山崎ナオコーラさんが『美しい距離』で描く死生観 がんの父の看病経て...「気を遣わせてもいいじゃん」

「コーヒーを飲むのと同じくらいの軽さで、人が死ぬような話を書きたいと思いました」

「コーヒーを飲むのと同じくらいの軽さで、人が死ぬような話を書きたいと思いました」

喫茶店の一番奥の席で、コーヒーを前に作家・山崎ナオコーラさんは淡々とそう語った。

2016年上半期の芥川賞候補にもノミネートされた『美しい距離』(文藝春秋)は、余命わずかな妻と、入院中の彼女を介護する夫の日々を描いた小説だ。夫婦はともに40代前半、子供はいない。「延命治療をしない」と決めた妻に、夫は静かに、けれど内心ではさまざまな違和感や葛藤を抱えながら寄り添い続ける。

病院で生まれ、病院で死んでいくことは本当に不自然なことなのか? 死を前にした人間は誰しもが「家族だけで過ごしたい」と願うのが普通なのか? 成熟した現代社会における生と死のかたち、家族や他人との関係性について、山崎ナオコーラさんに話を聞いた。

■流産、父の病気、出産を通して知った「病院のあたたかさ」

――『美しい距離』は「一昨年がんで亡くなった父のおかげで書けた小説」とTwitterで発言されていました。

父が病気のあいだ、4カ月くらい毎日病院に通っていたのですが、父のひげを剃ったりマッサージをしたり、歯磨きをしたりといったお世話をするのが妙に楽しかったんですね。当時は私自身、あまり仕事がうまくいってなくて。小説が書けなかったんです。パソコンの前に座ると、ダラダラと涙が出てきてつらくて書けない。スランプみたいになっていました。

ちょうどそんな時期だったので、父のひげを剃ったりするのがすごく楽しくて。こんな風に、父のお世話をする毎日が続いたらいいのになぁと思っていました。

――お父様の入院生活も含め、山崎さん自身もここ数年は病院に縁があったそうですね。

まず私が2年前の35歳のときに流産して、それから父の病気があって、その後にまた私の妊娠・出産があったので病院にはすごく縁がありましたね。出産のときも前置胎盤で2カ月くらい入院してから帝王切開で産みましたし、『美しい距離』の原稿のやり取りや打ち合わせも編集者さんに来てもらって病院でやりました。そういった中で、病院ってそんなに悪い場所じゃない、っていうのはすごく思いました。

実際、医療関係者の人たちは皆優しかったし、病院ってすごくあったかい場所だなと私は感じたんです。太古の昔は家族だけで子供を産んだりしていたんだろうけど、現代では病院に行けば看護師がいろいろしてくれるし、お金を出せばすごく遠くの人からの援助も受けられるし、保険制度があるから親族ではない人とも助け合える。だから家族がどうだって言うことに、こだわらなくても全然いいとも思っていて。

■家族と同じか、それより深く「遠くの人」とつながれる時代

――有名人の訃報を伝える報道では、「死の瞬間」を「家族に看取られたか」など最期のときに焦点を当てた報道が多い印象を受けます。『美しい距離』ではそんな死にまつわる世間の思い込みと当事者たちの感情のズレが描写されていますね。

病院はあたたかい所だし、保険もあたたかいもの。今は社会が成熟してきたおかげで、どんどん「遠い」人とも関われるようになってきている。距離や関係が遠い人だからと「冷たい」印象を持つ時代ではもうないんだと思います。今の社会はそういう素晴らしいものになってきているから、家族だけで生死を共にしなくてもいい時代なんだ、っていうことを『美しい距離』では描きたかったんです。

でも死が近づく状況になると、つい夫と母はどっちがより近いのかとか、自分の方が近寄りたいとか、誰が(死にゆく人に)近い存在なのかっていうことを思ってしまう。お焼香をあげるときに「お近い人から」と言われ、じゃあ誰が一番近いのかって考えてしまう。本当はどうでもいい、近くても遠くてもどっちでもいいことなんですけどね。

いちいち考えてしまうのが人間なのかもしれないですけど、今はもう「(関係性が)近くなくてもいいんだ」っていうことを肯定される時代が来ていると思います。

――お金というツールやSNSを通じて、距離や関係性が「遠い」人とつながれる社会になってきている、と。

たとえば、私には夫がいますけれども、彼は私の小説をそんなに理解していないと感じるんですね。でも遠くにいる読者はすごく理解してくれる。だから私は夫と同じくらいに、遠くの人のことを信じられる感じがするんです。世界はどんどんフラットになって、家族と遠くの人が同じくらいの重さになってきている。

だから今はすごくいい時代だと思います。お金やインターネットを使えば、みんなが近くても遠くても同じくらいの重さの人間関係が作れる時代になってきているから。

■病気の話をして「人に気を遣わせてもいいじゃん」

――小説の中で妻が最期まで「仕事相手と会いたい」「元気がなくても社会と関わりたい」ときっぱり言い切る姿も新鮮でした。

私の感覚だと、多分7、8割の人が家族よりも仕事を死の間際に考えるんじゃないかなって思うんです。私自身が多分そうだろうな、と思うし、自営業だった父もギリギリまで仕事のやりとりをしていたので。父自身も家族が大事だという気持ちもあったと思うんですけれども、一方でギリギリまで仕事の人とつながっていたがったようにも見えた。

病気になったときの父は、「弱っている自分の姿をあまり人に見せたくない」と思っていたようなんです。それも仕方ないなとは思ったんですけれども、もし私ががんになったとしたら最期まで人に会おう、とも思った。痩せた姿で人に気を遣わせるかもしれないけれど、気を遣わせていいじゃないか、って。

私が流産したときも「家族だけで受け止めたほうがいい」みたいな空気が周囲にある気がしたんですね。流産の話は、身近な人にだけ話すのが良い。そういう考えを否定するわけではないんですけれども、私はそうは思わないなぁって思った。全然関係ない人とも流産のことを喋りたいし、流産の意味を知らない人にも話した。空気をちょっとぐらい悪くしてもいいじゃん、人に気を遣わせてもいいじゃん、って。

子供を帝王切開で産んだときも同じように思ったんです。手術で産むからといって冷たいイメージなんかなくて、「病院の人ってあったかいじゃん!」ってすごく思ったんですね。子供の誕生日が医師や看護師の都合で決定されるのだってそれで全然いいじゃん、って。

■死もコーヒーも等しく表現したい

――気を遣わせてもいい。人とつながっていたい。現代は、お互いを受け入れ許容しあう社会であってもいいと。

決して、畳の上で死ぬことが幸せで、病院で管につながれて死ぬことがかわいそうなわけじゃない。だからさっきの話にもつながるんですけど、遠くの人も家族も同じくらいの重さになってきているから、死の間際だけ急に「家族だけで過ごしたい」となるわけがないと私は思うんです。昔は寿命も短かったし、結婚年齢も早かったから、家族同士で優しくしあわなきゃ生きていけなかった。

でも今は社会が豊かになっているから、友達や仕事相手にも一生懸命になれる感情の余裕や時間がありますよね。家族同士の強固な絆と、遠くの人との淡くて儚い関係。どっちも良くてそこに優劣はない。儚い関係性の人にも一生懸命になっていい時代になっているんだなと思います。

『美しい距離』に限らず、私の書いた小説が「死を軽く描いている」と批判されることがよくあるんですけど、「いやいや、軽くていいんだ」って私は思うんです。コーヒーを飲むのと同じ軽さで人が死ぬような話を書きたいと思った。人物像を深く掘り下げることだけが人間を描くっていうことじゃないと思うし、すごくあっさり淡く書いても「人間を感じるね」くらいの面白さが出ると嬉しいなと思っています。

『美しい距離』(山崎ナオコーラ)

(取材・文 阿部花恵)

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