【3.11】町民より作業員の方が多い町の「生きる道」とは 福島県広野町

福島県双葉郡広野町。福島第一原子力発電所から20km圏ラインのすぐ外に位置するこの町は、原発が存在しないにもかかわらず、震災以降は原発事故収束・最前線の町となった。町民が町に戻るためには何が必要なのか。将来を見据えてどのような舵取りを行うのか。2013年11月に行われた町長選で現職を下し当選した遠藤智町長に話を聞いた。
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福島県双葉郡広野町。福島第一原子力発電所から20km圏ラインのすぐ外に位置するこの町は、原発が存在しないにもかかわらず、2011年3月11日以降は原発事故収束・最前線の町となった。広野町の最北部に位置する「Jヴィレッジ」が東京電力や自衛隊の前線基地となり、全国各地から廃炉や除染にあたる作業員が集まってきたためだ。

福島県の浜通り地区と福島第一原発の位置関係図

住民票を持たないものの、町で暮らす作業員は約2600人。一方、住民票のある約5200人の町民のうち、町に戻ったのは約1350人(2014年2月25日)。今、町で暮らす作業員の数は、町民の2倍近くにまで増えている。

一時は全町避難が指示された広野町は、2012年3月31日に避難指示が解除された。町は町民に帰還を促すが、戻って来たのはまだ約4分の1。町民が町に戻るためには何が必要なのか。将来を見据えてどのような舵取りを行うのか。2013年11月に行われた町長選で現職を下し当選した遠藤智町長に話を聞いた。

■広野町に戻っても、再開した学校に通わない中学生

広野町に戻りたい――。

2013年12月に行われた町民アンケートでは、町外で暮らしている人のうち、町に「もどる」と答えた人は62.8%にのぼった。町に帰還できるかどうかの判断材料として挙げられた条件は、「医療や福祉、買物など日常生活に関するサービスが元通りになったとき」が27.6%と最も多く、町の生活基盤の整備が最重要であることがわかる。

広野町長の遠藤智さん

しかし、商売をする側の立場からしてみれば、お客がいない状態では店は始められない。住民が先か、商店が先か。探り合いが続いている。

町としては町民の帰還を一刻も早く進めたい。その理由の一つが、「中高一貫校」の設立だ。2013年12月、これまで高校がなかった広野町内に、双葉郡初の県立の中高一貫校が作られることが明らかになった。遠藤町長は、町民が町に戻り、広野町全体で子供たちを歓迎できるような体制をつくらなければならないと話す。

「一貫校に通う高校生は、ここ広野町内に住む予定です。計画では、町内に宿舎を設けることになっています。

今、広野町の保育園、幼稚園、小中学校には、合わせて560人の子供がいますが、戻っているのは140名です。2012年2学期に学校が再開したときの90名からは50名増えていますが、未だ、町外の仮設住宅から町内の学校にバスで通うというような、通常ではない生活をしています。

町民の方が、避難生活から日常生活に戻っていくということを、確かなものにしていかなくてはならない。そして、夢と希望を持ってやってくる子供たちを迎たい。高校の設立は町の大きな力にもなります。教育の町となり、新しい町づくり・発展への礎ともなります」

広野中学校

ところが、今まさに青春時代を過ごす子供たちにとっては、再開した学校が物足らなく映る場合もある。

せっかく広野町に帰還した家庭のなかにも、再開した広野町の学校に通わず、いわき市などの中学に電車で通う中学生もいる。その理由は「部活」。人数が少ないためまだまだ満足に部活動が行えない状況で、選手の人数が足らずに試合に出場できない部もある。仮設住宅から学校までの通学手段として用意されたバスも時間が決まっているため、試合前に遅くまで練習するということなども難しい。

元々、Jヴィレッジにあった将来のサッカー日本代表選手を育てるスポーツエリート校「JFAアカデミー」に所属する子供は、広野中学校で学んでいたという土地柄でもある。中高一貫校では大学進学だけではなく、スポーツ選手の育成にも注力するとされているため、町内でのスポーツ活動をどのように盛り上げるかも、今後の課題の一つだ。

■町の中に建ち並ぶ、作業者向けプレハブ宿舎

町外の仮設住宅に暮らしながらバスで広野町の学校に通う子供たちを見て、既に広野町に戻った住民のなかには「子供は広野の学校に通わせているのに、なぜ親は帰町しないのか」と憤る人もいる。除染、医療インフラの整備の遅れなど、家庭によっても帰還できない理由が異なるが、数ある課題の一つに、廃炉や除染に当たる作業員との共生というものがある。

現在広野町で業務を行っている復興関連企業の数は80社。東京電力の原発・火力発電所関連が30社、除染関連が18社、そして警備やリース、道路工事などの企業が32社となっている。これらの企業に務める約2600人のうち、約900人は町内の民宿・ホテルを利用し、残りの約1700人が、企業の用意するプレハブ宿舎や住民から借り上げた一般の住宅で寝泊まりする。

大成建設、間(はざま)、東京パワーテクノロジー、など名だたる企業が、広野町のあちこちに企業宿舎を建てた

作業員が住むプレハブ宿舎は、広野町内のあちこちに建ち並ぶ。隣に住んでいるのが、誰だかわからない。町を歩いているのが知らない人ばかり。「年頃の子供をもっていると、非常に不安。とてもじゃないが、夜道を一人で歩かせるようなことはできない」という町民もいる。指定日でない日にゴミが出ているなど、住民のルールを守らないという苦情も出ている。盗難などの心配も拭えない。

福島県では2013年7月31日に「双葉地方除染事業等・警察連絡会」を設立し、行政と企業で話し合いを行っているという。しかし、疑いや監視ばかりでは、作業員と町民との溝は埋まらない。遠藤町長は、作業の疲れをとってもらうために、町としても作業員のための住居を整備したいと話す。

「よりよい共生への道は、よりよい信頼関係が構築できないとできません。全国から集って復興事業に携わって頂いている方に、私たちも感謝の意を届けなければならないと考えます。広野の風土風習文化に肌で触れて頂いて、ゆっくり町で休んでいただく。そういう場所を、自治体として提供していかなければいけないという使命があると考えています」

壁が薄く、プライバシーのないプレハブでの生活。夏は暑く、冬は寒い。過酷な労働環境で働いて帰ってきても、入浴設備も風呂桶はシャワーブースだけという状況では、疲れは取れない。

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朝6時、 Jヴィレッジに向かう車で渋滞する広野町

住居の不足も問題になっている。民宿やホテルは常に満室という状態なうえ、新しい作業員宿舎を建てる目的ならば土地を提供したくはないとする住民もいた。広野町で住まいが見つからなかった作業員たちは、さらに南のいわき市から通勤。広尾町を通る国道6号線は、Jヴィレッジに向かう車で毎朝早くから混みあい、町外れまで車両の赤いブレーキランプが続く。

作業員たちが退社する時間も、やはり渋滞だ。作業の上に通勤での渋滞で、さらに疲れが溜まることが予想され、作業効率の低下やミスの発生も懸念されると指摘する東電社員もいる。町は通勤・住宅環境を改善することで、これらの懸念が少なくなり、復興も進むのではないかとみている。

町が整備予定の復興企業向け住宅では、自治会の設置も検討されている。遠藤町長は町民と作業員との信頼関係の構築について、「まずはゴミの出し方や、排水の扱いなど、身近な生活のところから理解を深めていただく」としている。

■一時的な復興需要で終わらせないためには

全国から作業員が集まってくることが、デメリットばかりとは限らない。復興需要によって、町では今「仕事がある」状況にもなっているのだ。2014年1月の福島県全体の有効求人倍率は1.30。これに対し、広野町など双葉郡と南相馬市をあわせた相双地区では2.63と非常に高い状態だ。

しかし、この状況は一時的なものに過ぎないと町民はみている。広野町には新しい産業が必要だ――町民アンケートで、広野町の復興には「若い世代の雇用を確保できる新たな産業の創出や企業誘致」が必要と回答した人は、63.7%となった。

では、広野町にとって「新しい産業」とは何なのか。復興を足がかりにした産業開発はできないのか。

「広野町はエネルギーの町として生きてきました」

広野町出身の遠藤町長は、元々炭鉱の町だった広野町が火力発電所を誘致し、エネルギーの町として発展する様子を見てきた。大きな煙突が特徴の広野火力発電所は、1980年(昭和55年)に第1号機が稼働。この年に作られた町民憲章には「仕事に誇りを持ち、力を合わせて、豊かなまちにします」とうたわれた。その後2013年12月に第6号機が稼働するまで増設を続け、現在の総出力は440万kW。福島第二原発と同等の出力を誇る。

遠藤町長自身も、町長になる前は東電の関連企業に勤めており、福島第一原発や広野火力発電所を往復しながら、電力を作り、守る仕事をしていた。

「出稼ぎをしなくても、飯が食える町にしたい。それが、先人たちの考えでした。福島県の中でも、何もないと言われてきた双葉郡は、全部そうです。福島第一原発、福島第二原発、そして広野火力発電所というように、各町が東京電力を誘致することによって生きてきました。それが先人たちの受け止め方でした」

浜通りの各市町村には発電所がある

震災前、広野町の総生産(GDP)のうち電気・ガス等の占める割合は72.3%であり、電力関連産業に大きく依存した経済構造になっていた。福島から首都圏に安定的に電気を送る――それは電源立地地域としての使命であり、誇りであると同時に、町の経済基盤でもあった。遠藤町長は「継往開来(けいおうかいらい)」という「先人の事業を受け継ぎ、発展させながら未来を切り開く」という意味の言葉を使い、今の広野町の使命を次のように話す。

「先人たちが心血を注いで、家族がバラバラにならずとも生活できる町にしたいと取り組んできたおかげで、エネルギーにちなんだ町が今あります。継往開来。先人たちの事業を受け継いで、後世に渡していくというのが、私たちがいる時代だろうと私は認識しています」

2012年11月7日、東京電力は「再生への経営方針」の中で福島の復興を再優先の課題として掲げ、福島に雇用を創出するために「世界最新鋭の石炭火力発電所プロジェクト」の検討を開始すると発表した。2013年11月29日には、広野火力発電所と、いわき市にある常磐共同火力株式会社勿来発電所の2地点で、「石炭ガス化複合発電(IGCC)」の設立に向けて技術等の検討が進められていると報告がなされている。

IGCCはこれまでの石炭による火力発電よりも高効率で、CO2排出量も約15%できるという。東電は2020年の運転開始に向け、「我が国が誇るクリーンコールテクノロジーであるIGCCを、福島県に建設、運用させて頂くことで、福島県の復興のお役に立たせて頂きたい」と意気込む。IGCCが広野火力発電所に設立されることになれば、約2000名の雇用が新たに生まれるとも推測されており、広野町だけだけでなく、浜通りを中心とした経済復興や雇用創設に繋がると期待が高まっている。

■自然との共生をやめると、介護が増える

一方、広野町に住む医師が作った童謡「とんぼのメガネ」や広野の風景を題材にしたと言われる「汽車」に歌われているような、豊かな自然の風景も広野町には残る。「エネルギーとの共生」そして「自然とともに生きる」。広野町はこれまで、一見、相反するように思われる政策に取り組んできた。町の約300haの水耕地は決して広いとはいえないが、町を取り囲む山々の間に広がる田園風景は、人の心を優しくする。

遠藤町長も「農業は町の基幹産業。これからもしっかり取り組む」としているが、2013年に作付を再開し天皇陛下にも献上したコメであっても、福島産を避けようとする消費者の意識は未だ残る。町では今後、稲作から花卉などの施設園芸への転換や、町の施設を利用した農業の6次産業化なども進め、大地に足をつけて農業に取り組む町民を支援するとしている。

「直売所に作物を出している方には、おじいさん、おばあさんもいます。その方たちが仮設住宅に入って農業をしないという状況は、介護を求められる状況にもなる。広野町は震災前は介護を必要とする人が3.5%だったのに対し、震災後は5%に増えたんです。震災から避難をするということは、人間の尊厳にも関わるんです」

広野町役場のそばにある「みかんの丘」

遠藤町長は、健康の観点からも、震災前の日常に戻ること進めたいと話す。1986年(昭和60年)に温暖な気候をアピールしようと植樹が行われた「みかんの丘」でも、2013年12月にみかん狩りが再開した。町の人約50人が参加したと話す遠藤町長も嬉しそうだ。

広野町は2016年度を「ふる里復興・再生・希望の年」と定め、町の第2次復興計画の策定や、振興計画の見直しに取り組むとしている。帰町を促進できるかの、まさしく正念場だ。

笑顔の町民が町にあふれる日はいつか――。広野町は冬でも雪が少ない温暖な気候で知られ、間もなく春を迎える。

「広野町は『東北に春を告げる町』というキャッチフレーズでやって来ました。今は『双葉郡に復興の春を告げる町』として、全力で取り組みたい」

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