【戦後70年】密林でトカゲやセミを食べる日々――太平洋戦争・激戦地を転々とした、ある兵士の回想

ある日本兵の手記は、その前線の悲惨さを生々しく伝えてくれる。

トカゲやセミを食べ、ジャングルを生き延びる日々――。太平洋戦争中、激戦地を転々とした陸軍日本兵の手記は、その前線の悲惨さを生々しく伝えてくれる。

この手記を書いた水上憲寿さん(故人)は、明治43年(1910年)、山梨県生まれ。山梨師範学校に通い、教師を目指していたが中退して入隊。満州を経てガダルカナル島など南方の激戦地を転々とした。終戦後はマラリアで苦しみながら山梨に戻ってからは英村(はなぶさむら)の役場に勤務。晩年は消防署の副所長も務め、1995年に84歳で亡くなった。

遺族の許可を得て、南方のジャングルでの苦しい生活を綴った手記の全文を公開する。

生前の水上さん。戦時中の写真は残っていないのだという。「戦争のことを思い出すのがつらいから、処分したのかもしれません」。遺族は言う

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■孤立無援のジャングルでの苦闘

私は昭和六年一月、野戦重砲兵(やせんじゅうほうへい)第四連帯に入隊、十四年五月ノモンハン事件に参加のため満州に渡り、ハルピン市に駐留。

さらに東満ムーリン付近の警備に任じ、その后西部国境ハイラルを経てノモンハン「ホロンバイル」付近の戦闘に参加したが、九月十五日停戦協定となり翌十六日には将軍廟付近に於て全軍の戦没者に対する慰霊祭が執行された。

ノモンハン事件終了后は牡丹江(ぼたんこう)付近に駐留し、その付近の警備に任じていた。

処(ところ)が十七年九月に再び南方戦線に転戦の動員下令があり、南太平洋ソロモン群島 ガダルカナル島、ブーゲンビル島、ショートランド島、ニューブリテン島、ラバウル、ココボ等の戦闘に参戦したが、これ等の戦闘により数知れぬ戦死者やマラリヤ、栄養失調等による戦病死者を出し、その悲惨過酷さは何とも言ひ現せぬものであった。

十九年五月頃には米、みそ、しょうゆは全くなくなり主食は甘藷(かんしょ)、芋の葉、椰子の実、バナナ等のみで調味品は海水を熱して採取した塩、煙草は一月頃よりなくなりパパイヤの葉等を乾燥し紙に巻いて吸ったりした。又、油は椰子の実の中のコプラを絞って作ったものを使用した。

南方ソロモンに於て糧秣(りょうまつ)が絶え、私達はトカゲ、セミ、ムカデ、クモ、コホロギ等何でも食べるようになった。又、大きいものではワニやナマケモノ等を食べた。

考へて見るとこの様なものを栄養食だ栄養食だといって食べていたお陰で多くの兵隊達が生き残った様に思う。

ソロモン群島のガダルカナル島やブーゲンビル島で特に気をつけなければならないことは、湿地帯及び海に注ぐ河口に棲息している「ワニ」である。

河のほとりで洗濯をしていた兵隊が河の中から「ワニ」に尻を食いつかれ尻の肉を食いとられたり、又湿地帯で浮草の実を食用に採りに行ったものが「ワニ」に水の底に引き込まれて行方不明になった者もあったと話に聞いた。

その他に食べた動物としてはネズミや黒豚等もある。ナマケモノはジャングルの大きな樹の枝にぶら下がって居り、その肉は一寸臭みがあるがおいしく食べた。

ネズミの肉はとてもうまい。ジャングルの中の幕舎の周囲を巾(はば)五十センチ深さ一メートル位掘っておくと、夜幕舎の中に入ろうとするネズミはその壕(ごう)の中に飛び込むと外に出られず兵隊のエサになってしまう。

気候はソロモン群島の各島々によってその差はあるが一般に四季の別なく常夏の地である。周囲が海に囲まれている関係で非常に湿度が高い。各島の殆どが深いジャングルで樹木にいたっては二十メートル、三十メートル、乃至(ないし)四十メートル位の大木が非常に多く一年中青々と繁っており昼尚暗い。

このジャングル内には多くの蚊が棲息しており夜昼となく刺される。特に蚊の一種に「ハマダラ蚊」というのがいてこれに刺されると必ずマラリヤ病に犯され、四十度前后の熱が三日も四日も続く。

「キニーネ」、又は「アテプリン」等の薬で一應(いちおう)は全快しても常時蚊に刺されているので又すぐ発熱しこれを繰り返す。そしてだんだんと体がおとろへてゆく。といって寝てばかりは出来ない。毎日の空襲と地上からの敵に注意しなければならない。

雨は内地と違って終日降ることはなく一日のうち一時間位の豪雨が数回ある。即ちスコールである。このように四季の別なく一年中常夏のため甘藷は四ヶ月で一回収穫できる。従って一年に三回収穫することができた。

私達は南海の孤島で内地からの補給が絶えてから、二年も三年も暗いジャングル内で蚊や百足(むかで)、サソリ等に悩まされながら自らジャングルを伐採開墾して甘藷を作り、芋やその葉を食べて自給自足し、絶対的に制空権のある敵機の襲撃に耐えながら戦闘を続けて来た。

処が絶命の果て最后の決戦をして玉砕するのだと覚悟した時、偶々(たまたま)終戦となったのである。

斯(か)くして昭和二十年八月終戦となり、全軍がブーゲンビル島の南にある小さい島のファウル島に集結し、私達将校は更にその南方の小さいタウノ島と云う島に集結して内地に帰還する日を待ったのである。

ただ帰る日がいつになるかわからないので敵軍でくれる食糧では少なくて足りないのでジャングルを開墾してサツマ芋を作り始めた。

その時の私達は栄養失調とマラリヤ病や脚気(かっけ)等のためやせおとろえていたので、ここまで頑張って生きてきたのだから内地の土を踏むまでは絶対に死ねないと心の中で思い体の保健につとめた。

翌年の昭和二十一年二月十二日に待ちに待った輸送船が入港した。島にいた兵隊達はみんな涙を流し手をあげて喜びあった。

十二日、部隊の生存者は全員がその船に乗り、十四日、出港し、二十四日、横須賀市の浦賀に上陸し、二十七日に復員並に召集解除になったのである。

想えば南方孤立無援の島で約四年間も優勢な敵に対峙し、悪疫と戦い、幾多の戦友を失いながら、よくぞ生きて帰還できたものと思う時、誠に感激に堪えない。

最后に、私はこのように青春時代を戦争戦争に明け暮れ、それはそれは過酷な時代を生き抜いてきたが、今后(こんご)あの様な戦争が再び起こらないよう切望すると共に、この悲惨な事実を私達の子孫に伝えようと思う。

【元陸軍中尉 水上憲寿】

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水上さんの孫の柳田由香さんは、故人について、こう振り返った。

「いつも笑ってる優しい人で、80歳になってもジーパンを履くおしゃれなおじいちゃんでした。だからよけいに手記の存在には驚きました。生きている時はいっさい戦争の話をしなかったので……」。

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