ロンドン金メダリスト、コーチの性的虐待を乗り越え「リオは被害者のために闘う」

初めてのオリンピックは、自分自身を取り戻すために出場した。今度のオリンピックは、他の性暴力サバイバーが自分を取り戻すために出場する。

初めてのオリンピックは、自分自身を取り戻すために出場した。今度のオリンピックは、他の性暴力サバイバー(性暴力被害を乗り越えようとする人たち)が自分を取り戻すために出場する。

2012年のロンドンオリンピックに出場した柔道女子78キロ級のケイラ・ハリソン(26)の目標はただ1つ、金メダルだった。今回、彼女はさらに多くのものを背負い、闘う。

ハリソンは目の前の裁判官を見上げ、「もはや自分が子供に戻る方法はありません」と証言した。

アメリカ・オハイオ州の法廷で母親と祖母の間に座っていた当時17歳のハリソンは、元柔道コーチのダニエル・ドイル(33)の方を見るのを拒んだ。

彼女は、ドイル元コーチについて、ゆっくりではあるがはっきりとした口調で証言した。柔道への情熱を、彼がどのように蝕んできたのかということを、何年もの間自分の人生を彼がどのように傷つけてきたかを、そして自暴自棄になるまでどのように追い詰められたのかを、彼女は詳細に述べた。

証言が終わった後、彼女はくるりと向きを変えた。その法廷を離れるだけでなく、オハイオ州と、これまで馴染んできた生活からも離れ、故郷やトレーニングジム、それに全幅の信頼を寄せてきたにもかかわらず何年間も彼女を性的に虐待してきたドイル被告にも別れを告げた。

ハリソンが目指したのはボストン。彼女は再スタートを切った。新しいコーチと共に居を定め、新たなトレーニングプログラムを開始した。このプログラムは、彼女の生きる気力と自意識、闘争心の回復にいずれ役立つように、注意深く組み立てられていた。

再起は順調に進んだ。ドイル被告は2007年11月に有罪を認めた。2008年の北京オリンピックでハリソンはトレーニングパートナーとなった。2012年までには、彼女はロンドンオリンピック柔道チームのスター選手になることを目指し、サポート的役割は控えるようになっていた。

ロンドンオリンピックでのハリソンの目標は明確だった。柔道でアメリカ史上初の金メダルを獲得すること。しかしスポーツ最大の舞台で競争し、最高の成績を収めることで、当時22歳の彼女は、長年の性的虐待から生まれた根強い自己不信を払拭することに成功していた。

4年後、2016年8月のリオデジャネイロオリンピック。彼女は自分のオリンピックタイトルを守るために労を惜しまず稽古に励んでいる間も、傑出した柔道家になること以上に、人生において果たすべき大きな役割があることを彼女は認識していた。それは、柔道家として自分の最も重要な部分は畳の上にあると考える以上に、1人の人間としてより個人的に達成感のある、社会的に有益な役割だ。

彼女は夏のオリンピックに戻ってくる。そして性暴力サバイバーの仲間たちが、発言することを望んでいる。自分が過去に受けた恐怖を話し、性的虐待への考え方、論じ方、扱い方を、変える力になることを望んでいる。

ハリソンは、6歳から柔道を始め、すぐに柔道の魅力にとりつかれた。生まれながらの才能があったのか、数年後にはドイルコーチのジムに通い始めた。1年もしないうちに、彼女はドイルと日々稽古するようになり、徐々に彼は、ハリソン家に取り入り始めた。誕生パーティーやバーベキューパーティーに顔を出すようになり、ハリソンや彼女の友人たちと一緒に自動車旅行をし、彼女の自宅で、彼女やきょうだいたちのベビーシッターを務めたりすることもあった。

しかしドイルは、ハリソンへの性的虐待も始めた。裁判記録によると、ハリソンが13歳、ドイルが29歳の頃から性的虐待が始まったとされている。実際はもっと早く始まっていた、とハリソンはハフポストUS版に語っている。恐らく10歳か11歳くらいの時であり、5〜6年は続いたという。

その当時、ドイルは彼女に「2人の秘密の関係をばらせば、2人とも困ることになる。そして両方に過失があり、共犯関係が成立している」と繰り返し言って洗脳していた。

「私が言う『洗脳』とは、文字通り洗脳を意味しているんです」と、彼女は述べた。「私の世界全体が、ゆっくりと着実にダニエルを中心に回っていきました。彼が気に入らない洋服は身に着けなくなりました。彼が許可しないことは、しないようになりました」

12歳になると、ハリソンはオリンピック選手になりたいと思っていた。ローティーンになるまでは、ハリソンの名前は世界的に知られるようになった。しかし成長するにつれて、ドイルが投じた影はますます広がり、ついには息苦しいものになった。恐怖がさらに彼女の心へと忍び込んでいくにつれ、柔道への愛情は徐々に失われていった。

ハリソンには、自分が虐待される状況から逃れる方法は一切なかった。ドイルが見ていてくれなければ、別のジムに行ったり、競技に出たりするのが「恐かった」と彼女は振り返る。そばに彼がいなければ、自分が柔道がうまくいかないように感じていた。

ハリソンが感じた自己批判、羞恥、不安、依存といった感情は、子供の性的虐待のによく見られる症状だった。しかし彼女に、そんなことを知る方法は一切なかった。

「長い長い間、私はとても落ち込んでいました」と、彼女は語った。「極端に自暴自棄になっていました。逃げ道がないように感じていました。この関係を終わらせるために、何かを言わなければならない。あるいは自殺するか、逃げるつもりでした」

16歳の時、彼女は性的虐待を友人に打ち明け、その友人が彼女の母親に話した。ここから事態は急展開した。当局が捜査し、この事件は法廷に持ち込まれた。ハリソンがもう一度、ドイルと対面しなければならない量刑審問につながった。

この時点までに、ハリソンは新しいコーチのジミー・ペドロと連絡を取っていた。彼女が入廷し、自分の人生を貶めた男について公の場で話すことになる前に、ペドロは彼女と電話で話した。

「その当時のことで覚えているのは、ほぼ無感情だったということ。何とか生きて戻ってきた状態でした。できれば証言したくなかった」と、彼女は振り返った。「ペドロコーチは柔道の試合に臨むかのように、私の証言を最初から最後まで予行演習させました」

深呼吸し、裁判官だけを見て、それ以外の他の誰とも目を合せないように――ペドロはハリソンそう伝えた。はっきりと話し、慎重に急がずに話し、自分が言わなければいけないことを言う。それですべて大丈夫だとペドロは教えた。

彼女はその通り実行した。彼女は法廷の正面までまっすぐ歩いて行き、「自分が囚われの身だったと感じた」と裁判官に証言した。不安が急激に増し、毎日一つ一つのことにどれほど恐怖を感じているか、そしてもう鏡で自分自身を見られないと話した。

ドイルには、外国での不法な性行為で自身の有罪を認め、禁錮10年の判決が言い渡された。

ロンドンオリンピック女子柔道78キロ級準々決勝でハンガリーのヨー・アビゲールと闘うハリソン

ハリソンはいつも、ジムで稽古しているか、どこかでトラック上を走っている。

彼女が出廷してから8年以上が経った。それ以来、彼女は中西部から移動し、マサチューセッツ州を拠点にした。そこでペドロとハリソンの父ビッグ・ジムが世話することになった。

これは容易ではなかった。「一緒にいた最初の数カ月間、彼女は自尊心、自信、他人への信頼をすべて失っていて、自殺しようかと考え続けていた」と、ペドロはハフポストUS版に語った。

しかしペドロとビッグ・ジムは、彼女が新たなルーティンを確立できるようよう支え続けた。彼女に心理療法を受けさせ、健全なトレーニングのリズムを付けさせ、再び「通常の」感覚を取り戻させた。これはすぐにできることではなく、長い時間がかかった。

やがて彼女は日常生活で通常の感覚を取り戻した。そして再び畳の上で彼女の優れた才能が発揮されるようになった。ハリソンの柔道はすぐに向上した。国際タイトルを次々と獲得し、2012年のロンドンオリンピックで金メダルを獲得した。

ハリソンが金メダルを獲得した瞬間

彼女が今、取り戻そうとしているものがもう一つある。

リオオリンピックを目前にして、ハリソンは週に6日、1日に2〜4時間稽古している。いつも彼女は、トラックをもう1周し、さらにもう1周しようとしている。そうすることにより、わずか数週間後に、オリンピックアリーナの試合会場から退場する時、自分が全力を尽くしたことがわかるようにするためだ。

目標はもちろん表彰台のトップに上がることだが、ハリソンは2016年のオリンピックに参加しすることで、さらに大きな仕事が後に続くと認識している。彼女の旅の次章は、畳から離れたものになるだろう。彼女の大きな仕事とは、性暴力サバイバーの汚名を払拭し、性暴力に関する一般への啓蒙と、サバイバー同士をつなぎ、彼らに力を与える財団の設立だ。

「性暴力は、誰にも話したくないし、考えたくないし、聞きたくないことです。しかし、これはいつでも起きているのです」と、ハリソンは語る。

彼女の言っていることは正しい。アメリカ司法省によると、4人の少女のうち1人、6人の少年のうち1人が、18歳に達するまでに、性的虐待を受けているという。

「私には受け入れられないことです」と、彼女はゆっくりと話した。「この数字を変えたくない人々がいる世界に、自分が住んでいるなんて理解出来ないし、想像することも出来ません。だから私は変えたいのです」

ハリソンは、子どもの頃の性的虐待に対処する広域の組織がまったくないことがわかっていたので、2012年のロンドンオリンピック後、被害者と支援システムのための「フィアレス財団」を始めた。性的虐待とはどういうことで、その具体例に関して、子どもたちに教えるための教材はあまりない。ハリソンは心理学者の協力を得て、自分自身の体験を教材として使ってもらうため、本を書き始めた。そしていつの日か、性的虐待のテーマが授業で取り上げられることを望んでいる。

そしてハリソンはプロジェクトを次の段階に進めようとしている。被害者が心の闇から逃れるために必要なものを手にし、虐待された後でも明るい未来を見出すことができる、プログラムとネットワークづくりだ。彼女は子供が編み物をしたり、絵を描いたり、柔道をしたり、アーチェリーをしたり出来る安全な空間をつくりたいと思っている。それは、「彼らが自由に行ける場所、子どものままでいられる場所」だと彼女は考える。これはハリソンが子供の頃に失ってしまったものだ。

ハリソンはまた、地元の検察官の名前や電話番号、支援センターの所在地、セラピストの連絡先といった情報を、性的虐待の被害者に提供するサイトを立ち上げたいと考えている。これは、10年前に彼女が感じた閉塞感や無力感を、性暴力サバイバーたちが感じなくて済むようにするためのものだ。

「今まで自分がしてきたことが、より大きく、より良くなってほしいのです」と、彼女は説明した。

自分が何をしても、失うものがあっても、畳の上で試合や稽古中に何かが起きても、自分がこれまで経験してきたことより、つらいものは絶対にない――ハリソンが今までの自分と今後について話す時、彼女の苦しみから生まれた彼女ならではの考え方が明確になる。これは、自分の強さだけでなく弱さも見せるというだ。いつも全力投球する一方で、深呼吸して一息つく。それは同じくらい価値があるという考え方。だから、泣き言だって言ってもいい。ハリソンはそんな自分を素直にとらえ、時々そうしている。

これまでの20年の選手生活を振り返ると、彼女は柔道のおかげで、数え切れないほどの国に遠征し、オリンピックに出場し、そして地獄を見てきた。だからハリソンは、オリンピックの聖火の先にある光を見据えている。自分の過去をいつわり、暗闇の中で暮らすつもりなどない。

彼女はリオで闘うモチベーションを高めるために、自分が直面してきた苦しみに向き合う。そして、10年間故郷と呼んできた場所、マサチューセッツにあるペドロコーチのジムに戻れば、性暴力被害への認知を高め、擁護するキャンペーンのきっかけとして、自分が苦しんできた歩みをを活用するつもりだ。

「私の集中力と精神的な強さは、相手と闘う上での私の最大の強みです」と、ハリソンは語る。「私にはわかっています。何をしても、失ったものがどんなに良くないものでも、そして畳の上での試合や稽古中に何が起きようとも、これまで経験してきたことよりも、つらいことなんてないんです」

「私には、すでにどん底まで落ちた経験がある。そしてすでにどん底にいたことがあるのです」と、彼女はいう。「これよりもっと悪いことなんて、?

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