サラエボ事件から100年 第一次世界大戦の引き金となった暗殺を写真で振り返る

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディアンド大公と妻のゾフィーは、ボスニアの州都サラエボの病院を訪問する途中だった。

6月28日、第一次世界大戦が勃発するきっかけとなった「サラエボ事件」が起きてから100年を迎えた。オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子夫妻が暗殺されたこの事件をきっかけに、推定で1000万人が戦死した凄惨な第一次世界大戦の端緒が切り開かれた。

第一次大戦に参加したイギリスでは、大戦で死亡した兵士たちの追悼式典が行われ、エリザベス女王が出席して犠牲者を悼んだ。イギリスの「テレグラフ」他が報じた。

第一次世界大戦の追悼式典に出席したエリザベス女王

100年前のサラエボ事件とはどのような出来事だったのか。写真とともに振り返る。

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1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーは、ボスニアの州都サラエボの病院を訪問する途中だった。19歳のボスニア系セルビア人で国家主義者ガヴリロ・プリンツィプが短銃を取り出し、皇太子夫妻を銃撃した。プリンツィプはその時、サラエボのオーストリア人知事を殺害するつもりだったが、その代わりにゾフィーを標的にした。これが、第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」である。

サラエボ事件から1カ月後、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦を布告。ヨーロッパ史上最も凄惨な戦争のひとつに数えられる第一次世界大戦の端緒となった。

フェルディナント大公と妻ゾフィー、そして家族

プリンツィプの共犯者ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(写真中央)は、皇太子夫妻を殺害しようと皇太子夫妻の車に爆弾を投げ込もうとしたが、後続の車に命中。12人の負傷者が発生した。

フェルディナント大公と妻ゾフィー・ホテクが、爆発事件の負傷者を見舞うために病院へと向かった。

銃撃の瞬間を描いたイラスト。車上のフェルディナント大公と妻ゾフィーに銃口を向ける暗殺犯でセルビア人国家主義者のガヴリロ・プリンツィプ。彼はセルビアの民族主義者によるテロ組織「黒手組」のメンバーだったと言われている。

銃撃犯のガヴリロ・プリンツィプ

1914年6月28日、写真右から2番目の、プリンツィプあるいは暗殺の共謀メンバーが警察に拘束され、サラエボ警察署に連行される。

チェコの日刊紙「ナロードニ・リスティ」がフェルディナント大公の暗殺を伝えたときの新聞一面。

プリンツィプと民族主義組織「青年ボスニア」のメンバーの裁判。プリンツィプは終身刑を言い渡された。

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