「重要なのは選択肢があること」『弟の夫』の漫画家・田亀源五郎さんは同性婚をどう考えるか

その半生と創作活動の原点、そしてゲイプライドや同性婚についての考えを聞いた。

漫画誌『月刊アクション』に連載中の「弟の夫」が好評の田亀源五郎さん。ゲイ・エロティック・アート界の巨匠が一般誌で初めて挑んだ作品は各方面からの注目を集めている。コミック以外でもアートの世界で、特に海外での評価が高い田亀さん。ゲイアートをめぐる状況、その半生と創作活動の原点、そしてゲイプライド(自己のセクシュアリティに誇りを持つこと)や同性婚についての考え方など、前編に続き田亀さんに話を聞いた。

■ゲイアートの巨匠が、一般誌で連載

――名刺の肩書きは“ゲイ・エロティック・アーティスト”となっています。だから漫画『弟の夫』を読んで、ゲイは“あの田亀先生が一般誌に!”と驚いたわけですが。

今、少し心配なのは『弟の夫』で私を知ったノンケ(異性愛者)の読者が、それ以外の作品を読んだらどう思うんだろうか、と。もうちょっとソフトな作品だけ集めたアンソロジーも作っておけばよかった(笑)。逆に、今までの単行本では、ほのぼのした作品が多いと1本くらいはハードな作品を入れておこうみたいなバランス感覚で組んでいたんですよね。

「弟の夫」1巻

弥一と夏菜、父娘二人暮らしの家に、「弟の夫」と名乗るカナダ人のマイクがやって来た。マイクは、弥一の双子の弟の結婚相手だった。「パパに双子の弟がいたの?」「男同士で結婚って出来るの?」幼い夏菜は、突然現れたカナダ人の“おじさん”に大興奮。弥一と夏菜、そして“弟の夫”マイクの物語が展開する。

■シェークスピア、ルノワール……田亀ワールドの意外な“原点”

――これまでのゲイ雑誌でもそうですが、田亀さんの作品は「死」を意識させるものが多いような気がします。『弟の夫』も冒頭がいきなり葬儀のシーンです。

とくに死にこだわりがあるというわけではないんですが。子どもの頃にシェークピア作品を分かりやすく要約した『シェークスピア物語』という本を愛読していたんです。それが原体験にあるのか、物語というのは最終的に登場人物が死ななきゃいけないみたいな刷り込みはあるのかもしれません。

それから、漫画は手塚治虫以外読んじゃいけないと親から言われて育ったんですが、手塚作品にも悲劇が多いんですよね。死が普通に出てくるような話に触れていましたから、悲劇に対して抵抗感がないということはあると思います。

――ゲイのアーティストにはどこか死を感じさせる作品を描く人が多いようにも思います。例えば、男絵師の三島剛さんや長谷川サダオさんなどもそうです。

※三島剛 70年代に『薔薇族』や『さぶ』などの同性愛雑誌で活躍したイラストレーター。いかにも日本人的な、筋肉質で無骨な男を描き当時のゲイたちに支持された。三島由紀夫とも交友があり、ペンネームはそれに由来する。

※長谷川サダオ 70年代後半から90年代にかけてゲイ雑誌などで活躍したイラストレーター、ゲイアーティスト。細密な表現と幻想的な画風を特徴とし、特に海外のアート界での評価が高い。

昔の人はそうかもしれませんね……。でも、まあ、人それぞれじゃないでしょうか。たとえば(フィンランドのアーティスト)トム・オブ・フィンランドは、現実のゲイが辛い状況であるからこそ、徹底的に明るいパラダイスのようなゲイの姿を描きたいと言っています。

私の場合はファンタジーと言っても、現実の問題を無視したくはないという思いはあります。差別の問題もエンターテインメントとして取り込めるものならそうしたいですね。悲喜こもごもみたいなものが好きです。ただ最近は年をとったせいか、ぬるーい幸せがずっと続くみたいなものも好きになってきたかな(笑)。

――他に何か、田亀さんの創作活動の原点のような体験はありましたか。

子どもの頃は、漫画は手塚治虫以外禁止でテレビも見ちゃダメという家庭だったんです。それでうちに世界の名画を集めた画集があって、そんなものを見てましたね。ルノワールを真似して描いたりしてました。

――ルノワールですか。

小さい頃は、はじめピアノを習ってたんですが、引越をしたら近くにピアノ教室がなくて、代わりに習い始めたのが油絵だったんです。ダ・ヴィンチとかミケランジェロは、いいなと思っても、どうやって描けばいいのかさっぱり判らない。印象派は真似しやすかったんです。

高校2年くらいまでは美大の油絵科に行くつもりでした。母親に「油絵なんかじゃ食べて行けないから、美大に行くのはいいけどせめてデザイン科にしなさい!」って言われて。それでデザイン科に行ったんです。父親には「おまえには情操教育をしすぎた」って言われましたが(笑)。

■高校の卒業記念に告白「隠してるから悩むんだ」

――その後、美大を卒業されて印刷会社に就職されました。会社員時代にすでにカミングアウトされていたのですか?

高校時代、同級生のことが好きでずっと悩んでいました。卒業記念に彼に告白したんですが、それ以来、以前のように悩むのは嫌だなという思いが強くなった。結局、隠しているから悩むんだなということに気づいて、じゃあ隠さなきゃいいんだ、と。最初からゲイだと言っておけばゲイが嫌いだという人は寄ってこないでしょうし。ですから、それからはオープンにしていました。

――当時は今のようにカミングアウトという言葉さえ一般的ではなかった時代だと思うのですが、抵抗はありませんでしたか。

私は鎌倉の出身ですが、それ以外にも川崎や埼玉などに親の都合で何度も引越してるんです。転校生っていうのはイジメられるんですよね。そういう時に自衛策として、「こいつらと俺は違う」っていうふうに人との間に線を引くってことを覚えたんです。

他人がどう思っても自分さえしっかりしてればいいみたいな考え方が根っこにあって、だからカミングアウトすることにも抵抗がなかった。

■ゲイアート、海外で活躍する日本人アーティストたち

――ゲイアートについて伺います。田亀さんもそうですが、長谷川サダオさんなど、日本だけでなく海外での評価が高いゲイのアーティストは多いですね。

日本と海外で状況が違うのはアーティストもキュレーターもコレクターも、アート界の大物がゲイであることをカミングアウトしていることです。さっき言ったトム・オブ・フィンランドの私家版の画集が出版された時には、ブルース・ウェーバーのような著名な写真家が序文を寄せた。“ここまでがゲイ文化で、ここからはアート”といったような線引きが明確ではない。

ただ、実際にはゲイアートとして売るのと、コンテンポラリーアートとして売るのでは値段の付き方が違ってくるということはあります。ゲイアートというと専門のギャラリーでしか取り上げられなくなる。

私の場合には、はじめにコンテンポラリーアートとして取り上げられたので、それが続いているという感じがあります。

――日本では、ゲイを描いたエロティックな作品がコンテンポラリーアートとしては、なかなか評価してもらえないのが現実ではないでしょうか。

サブカルとアートの中間的なところにエロティックアートが位置付けられている気がします。そういう意味ではアートとしての評価がないわけではない。ただ日本の場合、エロティックアートというのは猥褻物として問題になるという単純なリスクがあります。

――アートに対する馴染みのなさもあるでしょうか。

それは感じますね。アートを買うという習慣があまりない。海外で個展をやると、今度、新居を建てるからこれはベッドルーム用に買っていこうとか、インテリアとして購入する人が多い。

フランスのゲイ・アーティストの友人なんかは仲間内で集まってグループ展や企画展を盛んにやっていて、楽しそうでいいなあと思います。日本でもそういったグループ展がなくはないですが、海外ほどの活気は感じられないですね。

でも日本の場合、そういった活気は同人誌のほうに流れている気がします。ですから、私なんかはフランスに行くとあちらのアーティストが羨ましいなあと思いますが、逆にフランスで同人誌を作っているコミック好きのゲイの友人なんかは「日本はコミケがあっていいなあ」って言いますよ(笑)。

■パートナーシップ制度や同性婚について思うこと

――現在はパートナーの方と一緒に世田谷区にお住まいだそうですね。今後、同性パートナーシップ制度を利用しようと思ってらっしゃいますか?

始まったときに、記念になるから初日に行こうかと思ったんですが、海外での個展と重なってしまって行けなくて。それ以来、タイミングを見ているという感じです。初日じゃなければいつでもいいか、なんて思ってしまって……。

でも、アメリカの友人から、カリフォルニアで(2008年に)同性婚が出来るようになったから、2人が出会った記念日に籍を入れようと、その日がくるのを待っていたら、その半年後に同性婚を禁じる州憲法改正案が通ってしまったという人がいるという話を聞きました。

彼らは2015年、州憲法改正案が合衆国憲法に反すると認められるまで何年も籍を入れられなくなってしまった。何があるか分からないから、早くしたほうがいいのかな、とも思っています(笑)。

――以前から、パートナーシップ制度や同性婚について考えていたのですか。

実を言うとそうでもなくて、世界的に同性婚の話題が出てきた時に『弟の夫』を描き始めて、そのうちに世田谷区でもパートナーシップ証明書が出来るということになったので、パートナーと「もう20年も一緒に住んでるからどうかな?」って考えはじめたという感じです。

ただ、同性婚まで行くと、私は姓が変わるのが嫌だし、戸籍制度についても疑問がありますし、どうなのかなという思いもあります。そういった婚姻制度に対する微妙な部分も、『弟の夫』には少し反映されています。

――同性婚についてはLGBT内部でも様々な議論があります。同性婚によって結婚制度が強化されると言う人もいました。

それはどうなんでしょうか。結婚制度という大きなものが、いまさらLGBTが加わるくらいのことで強化されるとかそんなことはないと思います。それよりゲイでも結婚したい人は出来るということのほうが大切でしょう。

■ゲイ・カルチャーは失われる?

――ストレートと同じであると主張することで、クイアのように自分たちへの侮蔑を戦術的に逆手にとって肯定していくあり方や、ドラァグ・クイーンに代表されるようなあえて誇張した表現であったり悪趣味を嗜好するようなキャンプな感覚といった、ゲイならではとされた文化が失われるのではと考える人もいます。

※クイア(Queer):もともと「風変わりな」、「奇妙な」、「不思議な」という意味を持つ言葉で、英語圏でセクシャルマイノリティを指す差別語だったが、90年代以降、一部のLGBT当事者がこの言葉を肯定的に用い、非当事者との違いを一つのカルチャーとして主張する戦略をとるようになった。

※キャンプ(camp):大げさなものや、誇張されたものを愛好する感覚。女性的な特徴を誇張するドラァグ・クイーンもそのような表現の一つで、ゲイに特有の感覚ともされる

ヘテロ(異性愛)中心主義に迎合する必要があるのかというような議論もたしかにありますね。そういった議論には一概にこれが正しいと答えることはできないと思います。

同性婚がゲイライツなのかと問われたら「人によるでしょ」って思ってしまう(笑)。同性婚はヘテロ中心主義の産物で、結婚という制度自体が問題なのだと言われると、じゃあ結婚したいと思っている人の権利はどうなるの、と。結婚したいと思う人は出来て、したくない人はしない。そのことで不利にならないことが大切なんだと思います。

――そのことでゲイ・カルチャーが失われるのは杞憂でしょうか?

クイアやキャンプというようなカルチャーがなくなってしまうという危機感を訴える人はいますが、そういったものも文化的なトレンドの1つでしかないんじゃないかなと思います。逆にこれまでは、いかにもゲイゲイしいものやキャンプなものが主だった。

ところが、2011年に公開されたアンドリュー・ヘイ監督の『ウィークエンド』という映画は、ゲイのごく普通の日常を描いて評判になりました。これは革命的でした。新しい発明と言ってもいいかも知れない。

――たしかに、それまでのゲイ・ムービーはキャンプだったり、差別やHIVをテーマにしていたりというものばかりでしたね。

『ウィークエンド』の登場で、なんていうこともないゲイの日常を描いても面白いものが出来るという発見があった。これ以後、多くのゲイ映画がそれに影響されているように思えます。『追憶と、踊りながら』(2015年公開のイギリス映画)もそうでしたね。だから私は、一種のトレンドとして捉えています。

こういった一連の動きは、これまでのゲイ・カルチャーの中に新しいものが加わったということであって、それによってゲイ・カルチャーが失われるというのは過剰反応なのではないでしょうか。

――なるほど。

同性婚の問題でもそうですが、これまでなかったものが出てきたために注目が集まっているだけで、ヘテロノーマティビティ(異性愛規範性。異性愛と異性愛的規範が普遍的であり標準であると捉える価値観)といってこの潮流を批判するのは違う気がします。これまでなかった新しい可能性が加わったと考えたほうがいいんじゃないでしょうか。

私は何事であっても、みんなが自分がいいと思うこと、したいことを追求していって、他の人がやることには口を出さなければいいんじゃないのって考えなんです。

結婚したい人はすればいいし、したくない人はしなければいい。重要なのはそういう選択肢があるということではないでしょうか。

(聞き手・文:宇田川しい

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