【オーランド銃乱射】容疑者がゲイだったとして、私たちはどうすればいいのか?

カミングアウト、カミングアウト、カミングアウトだ。

アメリカ・フロリダ州のドクター・フィリップス劇場芸術センターで2016年6月13日、「パルス」ナイトクラブで起こった銃乱射事件の被害者に対する追悼中に抱擁する。

同性愛者向けのナイトクラブで49人の同性愛者を殺し——そのほとんどは有色人種だ——そして53人に負傷を負わせた男が、そのナイトクラブの長年の常連客で、ゲイセックスのアプリ上でその存在が認められていたことが分かったとしたらどうなるだろう?

現代アメリカ史上において最も恐ろしく痛ましい瞬間だったこの事件は、さらに恐ろしく痛ましいものになる恐れがある。

いきなり、簡単に(そんなに簡単ではないのだが)銃乱射事件の責任を同性愛者への嫌悪、過激主義、精神疾患そして不快なほど緩い銃規制など、さざまな要因をごちゃまぜにしてしてしまう。しかし私たちが今やらなければならないのは、この悲劇につきまとう、内面にあるホモフォビア(同性愛嫌悪)に対する、陰惨であまりにもありふれた懸念にも具体的に取り組まなければならない。

私たちは、銃乱射容疑者が同性愛者だったかどうかは分からない(しかし、一部のメディアは即座に、そして無責任に即座にこうした内容をセンセーショナルに取り上げ続けた)。そして私たちは、容疑者の心と頭の間に横たわっていた長く暗い廊下をいつも横切ってきた、どんな秘密も知ることはないだろう。しかし、悲しいことに、もし容疑者がゲイであっても驚くにはあたらない。

学術誌「Journal of Personality and Social Psychology」2012年4月号に掲載された研究によると、「同性に隠された欲望を持ちながら異性愛を報告した参加者も、同性愛者に対して、自己申告で反同性愛的な態度をとり、反同性愛政策を支持し、また同性愛者に対するさらに厳しい処罰を求めるなど、差別や敵意を示す可能性が高い」ことが分かった。

もっと簡単に言うと、人間の心理として、最も嫌う他人の特徴が、えてして自分自身の一番嫌いな特徴である場合が多い。そしてその嫌悪の気持ちは時に悲惨な結末へとつながる。こうした事実はそれほど新しくもないし、目立つものでもない。これは私たち人間の歴史について書いてある古文書の中でも、最も古い物語のひとつだ。ただ、単にこの事実を知るだけでも、6月12日に起きた虐殺について、果てのないように感じる(そしていつまでも苦しい)暗闇にいる私たち自身とカルチャーが立ち直る道を示してくれる。

こうなった今、私たちは何をするのか。憎悪と直面する中、どう結集するのか。他人から来てもらうべきなのか、私たちが行くべきなのか。容疑者の性自認がどうであったにしろ、私たちはこの機会に、今一度同性愛者が直面している危険と精神的な苦痛に注目し、団結し、今回限りで終わらせるべきだ。

カミングアウトできる人はみんな、そうすることを強くお勧めする。カミングアウトをした人、する人、それらの人々を愛している人々には手を差し伸べよう。

同性愛者嫌悪(心のうちに止めていようがいまいが)は、「同性愛者は恐怖、恥、そして秘密である」と教えている社会の産物だ。同時にカミングアウトすることで、これらの3つの魂を喰う鬼を退治することができる。「これが私なんです。だからなんですか。」と立ち上がるのが早ければ早いほど、より早く同性愛者であること(である人)について全体の理解を深めることができる。そして同性愛者に対する固定観念、特にその固定観念が一個人の性自認(秘密であろうが、気づいていなかろうが)に影響を受けている場合、カミングアウトですぐにそうした固定観念をなくすことができる。

この2016年に、これまで我々が苦労と犠牲を重ね、目を見張るような悲喜こもごもの勝利をしてきたにもかかわらず、あまりにも多くの人々が未だにクローゼットの中に立てこもりながら、思い切って飛び出したらどんなことになるだろうという恐怖におののいている。

そうした恐怖心には、真っ当で理解できるものもある――住む場所を失うこと、仕事を失うこと、そして文字通り命を失うこと。安全に出てくることができずにいる人たちよ、出てこないで。現状を打開できるまで、今のままでいてほしいーいつかそれができた時にはーその時我々の仲間入りをすればいい。こちら側で君たちを迎え入れるために待っている間も、我々は戦いを続けるから。

しかしそれ以外の人たちは、どんなに自分が不快に思うようなことがあっても、また自分が傷つきやすい状態にあっても、あるいは傷つくことを考えると苦しくなるとしても、自分の性的指向を公にできるのであれば、そうすべきだ。自分自身のために、またそれ以上に、世の中の人々の同性愛者たちに対する考えを塗りかえようと努力している我々のためにも。

これを書いている今でも、この記事に対してSNSに多くのコメントが書き込まることが予想される。大勢の人々が私の意見に異を唱え、他人の性的指向は「個人的なこと」であり、私がとやかく言うことではない、と訴えるだろう。おそらく最もショックを受けるだろうが、「性的指向を公表しようとしまいとどうでもよい」という意見もあるだろう。説明や謝罪をすることなく、ありのままの自分でいることが、我々の人格と能力について人々の認識を変えるためには最大の武器となることを、今まで何度も経験してきた。

そして、私がこれまで主張してきたように、性的指向は非公開にすべきではない。どんな異性愛者の人も、決して「私は自分がストレート(異性愛者)だと言うつもりはありません。なぜなら、それはプライベートなことですから」とは言わない。文字通り、そんなことは起こらないのだ。なぜだか分かるだろうか? それは、ストレートでいることは恥ずかしくないからだ。ストレートの人々が持って生まれた、他のどんな特徴——目の色、身長、目で見たものを正確に記憶できる能力——とも、まさに同じように、異性愛者であることは、自分たちのアイデンティティの中でもひとつの側面でしかないから。

性的指向が突然、プライベートなものと見なされたり、あるいは、人々が「私たちにはプライバシーを守る権利があります!」と言ったりする唯一の場面は、私たちがクィア・セクシャリティ(同性愛的指向)について話している時だ。なぜ私たちは、プライバシーにこれほど激しくこだわるのだろうか? それは、彼らが恥を感じているか、人々が自分を本当に知ったら何が起こるかを恐れているからだ。そして、それは私たちの社会の主張に端を発している。その主張とは、私たちのクィアネス(同性愛の資質)は非道徳的であり、不自然であり、邪悪なもの、というものだ。しかし、私たちはそうではない。そして、クローゼット(同性愛指向を隠している状態)を守ることによって——あなたの意図がどれほど善意によるものであっても——、あなたは嘘をつく人々全員と名を連ねている。それは良くない。それはもはや、良いことではない。

もう十分だ。

私たちの足跡を隠すのは、もう十分だ。お互いの足跡を隠すのは、もう十分だ。言い訳をして、私たちのクィアの先人たち——男性たち、女性たち、女性かつ男性である人たち——が断念したところから再開するのを諦めるのは、もう十分だ。先人たちは、私たちを、自分がただ誰であるかを恐れることから解放するために、その努力をしてくれた。私たちは、よくもこんなことができるものだ。彼らに背を向けている私たちは、自分たちがまさに何者だと思っているのだろうか?

難しいことはわかっている。これは全部、困難だ。アメリカで性的少数者として存在すること自体が、どんな日でも、どんな週でも、とても疲れることなのだ。2016年6月12日以降も、それは変わっていない。この数日間、私は果てしない吐き気を感じながら過ごしてきた。怒りと悲しみの間を絶え間なく揺れ動き、吐き気を覚えていたのだ。これまでの人生で泣いた回数よりも多く、同僚やテレビ画面や見知らぬ人の前で泣いた。

カミングアウトすることは難しいけれど、それでもカミングアウトしないといけない。毎日、毎日、しないといけない。痛みを感じてもだ。特に痛みを感じる時に、カミングアウトしないといけない。それが前に進む方法なのだ。これが、人々が本人の性的指向を問わず、性的少数派のあり方を脅威や病気として捉えないようにするためにする方法なのだ。

これは、自分自身の在り方であれ、他人のあり方であれ、当てはまる。亡くなった人々を称える方法でもある。今週、先週、去年、そして10年前、それよりもずっと前まで遡って、亡くなった方々を称える方法なのだ。皆の心が澄み渡り、不安を感じなくなって初めて、私たちはもう一度、始めることができるだろう。

ノア・マイケルソン(ハフポストUS版エディトリアル・ディレクター)

ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。

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