔵フィルムを上映

2014年は「ムーミン」の生みの親、トーベ・ヤンソンの生誕100年。世界で記念イベントが開かれる中、日本でもトーベの知られざる素顔にふれるドキュメンタリーフィルムが公開されている。
© MOOMIN CHARACTERSTM

2014年は「ムーミン」で知られるフィンランドの作家、トーベ・ヤンソン(1914〜2001)の生誕100年。世界各地で記念イベントが目白押しだが、日本でもトーベの素顔に触れたドキュメンタリーフィルムが、東京・渋谷で開催中の北欧映画祭※「トーキョー ノーザンライツ フェスティバル 2014」で上映されている(2月14日まで)。

日本プレミア上映されるのは、『ハル、孤独の島』(1998年)と、『トーベ・ヤンソンの世界旅行』(1993年)。トーベのパートナーで、グラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラが撮りためたプライベート映像を素材として、作品として仕上げたものだ。撮影された時期は1971年から1993年のおよそ20年間。『ハル、孤独の島』ではトーベとトゥーリッキが毎年夏を過ごした小さな島での暮らしが描かれる。『トーベ・ヤンソンの世界旅行』には、1971年に日本のテレビ局の招きで来日した二人が、日本からハワイ、メキシコ、アメリカを巡りヘルシンキへ帰るまでの旅の様子が収められている。

自然との共生や仲間との交流を描いた「ムーミン」の源泉ともいえる映像。作品化には、カネルヴァ・セーデルストロムとリーッカ・タンネルという二人の監督がかかわった。来日したリーッカ・タンネルさんに話を聞いた。

リーッカ・タンネルさんは1949年、ヘルシンキ生まれ。ジャーナリスト、ノンフィクションライター、映像作家として活動。カネルヴァ・セーデルストロムと何本かの映画で共同監督や脚本を担当している。

■プライベートフィルムが映画になったいきさつ

「私が初めて映像を見たのは、90年代のはじめごろです。カネルヴァと一緒に8ミリフィルムを映写機で上映して見ました。トーベとトゥーリッキは以前からよくそうして見ていたそうなのですが、ある時、フィルムはいつかダメになってしまう、なんとか残せないものかしらと考えたんですね。それで、当時はビデオテープでしたから、VHSに移し替えました。その時にアイデアが浮かんだそうです。『こうやって、いつも映画を見るように(思い出のフィルムを)見ているけれど、本当に映画を作れるんじゃない!?』って。だけど、彼女たちは映画作りの技術を持っていません。そこで、ひらめいたのがカネルヴァと私だったというわけです。(ぱちんと指を鳴らして)『監督がいたわ!』と」

このひらめきには背景がある。映画監督であるカネルヴァの母親とトーベは美術学校の同級生、しかも、たった二人しかいない女学生で、二人はとても仲良しだった。トーベは、その古くからの友人の娘であるカネルヴァのことを赤ちゃんの頃から知っていたし、80年代にはトーベの小説をベースにカネルヴァが映画を撮ったこともあった。

「それぐらい近しい人、信頼できる人でなければ、大切な思い出の映像を見せることはなかったでしょう。そして、映画が作られることもなかったのではないかと思います」とリーッカさんは言う。『ハル、孤独の島』にはこんなシーンがある。大空をバックに、トーベが楽しそうに踊る。自由に手足を動かすその姿は開放感にあふれ、幸せな時間であることを見る者に感じさせる。

「トーベは、作風からストイックなイメージがあるかもしれませんが、とても明るくて、おもしろい人でした。だけど、オフィシャルな撮影だったら、あんなにも自分の世界に入りこんで、心おきなく楽しんでいる姿を見せることはなかったでしょう。あの場面は、トゥーリッキの愛情がいちばんつまっていると思います。トゥーリッキだから撮れた印象的なシーンです」

■『ハル、孤独の島』に見るムーミン谷の自然

『ハル、孤独の島』では、共同監督のカネルヴァとリーッカは、約20時間分もの映像素材を編集し、44分の作品にまとめあげた。舞台であるクルーブハル島はヘルシンキ沖の群島の一つで、岩礁だ。1964年に小屋を建て始め、1991年に引き上げるまで毎年、夏をその島のアトリエ兼別荘で過ごした。

トゥーリッキの映像は、海面の動き、波のかたち、岩肌など自然の造形物を丹念に映し出していく。リーッカさんは、「グラフィックアーティストならでは絵の切り取り方、美しさがもともとの映像にありました」と言う。美しい映像と同時に印象に残るのは、風の音だ。さえぎるもののない岩礁では強い風が吹く。映画の中に、こんな一節がある。「桟橋を維持することも できなかった/作っても作っても 次の嵐で流される/ムダなことと気づくまで 何十年も かかってしまった」

「フィンランド人は森や海や湖などの自然を身近に感じ、敬意を持っています。だけど、この島の環境は特に過酷ですね。少し風が吹くとうまくボートがつけられないので、上陸するのが難しく、誰も、釣り人ですらここまで行こうとは考えない。こんなエクストリーム(極端)なところを好む人たちは、トーベとトゥーリッキぐらいです(笑)。トーベは、夏にここ以外のところに行くなんて考えられないと言っていました。島では創作に集中する時間がたっぷりありましたし、インスピレーションのもとにもなったでしょう。なにより、海とともに生きたかったんですね。トーベは、幼いころから夏になると必ず家族とともに海辺で過ごしていました。子ども時代に見た風景が、ムーミン谷のお話につながっていると思います」

■トーベが日本で手に入れたコニカ製カメラ

じつは、トーベ・ヤンソンのドキュメンタリーフィルムは、日本と不思議な縁でつながっている。美術学校、パリ留学を経て、画家、イラストレーターとして仕事をしていたトーベが、ムーミンシリーズの第1作「小さなトロールと大きな洪水」を刊行したのは1945年。以後、70年までに全9作品を発表、世界的人気を博した。日本では69年にテレビアニメ「ムーミン」が放映され、71年にテレビ局の招待で来日。その時に、コニカ製の8ミリカメラを手に入れたのだ。

トーベとトゥーリッキはカメラを「コニカ」と名づけ、いつも持ち歩くようになった。日本からメキシコ、アメリカを巡る旅の記録を作品化した『トーベ・ヤンソンの世界旅行』では、映像を見ながら当時を振り返る二人の肉声も聞くことができる。今回初来日したリーッカさんはこう語る。

「トーベとトゥーリッキの撮影はここ、東京から始まりました。この場所で映画をみなさんにお見せできることに、運命のようなものを感じます。トーベは芸術家としてずっと昔から日本のことがとても好きでした。日本のアートが大好きで、歌川広重のカラーの版画がお気に入りでした。トーベの挿絵を見ると、波のかたちや、風の描き方などに日本の影響をとても感じます」

トーベは1990年に2度目の来日を果たした。ちなみに、リーッカさんによれば、トーベとトゥーリッキが20年以上使い続けた「コニカ」は、今もちゃんと保存されているそうだ。

■映画づくりを楽しんでいたトーベ

トーベのドキュメンタリーフィルムは、じつは3部作になっている。上で紹介した2作品と、『トーベとトゥーティの欧州旅行』(2004年)だ。この作品は「トーキョー ノーザンライツ フェスティバル 2014」では上映されないが、『ハル、孤独の島』とともにDVDとなって発売されている。3作目の『トーベとトゥーティの欧州旅行』を作っている時、トーベは臥せりがちで、前2作ほど積極的に映画作りにかかわることはできなかった。それでも、「トーベは映画作りをとても楽しんだと思う」とリーッカさんは言う。

「『ハル、孤独の島』の脚本はトーベが書いているのですが、とても美しい手書きの文字で書かれていました。私はいくつかの映像作品を手がけていますが、手書きの台本を見たのはその時だけです(笑)。トーベはすべての本を手書きで書いているんですね。テキストはすばらしいもので、『島暮らしの記録』という本にもなるのですが、映画の脚本としてはものすごく長かったんです。一つの言葉に対して映像がどのくらい必要か、言葉をどのくらいに抑えなきゃいけないのか、一生懸命説明しました。『どうして削らなきゃいけないの』と傷ついていましたけれど(笑)。映画作りを始めた時はもうおばあさんといっていい年齢になっていましたが、脚本を手がけたり、朗読する女優さんをキャスティングしたりなど、新しい仕事を楽しんでいたと思います」

トーベを知る人の多くが、彼女を表す言葉としてあげるフレーズがある。蔵書票にラテン語で書かれていた言葉だという。

「働け、愛せよ」。

創作を愛し、旅を愛し、生きることを愛し続けた彼女の素顔に触れてみてはいかがだろうか。

「トーキョー ノーザンライツ フェスティバル 2014」トーベ・ヤンソン特集では、上で紹介した2つのドキュメンタリー作品のほか、1990年からテレビ放映されたアニメシリーズの劇場版、『ムーミン谷の彗星』も上映される。

[ライター 長瀬千雅/@chicanagase

ムーミンの生みの親トーベ・ヤンソン生誕100年