北方領土問題とは、そもそも何? わかりやすく解説 【今さら聞けない】

第二次世界大戦が契機となって生じた「北方領土問題」だが、なぜ今日に至るまで解決できなかったのか。これまでの歴史的経緯を振り返る。
会談する安倍晋三首相(左)とロシアのプーチン大統領(ロシア・ソチ)2016年5月6日
会談する安倍晋三首相(左)とロシアのプーチン大統領(ロシア・ソチ)2016年5月6日
Kommersant Photo via Getty Images

安倍晋三首相とロシアのプーチン大統領は12月15〜16日、日露首脳会談に臨む。そこで注目されるのが、両国間で懸案となっている「北方領土問題」の行方だ。

安倍首相は5月、日露首脳会談の際に「今までの停滞を打破するべく、突破口を開く手応えを得ることができた」と発言。9月にウラジオストクでプーチン氏と会談した際も、「新しいアプローチに基づく交渉を具体的に進めていく道筋が見えてきた。その手応えを感じた」と発言するなど、交渉の進展を強調してきた。

しかしここへきて、交渉の行方は不透明さを増している。

安倍首相とプーチン大統領は11月19日、APECの開催地ペルー・リマで会談。プーチン氏の訪日前最後の首脳会談ということで、北方領土問題と平和条約の締結について詰めの議論が交わされたとみられる。だが会談後に安倍首相の口から出たのは、これまでのムードを覆すものだった。

「70年間できなかったわけで、そう簡単な話ではない」

「大きな一歩を進めることはそう簡単ではない」

安倍首相が語ったのは、北方領土問題への厳しい見通しだった。これまでの交渉進展ムードからは一転、明らかにトーンダウンしていた。

プーチン氏も11月20日の記者会見で「(北方四島は)国際的な文書によりロシアの主権があると承認された領土だ」と明言。厳しい姿勢を崩さず、日露間の歴史認識のズレが改めて如実になった。

加えてロシアは、北海道の道東全域を射程内におさめる最新鋭のミサイルを北方領土に配備。プーチン氏の訪日を前に、北方領土を自国領土として防衛力を強化する姿勢を鮮明にしているかのようにも見える。

結局「北方領土問題」はどうなるのか。日露首脳会談の前に、その歴史的経緯を振り返ってみる。

■そもそも「北方領土」ってどんなところ?

北方領土の周辺図

「北方領土」とは第二次世界大戦に絡み、ソ連(現在のロシア)が占領した歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)の4つの島(北方四島)を指す。

面積はおよそ5000k㎡で、千葉県や愛知県と同程度の面積だ。日ロ両国が自国の領土と主張し、現在ロシアが実効支配している。北方領土をめぐる日本とロシアの領有権の対立、これが「北方領土問題」だ。

北方領土・国後島

北方領土の東側は太平洋、西側はオホーツク海に面している。南からの暖かい日本海流(黒潮)と、北からの冷たい千島海流(親潮)の影響で、周辺海域は水産資源も豊富だ。また択捉島は、本土四島(北海道・本州・四国・九州)を除くと日本最大の島。火山島で、温泉が多いことでも知られる。

■日本とロシア、国境策定の経緯

戦前、日本とロシアは数度にわたって国境を決める条約を締結している。その主なものを地図と合わせて、簡単に振り返ってみよう。

(1)1855年 日魯通好条約(日露和親条約)

日魯通好条約(日露和親条約)に基づく国境線

およそ160年前の1855年2月、日本(江戸幕府)とロシア(ロシア帝国)の間で初めて国境を確定した日魯通好条約(日露和親条約)が結ばれた。両国の国境線は、択捉島と得撫島(ウルップ島)間に定められた。樺太島(サハリン)には国境を設けず、これまで通り両国民の「混住の地」にすると定められた。

日本政府は、この条約を根拠に「北方領土はこの時に日本領となった」とする立場をとっている。

(2)1875年 樺太千島交換条約

樺太千島交換条約に基づく国境線

明治維新後の1875年、日本はロシアと樺太千島交換条約を締結。日本は樺太島の領有権を放棄するかわり、千島列島をロシアから譲り受けた。この条約では、占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島までの18の島々の名を「千島列島」として列挙している。

この条約を根拠に、日本政府は現在に至るまで「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は、千島列島に含まない」としている。

(3)1905年 ポーツマス条約

ポーツマス条約に基づく国境線

1904年、日露両国は朝鮮半島と中国東北部の支配圏をめぐって日露戦争が勃発。これに勝利した日本は1905年、ポーツマス条約で南樺太を獲得した。

■「北方領土問題」の発生、きっかけは第二次世界大戦だった

1945年9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦ミズーリ号上での無条件降伏文書調印式に臨む日本側全権団

第二次世界大戦中の1941年4月、日本とソ連は「日ソ中立条約」を締結し、両国は互いに中立を保った。だが、広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。

背景には南樺太(南サハリン)・千島列島のソ連領有を決定したヤルタ秘密協定の存在がある。

8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾し、連合国に降伏。しかしソ連軍はその後も千島列島を南下し、9月5日までに「北方領土」を占領。ロシア側は「第二次世界大戦で北方領土は合法的に自国領になったと」主張し、現在に至る。

サンフランシスコ講和条約に基づく国境線

1951年、日本は連合国と「サンフランシスコ講和条約」を締結。この条約で日本は、戦前に領有していた台湾や朝鮮半島をはじめ南樺太・千島列島を放棄することが確定した。

サンフランシスコ講和条約に調印する日本全権の吉田茂首相

ここで問題となるのが、「千島列島」が何を指し、最終的にどこに帰属するかという点だ。

調印に先立つサンフランシスコ講和会議では、日本全権だった吉田茂首相が「歯舞、色丹が北海道の一部で、千島に属しない」と述べた。しかし、択捉島、国後島については「昔から日本領土だった」と言及するにとどまった

一方で、外務省の西村熊雄条約局長は1951年10月の衆議院特別委員会で「放棄した千島列島に南千島(国後島、択捉島)も含まれる」と答弁した

結局のところ、「千島列島」が何を指すのか日本側でもぶれてしまった。サンフランシスコ条約でも帰属は明記されなかった。また、東西冷戦の最中であったことから、西側諸国と対立していたソ連や中国はサンフランシスコ講和条約に参加せず、条約は「片面講和」になってしまった。

■日本とソ連(ロシア)はどんな交渉をしてきたのか?

ここからは、戦後に日本とロシアが北方領土をめぐってどのような交渉をしてきたのかを振り返ってみよう。

(1)1956年 日ソ共同宣言

日ソ共同宣言と通商航海議定書の調印式に臨む鳩山一郎首相(左)とソ連のブルガーニン首相

サンフランシスコ講和条約が「片面講和」となったことで、日本はソ連と個別の平和条約を結ぶため交渉を続けた。戦後日本が国際社会に復帰するために、国連安保理の常任理事国で拒否権を持つソ連との国交回復には重要な意味があった。また、敗戦でシベリアに抑留された日本人の帰還交渉も必要だった。

一方のソ連側も、当時の最高指導者だったフルシチョフ第1書記が「スターリン批判」や「平和共存路線」を提唱。資本主義陣営との関係修復を目指していた。

1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相はモスクワで「日ソ共同宣言」に署名。戦争状態の終結と国交回復がなされた。当初は「平和宣言」の締結を目指していたが交渉が折り合わず、結局は「共同宣言」という形をとった。

交渉が折り合わなかった理由は北方領土だった。ソ連側は歯舞群島、色丹島の「二島返還」を主張したが、日本側は「四島返還」での継続協議を要求。そのため両国間の溝は埋まらず、ひとまず「共同宣言」という形に落ちつき、「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明記された。

日本側が四島返還を主張した背景には、アメリカの圧力があったとも言われている。

当時、アメリカ(アイゼンハワー政権)のダレス国務長官は重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力(いわゆる「ダレスの恫喝」)をかけていたと伝えられる

さらにアメリカは日本の外務省に「覚書」を通達。その内容は、「択捉、国後両島は北海道の一部である歯舞群島および色丹とともに、常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、日本国の主権下にあるものとして認められなければならないとの結論に達した」というものだった。当時は東西冷戦の真っ只中、日ソ接近を警戒しての圧力だったと言われている。

(2)1960年〜70年代 日ソ交渉の停滞

来日したミコヤン・ソ連第1副首相(右)と会談する池田勇人首相、1964年5月15日

これ以降、日ソ間では平和条約の締結には至らず、引き続き北方領土問題が交渉の焦点となった。1960年、日米安保条約が改定延長されると、1961年にフルシチョフ第1書記は日ソ共同宣言の内容を後退させ、日本を牽制。「領土問題は解決済み」との声明を出した。

これに対し日本側は同年10月「南千島に関する外務省見解」を発表。歯舞、色丹のみならず南千島(国後、択捉)も日本固有の領土として、あくまで四島返還を求める姿勢を強めた。

同年11月、池田勇人首相はソ連首相への書簡で「択捉、国後両島については日本政府は何らの権利をも放棄したものではない」とし、日本政府の統一見解として「国後、択捉島及び色丹島、歯舞群島の一括返還がない限り条約の締結はできない」という立場を強調した

レーガン大統領(右)に紅葉の説明をする中曽根康弘首相(東京・日の出町の「日の出山荘」)、1983年11月11日

日本では1970年代になると、アメリカからの沖縄返還(1972年)の流れをうけて「南の次は北」という声が出ていた。ソ連側も、中国との関係悪化や日・米・中の接近を警戒し、日ソ間に歩み寄りの空気が生まれつつあった。

しかし、1979年からのソ連のアフガニスタン侵攻による東西冷戦の悪化、アメリカのレーガン大統領と中曽根康弘首相の接近(「ロン・ヤス関係」)により、日ソ間協議は停滞した。

(3)1980年代後半〜90年代 ゴルバチョフ書記長の登場、ソ連崩壊とロシア連邦の誕生

共同声明に署名するソ連のゴルバチョフ大統領(左)と海部俊樹首相、1991年4月18日

1980年代後半になると、ソ連では政治改革「ペレストロイカ」を提唱したゴルバチョフ書記長が登場。日ソ間でも領土問題交渉の再開機運が高まった。

ゴルバチョフ書記長は「解決済み」としていたソ連側の見解を転換。北方領土問題を「両国間の困難な問題」とし、領土問題の存在を事実上認めた。

これに呼応するように日本側も、領土問題の解決がない限り経済協力をしないという「政経不可分」の立場を軟化させた。91年4月にはソ連の元首として初めてゴルバチョフ書記長が来日。海部俊樹首相との6回にわたる首脳会談をおこなった。この時に調印された共同声明には、「歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ(中略)詳細かつ徹底的な話し合いを行った」と、日ソ両国の交渉で初めて北方四島が領土問題の対象であることが明記された。

「東京宣言」などに署名し、握手するロシアのエリツィン大統領(左)と細川護熙首相

1991年にソ連が崩壊すると、後継国家のロシア連邦ではエリツィン大統領が就任。民主主義や市場経済の導入を目指す新生ロシアにとって、民主主義国で経済大国の日本は、重要なパートナーだと考えられた。

1993年、エリツィン大統領が来日し、細川護煕首相とともに「東京宣言」に署名。この宣言では北方四島の問題を「法と正義の原則に基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し」と明記された。これにより、1956年の日ソ共同宣言で合意した「平和条約の交渉継続」そのものが、「北方四島の帰属の問題を解決すること」だと明確に定められた。

(4)1990年代後半 橋本首相とエリツィン大統領、「クラスノヤルスク合意」と「川奈提案」

会談前に握手する橋本龍太郎首相(右)とエリツィン・ロシア大統領(アメリカ・デンバー)、1997年

日ソ共同宣言40周年を迎えた1996年、日ロ間の交渉進展の機運がさらに高まった。この年、ロシアではエリツィン氏が大統領が再選。日本では橋本龍太郎政権が誕生した。

橋本首相は、領土問題以外でのロシアとの関係改善と協力を通じ、最終的に領土問題を解決に導く「重層的アプローチ」をとった。この「急がば回れ」の政策は北方四島周辺における日本船の安全操業協定などの成果につながった。

1997年、橋本首相は「ユーラシア外交」の名の下、「信頼」「相互利益」「長期的な視点」の対ロシア3原則を発表。さらに「勝者も敗者もない解決を目指す」と発言した。また、エリツィン大統領と個人的な信頼関係の構築にも努めた。

同年の6月、アメリカのデンバーで開かれたサミット(主要国首脳会議)で、橋本首相はエリツィン大統領との首脳会談を実現。サミット後の記者会見で橋本首相は、「多くの点で従来の雰囲気を超えるものであり(中略)日露関係の一つの壁を超えることができました」と、関係性の高さをアピールした。

首脳会談を前に笑顔で握手を交わす橋本龍太郎首相(右)とエリツィン大統領(ロシア・クラスノヤルスク郊外)

デンバーサミットから5カ月後の1997年11月、橋本首相とエリツィン大統領はロシアのクラスノヤルスクで非公式に会談。エリツィン大統領の提案で、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力をつくす」ことに合意した。この「クラスノヤルスク合意」で日本側では四島返還への期待が高まった。

翌98年4月、橋本首相は静岡県での川奈会談で、エリツィン大統領に新たな策を提案した。いわゆる「川奈提案」だ。

その内容は「択捉島とウルップ島との間に、両国の最終的な国境線を引く」「当分の間、四島の現状を全く変えないで今のまま継続することに同意する」「ロシアの施政を合法的なものと認める」というものだと伝えられる。歯舞と色丹の返還を即時返還を求めないという、四島返還を求める日本側にとって最大限の妥協案だった。ただ、エリツィン大統領は「まさに新しい興味深い提案だ」と興味を示したものの「検討の時間が必要だ」と即答しなかったと伝えられる。

その後ロシア側は川奈提案を、99年間かけてイギリスから香港を返還させた中国になぞらえて「香港方式」と批判。ロシア側は、日本の川奈提案を譲歩とは見なさなかった。

98年11月、橋本首相は参院選敗北の責任を取り辞任。エリツィン大統領も経済危機や自身の体調悪化で99年に辞任。こうしてソ連崩壊を契機におこった領土問題解決の機運も、ここへきて頓挫した。

(5)2000年代 プーチン大統領の登場

イルクーツク声明に署名後、文書を交換する森喜朗首相(左)とプーチン・ロシア大統領

2001年3月、森喜朗首相はエリツィン氏の後継者となったプーチン大統領とロシアのイルクーツクで会談し、北方領土問題を中心に話し合った。

この時に発表されたイルクーツク声明では、56年の日ソ共同宣言を「平和条約交渉締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」とし、その上で「東京宣言に基づき、択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題を解決することにより、平和条約を締結し、もって両国間の関係を完全に正常化するため、今後の交渉を促進する」とした。

この会談で日本側は、日ソ共同宣言で日本への引き渡しが約束されている「歯舞、色丹の返還交渉」と、東京宣言で帰属問題が争点となっている「国後、択捉の返還交渉」を並行して進める「同時並行協議方式」を提案した

これはまず、歯舞・色丹の二島返還を先行させ、「国後と択捉の帰属は交渉の結果による」とするものだ。だが、「国後、択捉を諦めることにつながるのではないか」という反対論が日本国内では強まり、森政権から小泉政権に変わる中で頓挫した

■2013年 安倍首相が日本の首相として10年ぶりにロシアを公式訪問

2010年にロシアのメドベージェフ大統領が国後島を公式訪問したことで、日露の関係は一気に冷え込んでいたが、2012年にプーチン氏が大統領の座に返り咲き、日本でも安倍首相が復帰。これをきっかけに、両国は関係改善に向けて動き出した。

2013年4月、安倍首相は、日本の首相としては10年ぶりにロシアを公式訪問。両首脳はモスクワで「日露パートナーシップの発展に関する共同声明」を発表。

この中では「戦後67年を経て両国間で平和条約が締結されていない状態は異常である」とし、北方領土問題については「これまでに採択されたすべての諸文書および諸合意に基づいて交渉を進め、双方に受け入れ可能な形で最終的に解決することにより、平和条約を締結するという決意を表明した」と、平和条約と領土問題の交渉再開への機運が高まった。

2013年4月、日露首脳会談(モスクワ)

しかし冒頭でも記した通り、2016年11月のリマでの首脳会談を経て、北方領土問題と平和条約の行方は、またも不透明なものとなっている。

11月3日には岸田文雄外相がロシアを訪問し、ラヴロフ外相と会談したが、ラヴロフ氏は「北方領土問題の解決よりも前に平和条約を締結すべきだ」との考えを示した。ロシア側としては、第二次世界大戦の結果に関する歴史認識が根幹にあるだけに慎重な姿勢を崩さない。また、2018年に大統領選が控えており、再選を目指すとみられるプーチン氏としても、高い支持率を得るために譲歩姿勢は見せづらいという背景もある。

12月の日露首脳会談で安倍首相とプーチン大統領が、戦後70年にわたって両国の間に刺さった「とげ」を抜き去るための道筋をつけられるか、その行方に注目が集まる。

■プレス向け声明(日露共同記者会見、2016年12月16日)

日露首脳会談後、外務省は以下のプレス向け声明を発表した。

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1 安倍晋三日本国総理大臣及びV.V.プーチン・ロシア連邦大統領は、2016年12月15日-16日に長門市及び東京で行われた交渉において、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島における日本とロシアによる共同経済活動に関する協議を開始することが、平和条約の締結に向けた重要な一歩になり得るということに関して、相互理解に達した。かかる協力は、両国間の関係の全般的な発展、信頼と協力の雰囲気の醸成、関係を質的に新たな水準に引き上げることに資するものである。

2 安倍晋三日本国総理大臣及びV.V.プーチン・ロシア連邦大統領は、関係省庁に、漁業、海面養殖、観光、医療、環境その他の分野を含み得る、上記1に言及された共同経済活動の条件、形態及び分野の調整の諸問題について協議を開始するよう指示する。

3 日露双方は、その協議において、経済的に意義のあるプロジェクトの形成に努める。調整された経済活動の分野に応じ、そのための国際約束の締結を含むその実施のための然るべき法的基盤の諸問題が検討される。

4 日露双方は、この声明及びこの声明に基づき達成される共同経済活動の調整に関するいかなる合意も、また共同経済活動の実施も、平和条約問題に関する日本国及びロシア連邦の立場を害するものではないことに立脚する。

5 両首脳は、上記の諸島における共同経済活動に関する交渉を進めることに合意し、また、平和条約問題を解決する自らの真摯な決意を表明した。

ロシア連邦大統領の日本国公式訪問の枠内で2016年12月15日-16日に行われた交渉において、両首脳は、両国の人的交流のための良好な条件の創設に賛意を表した。

特に、1986年7月2日付けの日ソ間の合意に基づいて実施されている、先祖の墓を訪問するための日本人の元住民の往来に関するテーマが触れられた。双方は、人道上の理由に立脚し、上記合意の実施の制度は、何よりも往来への日本人参加者が高齢であることを考慮した改善を必要としていることで合意した。

この関連で、両首脳は、両国外務省に対して、追加的な一時的通過点の設置及び現行の手続の更なる簡素化を含む、あり得べき案を迅速に検討するよう指示した。双方は、これに関するあらゆる問題について対話を継続することで合意した。

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参考文献:

岩下明裕『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』中公新書、2005年

浦野起央『日本の国境: 分析・資料・文献』三和書籍、2013年

東郷和彦『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』新潮文庫、2011年

外務省『われらの北方領土 2015年版

【UPDATE】2016/12/16 17:02 内容を更新しました。

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