韓国軍のベトナム戦争虐殺、被害者を慰霊する銅像を建立へ 作ったのは「慰安婦像」の夫妻

民族主義と国家主義は、戦争の経験を選択的に記憶する。自国が行った民間人虐殺はないことにされ、国(政府)の利益に合致するときだけ慰安婦にスポットライトが当たる。しかし、結末はいつも、被害を受けた当事者の生き方に接することはない。

ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺を謝罪し、被害者を慰霊する像が、ベトナムと韓国に設置される。正式名称「ベトナム・ピエタ」は、2011年、ソウル中心部の駐韓日本大使館の向かいに建つ慰安婦像(「平和の少女像」)をつくった彫刻家のキム・ソギョン(51)、キム・ウンソン(52)夫妻が構想した。「ベトナム・ピエタ」は平和教育と市民募金を経て、2016年中にベトナムで民間人虐殺があった地域と韓国内に設置される予定だ。

ベトナム戦争の歴史的な責任を追求する団体「韓国・ベトナム平和財団建立推進委員会」の関係者は1月15日、「今年、ベトナム中部のいくつかの村で、虐殺50年の慰霊祭が行われている」として「この行事に合わせて、謝罪と慰霊のために『ベトナム・ピエタ』を贈ろうと、各村やベトナム政府と接触している」と明らかにした。

韓国軍のフォンニィ・フォンニャットの虐殺。(韓国版の写真。閲覧注意)

1月12日にキム・ソギョン、キム・ウンソンの両氏が公開した「ベトナム・ピエタ」は、大地の女神の上で、虐殺された赤ん坊を抱く母の姿を表している。2人は「ベトナムを訪問したら、虐殺された数多くの無名の赤ん坊が、とげとなって目に刺さってきた」と話し、「謝罪と反省の意味を込めて、理由も分からず殺されたこの人たちを記録し、慰霊したかった」と語った。

「ベトナム・ピエタ」は縦横70㎝、高さ150㎝、重さ150㎏の青銅で製作される予定だ。重さ450㎏の花崗岩が「ベトナム・ピエタ」を支える。

キム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻は1月12日、韓国紙「ハンギョレ」とのインタビューで「韓国政府は、旧日本軍慰安婦の問題について、日本政府に正確に謝罪を要求し、謝罪を受けなければならない。また、ベトナム戦争の民間人虐殺にも正確に謝罪しなければならない。今の政府は、両方とも本来の役割を果たしていない」と述べた。

キム・ソギョン氏は、元慰安婦らが提案して設立された「蝶募金」事業の一環として、2015年にベトナムを訪問し、韓国軍による強姦など女性の性暴力の事例を共同で調査した。元慰安婦の支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)と「韓国・ベトナム平和財団建設推進委員会」は、元慰安婦の基金などでベトナムでの民間人虐殺問題を調査・研究している。

■慰安婦の「少女」を超え、ベトナムの母と無名の赤ん坊に

「平和の少女像」は、世界を動かした。2011年12月14日、少女像が建てられたことで、ソウル中心部の光化門にある駐韓日本大使館の前は、新しい力を持つ空間として再現された。運動は強力な武器を得た。磁石のように目に見えない力で人々を集めた。

慰安婦問題についての交渉で、日本政府がずっと少女像の撤去を要求したことも、わずか4年でこの小さなシンボルが培ってきた力を示している。アメリカ・カリフォルニア州グレンデール市では、右翼的な在米日本人が少女像の撤去を求める訴訟を起こし、世界的な関心事に浮上した。少女像は世界に広がっている。他の作家も、同様の趣旨の少女像、碑を作っている。

1月13日、ソウル近郊の京畿道高陽市のスタジオで、キム・ソギョン(51)、キム・ウンソン(52)の両彫刻家に会った。世界で最も力強い部分を作った夫妻だ。2人は1984年に韓国・中央大学彫塑学科に入学した同級生で、「芸術的同志」として生きてきた。

全羅北道井邑の「東学農民無名烈士塔」、2002年にアメリカ軍の装甲車に轢かれ死亡した2人の少女を追悼する造形物「少女の夢」など、歴史と社会を見つめる作品を生み出し続けた。平和の少女像は、今まで6種類を制作し、作品は韓国内27カ所、国外3カ所に設置された。

この日キム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻はもう一つの作品を持ち出した。大地の女神の上で赤ん坊を抱える母親。ベトナムでの韓国軍の民間人虐殺を謝罪し、名もなき赤ん坊を慰める「ベトナム・ピエタ」だった。まず、最近話題になった少女像について尋ねた。

1月12日、京畿道高陽市のスタジオでキム・ウンソン(左)、キム・ソギョン(右)夫妻が、これまで制作した「平和の少女像」6種類と一緒に座っている。後列左の慶尚南道・南海に建てられた少女像は、貝を掘っていたら日本軍に連行され、日本軍の慰安婦にされたパク・スクさんを形象化した。その隣の慶尚南道・巨済に設置された少女像は、椅子から立ち上がり、手の上に鳥を抱いている。元慰安婦であることを最初に公表した金学順さんの像が中央にあり、その右上は、高校生と一緒に製作した平和の少女像、その下は、ソウル日本大使館の前に設置された平和の少女像、そしてソウルの梨花女子大に設置された少女像。
1月12日、京畿道高陽市のスタジオでキム・ウンソン(左)、キム・ソギョン(右)夫妻が、これまで制作した「平和の少女像」6種類と一緒に座っている。後列左の慶尚南道・南海に建てられた少女像は、貝を掘っていたら日本軍に連行され、日本軍の慰安婦にされたパク・スクさんを形象化した。その隣の慶尚南道・巨済に設置された少女像は、椅子から立ち上がり、手の上に鳥を抱いている。元慰安婦であることを最初に公表した金学順さんの像が中央にあり、その右上は、高校生と一緒に製作した平和の少女像、その下は、ソウル日本大使館の前に設置された平和の少女像、そしてソウルの梨花女子大に設置された少女像。

■世界で最も力強い作品

――韓国と日本政府は12月28日、「少女像の問題が適切に解決されるように努力する」と合意しました。この言葉をどのように受け止めますか。

2人 (ため息)

キム・ソギョン 被害者が排除された合意は、合意ではない。今になっておばあさんたちを説得するのは醜い姿です。少女像が交渉のテーブルに上がったこと自体がおかしいことでした。少女像は慰安婦が受けた苦痛と傷を癒やし、20年以上続けてき日本大使館前での水曜デモと、その話を象徴するものですよ。また、国民の募金で3700万ウォンを集めて作りました。制作に私たちの手は借りましたが、私たちのものではありません。

――状況によっては、韓国政府から撤去の要請が来ると思いますか?

キム・ウンソン 2011年の制作中にも、日本が中断を求めてきました。だからデザインを変えたりしたんです。

キム・ソギョン もともと、少女は手を重ねていた。日本が抗議するというニュースを聞いて拳を握る姿に変えました。もっと積極的な意志を表明しようと。

――水曜デモ1000回目となった2011年12月14日の早朝に設置されました。

キム・ウンソン 当日の早朝、トラックに少女像を載せて、日本大使館の前に到着しましたが、膨大な人々がいたんです。みんな日本の記者たちでした。道路を掘り起こして指を1回動かしただけでカシャカシャ、カシャカシャ…。

キム・ソギョン 展覧会の時も、ここまでスポットライトを浴びたことはありませんでした(笑)。

実際、日本と、日本が残した植民地主義との戦いは、建てては取り壊し、空間を再配置する戦いだった。光化門は、最も激しい空間政治の戦場だった。1926年、日本は光化門を移転させ、景福宮の前に不似合いなネオルネッサンス様式の朝鮮総督府(旧中央庁舎)を建てた。景福宮の東側にある昌慶宮には動物園を作り、王室の権威を失墜させた。

1988年9月16日、ソウルオリンピックを翌日に控え、ソウル中心部の光化門前を走る聖火ランナー。光化門の後ろに建つのは、旧朝鮮総督府庁舎だった国立中央博物館(1995年撤去)
1988年9月16日、ソウルオリンピックを翌日に控え、ソウル中心部の光化門前を走る聖火ランナー。光化門の後ろに建つのは、旧朝鮮総督府庁舎だった国立中央博物館(1995年撤去)

1995年、当時の金泳三政権は、光復50周年を迎え、朝鮮総督府の建物を取り壊す政治的イベントとして、植民地主義の清算を狙った。朴正煕・元大統領は1968年、直筆の額を飾って光化門を復元し、自分自身の代理として(豊臣秀吉の朝鮮出兵を迎え撃った)李舜臣将軍の銅像をその前に建てた。(当時は忠清南道・牙山の顕忠祠の聖域化作業が行われるなど、国家主義が強化された時期だった)そして、2015年12月、朴槿恵政権は少女像の撤去を暗示する内容の合意をした。

2011年12月14日の朝、少女像は、日本大使館の向かいの道路に建てられた。韓服を着た少女が椅子に座って日本大使館を見上げる。力強く決然とした顔、短い髪、しっかり握られた拳。小鳥が少女の肩に座っている。「亡くなった元慰安婦と、健在の元慰安婦を接続する霊媒」であり、成し遂げられていない「自由と平和の象徴」(キム・ソギョン)だ。隣にある空席の椅子は、この世を去った元慰安婦の席だ。

「韓国の元慰安婦に何の力もないからといって、当事者に一言もなく両政府が行き来して合意したというけど、どうしてそんなことができるんでしょうか? 私たちは絶対に反対です」

1月6日、日本大使館の前で開かれた1213回目の水曜デモ。椅子に座って発言する元慰安婦のキム・ポクトンさん(89)の声は、少女像のようにわずかの乱れもなかった。誰かがマフラーと耳当てを少女像にかけた。この日の水曜デモに少女像が集めた人は800人だった。

■かかとを上げた少女

――少女像は、世界で最も大きな力を持つ作品だと思います。慰安婦問題の運動も、少女像の前後に分けられるという人もいるほどです。

キム・ソギョン 予想もできなかったし、祈ってました。制作しながら元慰安婦の痛みを感じました。多くの人にあの場に立って欲しかった。おばあさんたちが亡くなっても、誰かが少女像の場所に立ってほしい…。おばあさんの痛みを余すとところなく感じようと思えば、女性の手にしなければと思いました。だから夫に「私がやる」と言いました。没入しました。おばあさんの感情に没頭しました。

――なぜ少女だったんですか?

キム・ウンソン 水曜デモを見て、何か手伝うことはないかと挺対協を訪ねました。記念碑のデザインを頼まれたんですが、私の方から彫刻にしようと言いました。おばあさんの像を最初にデザインしたんですが、キム・ソギョンが少女の像を持ってきて、どうかと尋ねた。少女にせざるをえませんでした。被害に遭ったのは、おばあさんではなく、少女だったわけだから。

――130㎝の彫刻で、最も重要と考えるのは?

キム・ソギョン 共感でした。痛みだけを表現すれば嫌悪感を覚えるし、だから痛いけど痛くないように、共感を引き出し、希望を作り出したかった。少女が堂々としっかりしている様子。元慰安婦の方々は、卑屈にならず堂々と要求してきましたから。表情を考えるのは容易ではありませんでした。痛み、悲しみ、怒りなど相反する感情を表現しようと何十回も変えて、この顔が出てきたのです。私の心の中にある像を引き出すのは簡単ではありませんでした。

ベトナム・ピエタ
ベトナム・ピエタ

一般的な認識とは異なり、少女像は、特定の女性をモデルにして作られたものではない。慰安婦について彫刻家夫婦が調べ、想像したものをが元になっている。韓服を着て断固とした表情の13〜15歳の少女が、様々な状況に応じてアレンジされるだけだ。例えば慶尚南道・巨済に平和の少女像が制作されたとき、韓国では(親日的と批判された)教学社の歴史教科書問題があった、少女は怒り、椅子から立ち上がった。

少女像についての議論のうち一つは、「少女」が「純潔主義」や「汚れなき肉体」のような、家父長制の二分法を超えられないイメージを表しているという視点だ。慰安婦問題と関連してフェミニズムの分野では「民族主義とジェンダーの矛盾」という学術的な議論があった。

2006年、ソウル西大門区の独立公園に、「慰安婦博物館」の建設計画が発表されると、いくつかの独立功労者団体が「日帝によって受難ばかり受けた民族という、歪曲された歴史認識を植えつける」「独立運動を貶める、殉国先烈への名誉毀損」と反発した事件。2004年に女優イ・スンヨンが、慰安婦を題材にしたヌード写真集を撮影して批判が殺到した問題などは、慰安婦問題が民族と女性の間ではらむ複雑な立ち位置を示す。

朴裕河(パク・ユハ)・世宗大教授(日本文学)は、2013年の著書『帝国の慰安婦』で「大使館前の少女像は協力と汚辱の記憶を、当事者も見物人も一緒に消去してしまった、民族の被害者としての像であるのみだ」とまで主張し、1月13日にソウル東部地裁は、この本で、日本軍と「同志的関係」と表現した部分などが、元慰安婦の名誉を傷つけたとの判決を下した。

――金学順さんが1991年に慰安婦問題を自ら公表するまで、元慰安婦は半世紀の間、社会の偏見の中で息を殺して生きなければなりませんでした。韓国政府と家父長制も一種の共犯ではないでしょうか?

キム・ウンソン 少女像を見ると、かかとを上げています。1945年の解放で祖国に帰ってきましたが、みんな息を殺して生きなければならなかった。それを表現したのです。1965年に日韓協定を結んだとき、韓国政府はこの問題を議論するどころか無視しました。李承晩政権以来、親日派が主流の社会で、元慰安婦は怖くて言うこともできなかったのです。盧武鉉政権が4・3事件について謝罪したように、政府が社会システムをつくらないと、元慰安婦の痛みが癒やされず、このようなこと(社会の偏見)もなくならないでしょう。しかし家父長制が共犯だと言ってしまうと…。

キム・ソギョン 刃をそっち(日本政府と韓国政府)に最初に突きつけないと。国民が生きられないと、家父長制も卑屈さもいろんな姿もない。政府がきちんと整理しなかったのです。

■あかちゃん、赤ちゃん、覚えておいて

2015年3月、「蝶基金」の支援でベトナムを訪問した挺対協調査団に、自分の性暴力被害を証言したベトナムの女性たち。
2015年3月、「蝶基金」の支援でベトナムを訪問した挺対協調査団に、自分の性暴力被害を証言したベトナムの女性たち。

1966年12月、ベトナム・クアンガイ省ビンホア村に砲弾の雨が降った。母の懐で生後6カ月の赤ちゃんが泣いていた。怪獣のような音が天を裂き、降り注ぐ閃光が母子の前で火花を散らした。母は最後の抵抗と、赤ちゃんを抱いて倒れた。のちに村の人々は、死体の山から泣き声を聞いた。唯一の生存者の名前は、ドアンウン。赤ちゃんは生きていた。

村の人々は、今でも赤ちゃんをあやす子守歌を歌う。「赤ちゃん、赤ちゃん、あなたは覚えておいて。韓国軍が私たちを撃ち殺し、爆弾の穴に死体がいっぱいだ。赤ちゃん、赤ちゃん、あなたは大きくなっても必ずこの言葉を覚えておいて…」

――2014年にベトナムに行ってドアンウンさんに会ったそうですね。

キム・ソギョン ギターを弾いていたけど、視覚障害者だそうです。母親の下敷きになっていたとき、火薬が目に入ったそうです。村の人々が乳を与えて、孤児になったドアンウンさんを育てたと聞きました。

――「ベトナム・ピエタ」は、その子がモデルですか?

キム・ソギョン そうではありません。平和の少女像のように、頭の中にあるイメージを引き出したのです。村に行くと「憎悪碑」があります。韓国軍がこうやって虐殺したとい書かれているんですが、年齢をみると大半が子供や高齢者でした。だけど碑文にはほとんど名前がありません。名もない子供たちだったのです。生まれたばかりで名前さえつけられなかった…。そのとき、これだと決心したんです。慰霊碑を作って寄贈しなければと。

2015年4月9日午後、「大韓民国枯れ葉剤戦友会」大邱広域市支部の会員たちが大邱の慶北大学の構内で集会を開く様子。チョン・チュングァン(73・左から2番目)枯れ葉剤戦友会大邱支部長は「どの国の戦争であれ、少数の民間人が被害に遭うのは仕方ない」と述べた。
2015年4月9日午後、「大韓民国枯れ葉剤戦友会」大邱広域市支部の会員たちが大邱の慶北大学の構内で集会を開く様子。チョン・チュングァン(73・左から2番目)枯れ葉剤戦友会大邱支部長は「どの国の戦争であれ、少数の民間人が被害に遭うのは仕方ない」と述べた。

ベトナム全域に、こうした「韓国軍憎悪碑」が50〜60個建っている。海を渡った韓国には、ベトナム参戦記念塔が戦争を記念している。ソウルの国立墓地、忠清南道・扶余、全羅北道・全州など数十あると推定される。両国のベトナム戦争の記憶はこうも異なる。

2014年に市民団体と一緒に、ベトナム戦争で韓国軍の民間人虐殺があった地域を見て回ったキム・ソギョン氏は、キム・ウンソン氏と再訪して象徴となる像の形を具体化していく。2015年は韓国軍がベトナムに戦闘部隊を派遣から50年になる年であり、ベトナム中部のいくつかの村では、2014年から韓国軍による民間人虐殺50年の慰霊祭が順番に開かれている。

キム・ソギョン、キム・ウンソンの両氏は、ベトナム戦争で韓国の歴史的責任を問う市民団体「韓国・ベトナム平和財団建立推進委員会」(韓ベ平和財団)と一緒に、単なる慰霊碑ではなく像を作り、2016年中に、ベトナムの民間人虐殺があった地域と韓国内に設置することにした。

――ベトナムの母子像で、最も重要と思うことは?

キム・ソギョン 死んだ赤子をどうやって癒やすことができるだろうかと悩みました。死んだ子供を慰める姿です。母親が子供を抱いているでしょう。そして死んだ魂を象徴して慰める蓮の花、雲とヤシの木と水牛…大地の女神から慰められて守られる様子です。

「ピエタ」は悲しみ、悲嘆を表す言葉だ。聖母マリアが、十字架に杭打たれて死んだ息子イエスを抱きしめて感じる悲しみだ。正式名称「ベトナム・ピエタ」は、そうして誕生した。ベトナム語のタイトルは「最後の子守歌」だ。小型版はすでに制作を終えた。2016年1月から縦横70㎝、高さ150㎝の像の制作が始まる。

平和財団は、この作品を設置するため、平和教育と市民募金を計画している。平和財団の関係者は1月11日、「村の人々に理解を求め、ベトナム政府からの許可を受けなければならない。ビンホア村などいくつかの場所を巡って協議しており、韓国内にも設置する予定だ」と語った。

韓国政府は、ベトナム戦争の民間人虐殺について直接謝罪したことはない。ただし、金大中大統領が2001年、ベトナムのチャン・ドゥック・ルオン国家主席との首脳会談で「不幸な戦争に参加し、不本意にもベトナム国民に苦痛を与えたことについて申し訳なく思い、慰霊の言葉を申し上げる」と述べた。

――ベトナムに計画通り設置できますか? ベトナム政府も民間人虐殺問題について積極的ではないようですが。

キム・ソギョン 外交的な部分があるからか、ベトナム政府が快く思わない部分があると思います。

キム・ウンソン 「過去の扉を閉め、未来の扉を開こう」と言って経済発展に焦点を合わせ、お互いに不快な問題は覆い隠そうということだろうけど、うまいやり方じゃない。私たちも、ベトナムに行ってお金を稼いで経済発展したと言うけど、もしそのお金で靴下を買ったりジュースを買って飲んだり、利益を少しでも得たなら、はっきりと反省しなければならないと思います。

――韓国政府は、日本の慰安婦問題については謝罪を要求するが、韓国軍のベトナム民間人虐殺問題の解決には積極的ではありません。いや、政府だけでなく、国民の大多数の態度が二重基準ではないですか? 2015年にベトナムの民間人虐殺の生存者が訪韓した際は、イベントの多くがキャンセルされました。

キム・ウンソン 韓国政府は終始一貫した態度を見せていないのですか? 国が政治をできずに植民地になり、慰安婦が連行され、今でも日本に正確に謝罪を求めて、謝罪を受けなければならない任務があります。また、他の国の戦争に参加して民間人を虐殺したなら、それも正確に謝罪するべきなのに、韓国政府は両方とも、役割を果たせずにいるのです。

■朴槿恵大統領の「一貫性」

朴槿恵大統領は2つの戦争について話した。金大中大統領の遺憾表明当時、国会議員だった朴槿恵氏は異例にも、個人で声明を出し、金大統領のベトナム参戦での遺憾な発言が「大韓民国の名誉を傷つけた」と主張した。

一方、第2次世界大戦で連行された慰安婦の問題について、10億円(約103億ウォン)を受けて、日本と不可逆的な合意をしたことに対して、2015年12月、「大局的見地から理解してほしい」と話した。その意味で、朴槿恵大統領も一貫性がある。

民族主義と国家主義は、戦争の経験を選択的に記憶する。自国が行った民間人虐殺はないことにされ、国(政府)の利益に合致するときだけ慰安婦にスポットライトが当たる。しかし、結末はいつも、被害を受けた当事者の生き方に接することはない。

日本と合意した直後の12月29日、イム・ソンナム外交部第1次官がソウル麻浦区にある挺対協のシェルターを訪問し、「慰安婦問題を解決する緊急性と、韓日関係の改善というレベルで、交渉が妥結された」として「(交渉内容を)事前に申し上げられなかったのは、連休期間中で、いろいろな案件が急に進展したためだった」と言ったことが、何よりも物語る。

――「ベトナム・ピエタ」は、国内でも設置されるそうですが、ベトナム帰還兵の団体が物理的な妨害をしたらどうしますか?

キム・ウンソン 壊されても建てなければならないでしょう。壊されるとしても、彼らが壊そうとするものが何なのか、示すことができるでしょう。

――平和の少女像と「ベトナム・ピエタ」には、共通して言わんとすることがあると思います。

キム・ソギョン 戦争のない平和。女性と子供が搾取されない平和な世界です。そのような世界は、正しい記憶と記録、率直な謝罪なしには訪れません。慰安婦の問題について、日本にきちんと要求するように、私たちもベトナムの民間人虐殺の被害者に対して、きちんと謝罪と賠償をしなければならないのです。

――ベトナムの民間人虐殺については快く思わない国民がまだいますが、「ベトナム・ピエタ」を発表すると、今のように誰からも歓迎される彫刻家ではなくなる可能性もありませんか?

キム・ウンソン 周りから「ベトナムには触れないで」と言われるけど、私たちは知ってしまったし、来てしまった。見て見ぬふりをするなら(彫刻を)なくさなければ、引き抜かなければ。

キム・ソギョン この渦中でベトナムの話をすると(慰安婦問題が)埋没してしまわないかと心配する方もいます。だけど私たちは流れるままに行こうと思います。きちんとその道を行こうと思います。いろいろ考えてみると、私達が行きたい道をつないだんですよ。

――感じるままに、手が行くままに?

キム・ソギョン はい。昨年、ベトナムで韓国軍に強姦された被害者たちにも何人か会いました。挺対協がインタビュー調査のためにベトナムの村を訪問したとき、私も一緒に行きましたよ。瞬く間に何人もの人に強姦され、夫がいながら強姦され…。被害者の方々は、外国人が村に来たので気配を伺って、周りの人を意識しながら、やっとのことで口を開いたのです。ベトナムのおばあさんたちがあんな気持ちで苦難の人生を送ってきた。胸に迫ってきました。

大半が社会参加作品と言うと、彫刻家夫婦は「私たちが興味を持っていることを日常的にはき出しただけ」と手を振った。旗を掲げた社会参加というより、日常で経験したこと、胸に大きく染み入ったことを手でひねり出しただけという。キム・ウンソン氏は「あるときは楽しく面白い作品を作るけど、こうやって悲しい気持ちになると、抜け出せない時がある」と述べた。平和の少女像も、「ベトナム・ピエタ」もそうして誕生した。

■深い心

ベトナム当時、韓国軍の民間人虐殺の生存者、グエン・チ・タンさん(後列左)とグエン・トン・ロンさん(後列右)が、ソウルの日本大使館前で開かれた韓国挺身隊問題対策協議会の「水曜集会」に参加し、日本軍の元慰安婦キム・ポクトンさん(左)とキル・ウォノクさんと一緒に立っている。
ベトナム当時、韓国軍の民間人虐殺の生存者、グエン・チ・タンさん(後列左)とグエン・トン・ロンさん(後列右)が、ソウルの日本大使館前で開かれた韓国挺身隊問題対策協議会の「水曜集会」に参加し、日本軍の元慰安婦キム・ポクトンさん(左)とキル・ウォノクさんと一緒に立っている。

実際、ベトナムの民間人虐殺と性暴力被害者の心強い味方は、元慰安婦だった。キル・ウォンオクさん、キム・ポクトンさんの提案で、挺対協は戦時性暴力の被害者を支援する「蝶基金」を設立した。蝶基金は、ベトナムで韓国軍の性暴力の被害に遭った女性の事例を調査・支援する。

故ムン・ミョングムさんは2000年、「ベトナム戦争真実委員会」に4300万ウォンを寄付し、平和博物館の建設推進委員会の母胎となった。当時、共同生活施設「ナヌムの家」に住んでいたムンさんは「ベトナムの民間人も私のような戦争被害者」として「謝罪の意味で、このお金が使われれば」と述べた。

元慰安婦の気持ちは大きなところから小さなところへ、国家ではなく個人の生活に向けられた。名ばかりの大きなものではなく、個々の小さな人生を抱きしめた。だから、彼らにとって日韓政府の合意は「10億円を山分けして、個人は韓日関係の未来のために犠牲となれ」というメッセージにしか聞こえない。

被害者の個々の事情や声を聞かなかったという点で、この合意は、ベトナムの名も知らぬ女性にまで伸びた元慰安婦の生きる態度と相反する。戦争の象徴と平和の象徴は今でも戦う。ベトナムの憎悪碑と韓国の参戦記念塔が対峙する。日本大使館前の少女は、くっきりと見つめている。ベトナム・ビンホアの母は子供を抱いて泣いている。

この記事はハフポスト韓国版に掲載されたものを翻訳、編集しました。

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