ムーミンはどうして生まれたの? 翻訳者・森下圭子さんに聞く原作者トーベ・ヤンソンの知られざる素顔

フィンランドで生まれ、世界中で大人気の「ムーミン」。2014年は原作者トーベ・ヤンソンの生誕100年にあたり、日本でも各地で多くのイベントが行われている。11月には、『トーベ・ヤンソン ー仕事、愛、ムーミンー』(ボエル・ウェスティン著、畑中麻紀・森下圭子訳、講談社)が刊行された。トーベ研究の第一人者による本格的な評伝だ。そこに描かれているのは、ムーミンになぐさめられ、ときに苦しめられる一人の芸術家の姿である。日本語版の翻訳者の一人、森下圭子さんに話を聞いた。

フィンランドで生まれ、世界中で大人気の「ムーミン」。2014年は原作者トーベ・ヤンソンの生誕100年にあたり、日本でも各地で多くのイベントが行われている。11月には、『トーベ・ヤンソン ―仕事、愛、ムーミン―』(ボエル・ウェスティン著、畑中麻紀・森下圭子訳、講談社)が刊行された。トーベ研究の第一人者による本格的な評伝だ。そこに描かれているのは、ムーミンになぐさめられ、ときに苦しめられる一人の芸術家の姿である。日本語版の翻訳者の一人、森下圭子さんに話を聞いた。

■膨大な日記と手紙に残されたインスピレーションの源

日本でムーミンは多くの子供たちに親しまれている。森下さんは、大学生のときに「ムーミン」と再会。すっかり魅了され、「この文学が生まれたバックグラウンドをどうしても知りたい」という一心で、1994年にフィンランドへ渡った。現在もヘルシンキに暮らし、フィンランドの文化、歴史、風土に肌で触れながらムーミンとトーベの研究を続けている。

ひょんなことからトーベの2人の弟、ペール・ウロフ・ヤンソンさんとラルス・ヤンソンさんの知遇を得て、トーベの言葉やエピソードを身近な人たちから聞く機会も多い森下さんだが、、「この本をではじめて知ることがたくさんありました」と言う。

たとえば火山。『ムーミン谷の彗星』に、ムーミン、スナフキン、スニフが「おさびし山」の天文台を目指す途中で、スナフキンが「火をふく山」のことを話す場面がある。挿絵には、溶岩が流れ落ちる地面を、高い竹馬に乗ってまたいで進むスナフキン。しかしフィンランドの、少なくともトーベが暮らしたエリアでは、そのような火山は見当たらない。

「こんな光景はどこからきたんだろうと思っていたんですね。そうしたら、本の中で、若き日のトーベがイタリア旅行中にヴェスヴィオ火山を見て、家族に書き送った手紙が引用されていたんです。噴火や溶岩の様子が臨場感たっぷりで、なるほど、こういうことだったのかと思いました」

トーベはよく書く人だった。12歳から日記をつけ始め、家族や親しい友人にたくさんの手紙を書いた。著者がこれらの膨大な資料を自由に閲覧できたことが、この評伝の内容を厚いものにしている。森下さんはこう言う。

「この本が書かれてとても喜んだ人たちがたくさんいらっしゃると思います。トーベ自身も書かれることを望んでいたと思う。私も、生誕100年にしてようやく、という思いです。なぜなら、ムーミンがヒットしてさまざまに展開されすぎた結果、子供のものというより、子供だましのように思われて、正しく評価されていなかったからです」

トーベの生誕100周年を祝うスウェーデンの出版社のポスター ©Moomin Characters TM

■ムーミンの原型が現れたのは「トイレの壁」

彫刻家の父と挿絵画家の母のあいだに生まれたトーベは、ものごころつく前からペンを握り、絵を描いていた。14歳で雑誌のイラストでデビューすると、新聞、本の表紙、広告などで次々に仕事をする。けれどアイデンティティーはあくまでも画家で、作品を制作し、個展を開く努力も続けていた。

ムーミントロールの原型が姿を現すのはそんなころだ。場所は「夏の家の離れにあった、トイレの壁」。鼻の長いその生き物には「SNORK(スノーク)」と名前がついていた。ペール・ウロフとの会話の中で描かれたものらしい。日記にも、病気のときに出てきたとか、ベッドの下に気配を感じたとか、トロールは身近な存在としてたびたび出てくる。

「フィンランドには、peikko(ペイッコ)とtonttu(トントゥ)という2種類の想像上の生き物がいます。違いは、トントゥは人のために何かをしてくれるんです。たとえば、サウナトントゥはサウナを守ってくれるこびとです。一方のペイッコは、いたずらをしたり、少し恐ろしげだったりします。ペイッコをスウェーデン語ではtroll(トロール)と言います。フィンランド人はそういう目に見えない存在をものすごく受け入れている人たちなんですね。トロールはいるのが当たり前。それに姿かたちをあたえて、スノークなんて名前をつけるのは、トーベ独特の世界だと思いますが」(森下さん)

言語については少し説明が必要かもしれない。フィンランドの公用語はフィンランド語とスウェーデン語があり、スウェーデン語を話す人の割合は総人口の約6%。法的には平等な地位が与えられているとはいえ、スウェーデン語系はマイノリティーだ。そして、ヤンソン一家はスウェーデン語系フィンランド人なのである。

「ヤンソン家は家族のつながりがとても強くて、子供たちはしょっちゅう行き来していたようです。のちにムーミンコミックスの執筆をラルスさんに託したように、いざというときは互いに助け合う間柄でした。家族の絆の深さは、ヤンソン一家が文化的マイノリティーであるということと無縁ではないと思います」

■戦争のただなかで綴られた「ムーミン

スノーク初登場のエピソードはもう一つある。

先述のようにトーベは10代から旺盛に仕事をしていたが、中でも特筆すべきは1930年代から40年代にかけて政治風刺雑誌「ガルム」に連載した風刺画である。ミュンヘン会議のあった1938年には、ヒトラーを駄々をこねる子供に模して描き、フィンランドが冬戦争に突入するとスターリンを揶揄する風刺画を描いた(検閲により当時は印刷されなかった)。本書にどちらの絵も収録されているが、トーベ・ヤンソンにはこんな一面もあったのかと、はっとさせられるイラストだ。

スノークが公の場に姿を見せたのが、このガルム誌だった。1943年のことである。はじめトーベのサインに小さく添えられていたスノークは、次第にトーベの分身のようになり、いろんな場面に登場するようになった。こちらのスノークは「いつも怒った顔をしていて、風刺画にふさわしい皮肉たっぷりの存在だった」。

2つの流れはやがて合流し、トーベはムーミントロールの物語を綴り始める。そして、困難に行き当たりながらも、1945年の秋にシリーズ第1作となる『小さなトロールと大きな洪水』の出版へと結びついた。

「翻訳を進めているとき、戦争に対するトーベの感情があまりにも強すぎて、到底自分には理解できないと、彼女の気持ちを見失いそうになることがありました。憎しみ、拒否反応と言うべきでしょうか。戦争があまりにも彼女を振り回しすぎていた。色彩を失い、絵筆もとれなかった。ただ、彼女がすごいのは、それでもそのときの自分にとって最善の方法で、表現をし続けるんです。それがムーミンでした。戦争はあったけれども、それによって彼女は、表現し続ける強さと術(すべ)を獲得しているような気がします」

戦争の中で芸術を志したトーベの苦しみはぜひ本書を読んで欲しいが、ムーミンの世界は生まれながらにして、家族愛、多様性、自然観、戦争への怒り、自由への希望、さまざまな要素を内包していたのだ。

■トーベを知ると、ムーミンがもっと面白くなる

ムーミンの世界の根幹を成す9冊の「ムーミン本」をあらためて読み返してみると、巻ごとにスタイルが異なるのに気づく。短編だったり長編だったり、絵も変わるし、ムーミン一家が一切登場しないお話まである。シリーズものの児童文学としては効率的なやりかたとはいえない。だが、なぜそうなっているのかも、この本を読むと理解できてくる。

「トーベは、そのときの自分に合うものを素直に描いているんです。みんなに共感してもらいたいなんてことはまったく考えていなかったと思います。私がやりたいからやる。その姿勢は一貫していました。私から見ると、フィンランド人の生き方は不器用だと思います。だけど、自分に誠実に生きている人たちだと思う。トーベも、ヤンソン家の人たちもみんなそうです」

ヤンソン家といえば、森下さんとペール・ウロフさんとの出会いも一風変わっている。森下さんがフィンランドに渡って数年のころ、町のとあるギャラリーに飾られた写真に惹きつけられた。その写真を撮ったのがほかならぬペール・ウロフさんだった。

別の日に再訪すると本人が在廊していたが、「たくさんの人がいたし、私はお近づきになりたいとも思っていなかったので、写真を見たら帰ろうと思っていたんです」。いちばんお気に入りの写真(島から風が吹いてくるような写真だった)の前に立っていると、突然ペール・ウロフさん本人から声をかけられた。「この島はね、トーベが住んでいたクルーブ・ハルだよ。海の氷が溶けたら、一緒に行きましょう」と。「それで、翌年の夏、本当にその島に招待されるんです」

トーベが夏を過ごした島、クルーブ・ハル 撮影/講談社

ペール・ウロフさんとボートに乗り、島ではラルスさんと2人のお孫さんが待っていて、夏の数日をともに過ごした。

「あとになってペール・ウロフさんがおっしゃったことによると、私が写真に引き込まれていくのがわかったんですって。『この子はこの島につれていってあげなきゃと思った』と言ってくださいました。でもね、どこの馬の骨ともわからない女の子に一緒に行きましょうと言って、本当に連れていくなんて、ふつうは考えられないですよね。ペール・ウロフの義理の息子さん(娘さんの夫)にあるときそう言ったら、『それがヤンソン家なんだよ』って」

考えてみれば、ムーミンも、自分と違う生き物とどんどん出会っていくお話だ。「そうですよね。だから、トーベのことを知ると、ムーミンがより面白くなるんです」

■「トーベの生き方に背中を押される」

巡回中の展覧会「トーベ・ヤンソン展 ムーミンと生きる」は、フィンランド国立アテネウム美術館で開催された回顧展を日本向けに再構成したもので、ムーミン原画だけでなく、油彩、壁画、舞台美術などを網羅しており、本書と合わせて、トーベ・ヤンソンをもっと知ることができる。

「抽象表現主義が出てくると、抽象しなきゃとばかりに抽象的な作品を描くのですが、やはりストーリーテラーとしての資質が絵にも出てきてしまうんですね。抽象になりきれない。アテネウムの展示を手がけたキュレーターもそうおっしゃっていました。でもね、それでいいじゃないと私は思うんです。だって、ただフィヨルドを旅した話をするだけで、聞いている人すべてを引き込んでしまうほどの才能があるのですから」

71年の来日時に、ムーミン・シリーズの日本での版元である講談社を訪問したときの写真。前列中央がトーベ、その右がトゥーリッキ・ピエティラ。©Moomin Characters TM /撮影・講談社写真部

画家と作家という二つの自我のあいだでの葛藤、有名になりすぎたムーミンへのアンビバレントな感情など、まだまだ知られざるトーベが本書には書かれている。なにより、献辞が捧げられているトゥーリッキ・ピエティラのことは、トーベを知る上で欠かせない。「トゥーティッキ(おしゃまさん)」のモデルでもあるトゥーリッキは、トーベの長年の伴侶だった女性だ。2014年11月、フィンランドでは同性間の結婚が可能になる法律が可決されたが、トーベは同性愛が法で認められていなかったころから、同性のパートナーがいることを隠さなかった。

「誠実に、まっすぐに自分の道を進んでいった人だと思います。強いけれど、でも迷いがなかったわけではなく、むしろとても繊細な人。『希望』という言葉で自分を励まし、自分をなんとか守りながら、描いていた。それが晩年になるとどんどん余計なものがそげ落ちていって、自由になる。トーベの生き方に、私はいつも背中を押されるような気がしています。

『ムーミン谷の冬』に『たしかなものなどなにもない』という言葉が出てきますが、トーベの世界では、それはポジティブに響きます。自由になりなさい、孤独を愛しなさい。トーベは私たちにそう語りかけています。とくに、孤独や自由と向き合い始める年齢の若い人たちに、彼女の生き方を知ってもらえたらうれしいですね」

『トーベ・ヤンソン ー仕事、愛、ムーミンー』

森下圭子(もりした・けいこ)さん略歴

1969年生まれ。日本大学藝術学部卒業後、ヘルシンキ大学にて舞台芸術とフィンランドの戦後芸術を学ぶ。現地での通訳や取材コーディネート、翻訳などに携わりながら、ムーミンとトーベ・ヤンソンの研究を続けている。ヘルシンキ在住。

[ライター 長瀬千雅/@chicanagase

【関連記事】
ハフィントンポスト日本版はFacebook ページでも情報発信しています

関連記事

ムーミンの生みの親トーベ・ヤンソン生誕100年