フェンシング男子フルーレ個人の太田雄貴選手(30=森永製菓)は、7日夜(日本時間)に登場したが、まさかの初戦負けに終わった。4度目のオリンピック出場となり、日本フェンシング界悲願の金メダルを狙っていたが及ばなかった。サンスポによると「こんな幕切れとは思わなかった」と話し、現役引退を表明。最後に、ピスト(試合会場)を触ってその場を後にした。
スポニチによると、
2回戦から出場した太田は、初戦はギレルミ・トルド(ブラジル)と対戦。序盤から互いに一歩も譲らない展開が続くも、地元の声援を受けたトレドの攻撃に苦しみ10―12で第1ピリオドが終了。
第2ピリオドで巻き返しを狙ったものの、結局13―15で初戦負けとなった。
サンスポによると、試合後にピストを触った理由について問われると、「4回もあの場に立てたのがうれしかった。感謝の気持ちしかない。五輪にここまで育ててもらった。取れなかったけど金メダルを目指したからこそ、今日の僕がある。五輪にめちゃくちゃ感謝している」と話したという。
■太田雄貴、どんな選手?
日刊スポーツによると、8歳だった94年、元選手の父義昭さんから「スーパーファミコンを買ってやるから」と誘われて競技を始め、それから毎日が練習の日々となった。平安高校時代には史上初のインターハイ3連覇を達成した。
五輪はアテネに初出場し、北京では個人、ロンドンでは団体の銀メダルを獲得している。そして、2015年7月にモスクワで行われた世界選手権・男子フルーレで金メダルに輝いた。オリンピック、世界選手権を通じて世界一となったのは、個人、団体を通じてこの時が初めて。日本フェンシング史上でも初の快挙だった。
競技後のインタビューでは、日刊スポーツによると、「人生の最後の世界選手権になるかもしれないと思って挑んだ。最後の最後でこうやってタイトルを取れて本当にうれしい。次は(2016年に)団体でのリオ五輪の金メダルをみんなで分かち合いたい」と話していた。しかし、リオ五輪では団体戦出場は逃し、個人のみの出場となっている。
■フェンシングをメジャーに
2008年に同志社大学を卒業後、北京五輪に集中するため、就職先を決めずに競技に専念していた。北京五輪で銀メダルを獲得した際のインタビューで「就職先募集中って書いておいてください」と語ったことで大きな話題となり、「ニート剣士」などのあだ名で呼ばれたこともあった。
日刊スポーツの当時の記事によると、マイナー競技のためスポンサーが付いておらず「フェンシングでは食っていけない」などと話していた。しかし、太田の活躍で一躍注目の競技に。
「就職先」には、その後多数のオファーがあったが、高校時代からサポートを受けていた森永製菓に2008年に入社し、現在も正社員となっている。
さらにフェンシングをメジャーにするために、2012年にはフェンシング普及を目指し学校などを太田選手が訪問する団体「SUPER FENCING」を立ち上げた。公式サイトでは「一人でも多くの人たちに、フェンシングを「生」で観ていただき魅力をつたえたい。一人でも多くフェンシング人口を増やしたい」と思いを綴っている。
■東京五輪招致にも尽力
2020年の東京五輪招致活動にもアンバサダーの一人として尽力。2013年9月に行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会の最終プレゼンテーションにオリンピアンの代表として登壇し、「日本の文化とテクノロジーが世界中の若者をスポーツに導きます」などとアピールし、招致を勝ち取った。その後、一年以上の休養を経て復帰していた。
NHKニュースによると、リオ五輪については、「見る人に何かを訴えかけられるような試合ができればいい。金メダルという目標だけを見つめて頑張っていきたい」と、悲願の金メダル獲得への意気込みを話していた。
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