【山口組が分裂】巨大化・武装化の転機となった「山一抗争」って?

>山口組の組織が巨大化、武装化していったのは、1985年から2年にわたる旧一和会との抗争、いわゆる「山一抗争」が転機となった。

日本最大の暴力団・山口組に分裂の動きが明らかになった。

44都道府県に計約1万300人、準構成員らを含めると約2万3400人。全国の暴力団関係者の43.7%を占めるといわれる山口組。組織が巨大化、武装化していった転機は、1985年から2年にわたる旧一和会との抗争、いわゆる「山一抗争」だった。

「山一抗争」の発端は、1946年に就任し、組織を全国に拡大していった田岡一雄・3代目組長が1981年に死亡したことが始まりだ。

1984年6月、山口組は竹中正久組長を後継の4代目組長と正式に決めた。しかし、これを不満とする勢力が決定を拒否して分離し「一和会」を名乗った。

射殺された竹中組長は去年6月、田岡フミ子未亡人の支持をバックに、多数派工作を成功させ、自派幹部だけが出席した定例会でトップの地位に就いた。

これに反発した山本会長ら古参幹部らが作った一和会は結成当時、6000人。山口組の4700人を上回っていた。同会の幹部は故田岡組長から盃(さかずき)をもらった兄弟同士の関係に当たるため、組織は山口組のようなピラミッド型ではなく、横並びのゆるやかな連合体。(「山口組と一和会、組織防衛へ抗争激化か 長期化必至と警察は厳戒」朝日新聞1985年2月26日付朝刊)

1985年1月26日午後9時15分ごろ、大阪・江坂のマンション入り口付近で、竹中組長ら山口組の最高幹部3人が、一和会の組員に拳銃で撃たれた。竹中組長は翌日に死亡、抗争は全国に飛び火したが、各地で銃撃戦が起きたり、民家に銃弾が撃ち込まれたりするなど、一般市民が危険な目に遭う事件が相次いだ。

暴力団山口組の竹中正久組長射殺事件で、厳重な警戒の中、容疑者を立ち会わせて行われた事件現場マンションの実況見分(大阪・吹田市) 撮影日:1985年02月14日(C)時事通信社

暴力団山口組の竹中正久組長射殺事件で、対立する一和会本部の家宅捜索に入る捜査員ら(兵庫・神戸市中央区) 撮影日:1985年01月27日(C)時事通信社

1987年2月に双方が終結宣言を出すまで、抗争は2年あまりに及び、双方で25人が死亡したほか、一般市民や警察官なども含めて約70人の負傷者を出した。山口組の激しい切り崩しにあった一和会は1989年3月19日、解散を表明する。一方の山口組は全国の暴力団を次々と傘下に収め、組織を急拡大させ、84年の分裂時に約4700人だった構成員は、一和会解散時点で約2万1000人と4倍以上にふくれあがった。

「山口組は、いわば百貨店だ」と大阪府警捜査4課の幹部は言う。山口組の資金源の多様性をたとえてのことだ。電話ボックスへのビラ張りや飲食店のおしぼりから、とばく、会社整理、債権取り立て、不動産売買、金融……。しかも、地上げや株など、時代に乗った「商売」に機敏だ。山口組有力幹部の何人かは、環境機器メーカー「タクマ」の株買い占めで倒産した不動産会社「コスモポリタン」(池田保次会長)のスポンサーにもなっていた。(「暴力団も『寄らば大樹』 山口組の膨張やまず」朝日新聞1989年1月29日付朝刊)

抗争のさなか、山口組幹部がハワイからロケット砲や大量の拳銃などを密輸しようとしていた罪で起訴された(陪審員が無罪評決)。抗争は、全国の暴力団員の拳銃武装を一気に進める結果にもなった。

暴力団の武装化が進んでいる。5年前、「組員10人に銃1丁」とされていたのが、今では「組員1人に銃1丁時代」(大阪府警)に。準構成員など組織の末端にまで行き渡った銃器類が、抗争に拍車をかける。6日間に17件続いた今回の抗争事件でも、16件までは銃が発砲された。山口組と一和会との間で死者25人を出した「山一抗争」(昭和60-62年)を機に、暴力団の重武装化が一気に進んだ、と捜査当局はみる。

(中略)警察庁の調べによると、全国の暴力団から押収した短銃は、56年に初めて1000丁を超えた。60年から平成元年までの5年間では7116丁にのぼる。ここ2、3年は自動小銃や手りゅう弾などの爆発物の押収も目立ち始めた。しかし、実際にはその数十倍の量の銃器が出回っているとみられ、摘発は後手に回っている。(「武装進んで戦争 組員1人に銃1丁」朝日新聞=大阪本社版=1990年7月4日付夕刊)

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