イギリスの5ポンド紙幣に登場したウィンストン・チャーチル、その知られざる5つの真実

チャーチルのあまり知られていない5つの事実をご紹介しよう。

プラスチック製の新5ポンド紙幣。

イギリスでは9月13日から、プラスチック製の新5ポンド札の流通が始まった。

プラスチックの新札は破れにくく、水や汚れにも強くて偽造が難しい。イングランド銀行のマーク・カーニー総裁がロンドンの屋台でカレーの鍋に新札を浸しても大丈夫だった。

新札の表面はこれまでと同じくエリザベス女王。裏面は19世紀の女性社会活動家エリザベス・フライから新たにウィンストン・チャーチル元首相に変わった。

総理大臣、英雄軍人、著名な雄弁家。ウィンストン・チャーチルはさまざまな歴史の場面で記憶されているが、その輝かしいリストに、新5ポンド札の顔という栄誉がもう一つ加わった。

ここに敬意を表し、チャーチルのあまり知られていない5つの事実をご紹介しよう。

1.アメリカ合衆国の名誉市民に初めて選ばれた。

1952年1月5日、チャーチル首相(左)とアメリカのハリー・トルーマン大統領がワシントンD.Cでヨット「ウィリアムズバーグ号」に乗る

1963年、チャーチルは初めてアメリカ合衆国の名誉市民となった。当時のジョン・F・ケネディ大統領から与えられた。合衆国の名誉市民にはこれまで、ペンシルベニア植民地を建設したウィリアム・ペンやマザー・テレサなど、7人に授与されている。そのうち、生前に授与されたはチャーチルとマザー・テレサだけだ。

2. チャーチルが描いた絵画は数百万ポンドの値がつく

カイロのピラミッド。

チャーチルは多数の絵画と著作を残し、1953年には「チャーチル本人の、あるいは彼の執筆した歴史的伝記的描写の完成度や人間の高貴なる価値観を擁護する優れた叙述」によりノーベル文学賞を受賞した。

チャーチルは、鬱々とした政治の出来事から逃れ、自分の文学・芸術作品の中に安息の地を見出していたのだった。

「チャートウェルの金魚の池」。

2014年、上記の絵画「チャートウェルの金魚の池」は180万ポンド(約2億4500万円)という巨額で競り落とされている。

3. 「鉄のカーテン」という言葉を生んだのは彼ではない。

1946年3月5日、フルトンのウェストミンスター大学で講演するチャーチル

この言葉は第2次世界大戦終結(写真上)の年に、東欧にソビエト連邦の影響力が拡大することにについて懸念を表明するチャーチルのスピーチからのものとされる説が多い。しかし、この言葉はナチス政権の宣伝相ジョセフ・ゲッベルスがドイツ敗戦直前に書いた論文のなかですでに使っている。

1945年2月5日の号で、ゲッベルスは以下のように書いている。

「もしもドイツ国民が武器を置けば、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの間での協定(ヤルタ会談)通り、ソビエト連邦はライヒの大半と東ヨーロッパ・東南ヨーロッパ全域を占領することになる。この膨大な領土には鉄のカーテンが下ろされ、ソビエト連邦に支配され、カーテンの陰では配下の国々が皆殺しになるだろう。ロンドンとニューヨークのユダヤ系報道機関はそれでもなお拍手喝采していることだろう」

4. 発話障害だった。

1944年、アルバートホールにてアブラハム・リンカーンの大きな写真を前に演説する。

歴史に名を残す最も優れた雄弁家とされているにもかかわらず、チャーチルは幼少時代ずっと舌足らずな話し方だった。

チャーチルが捕虜収容所から逃亡した時(5番目を参照)、チャーチルの捕獲者たちが彼の釈放を求めて提出した通知書にはこう書かれていた「長時間にわたる会話の間、彼は度々喉の中でガラガラと音をさせる」

チャーチルは1897年、発話障害を克服するため、著名なセラピスト、フェリックス・シーモン卿に助けを求めた。シーモン卿は後日こう語ったと言われている。「未だかつて会ったことがない極めて風変わりな青年に出会いました」

5. 捕虜収容所から逃亡した。

ボーア戦争中モーニング・ポスト紙の戦争取材員として南アフリカにいたチャーチル。

チャーチルはさまざまな職業を経験したが、彼は収入を補う手段としてさまざまな出版社の戦争取材記者を務めていた。

1899年にオールダム選挙区から国会議員に立候補したが落選したチャーチルは、南アフリカでオランダ系住民(ボーア人)と植民地争いをした第2次ボーア戦争の取材を委託され、月給250ポンドというかなりの高給を稼いだ。当時の250ポンドは、今日の貨幣価値で2万9000ポンド(約395万円)に相当する。

取材遠征のために武装列車で移動中、ボーア人の奇襲部隊が線路に岩石を置き、衝突した汽車に火を放った。

当時25歳だったチャーチルは捕虜となり、捕虜収容所に抑留された。

チャーチルは他人から命令されるタイプの人間ではない。彼は1週間後、壁を飛び越えて逃亡した。「昼間は隠れ、夜間に歩き、食べ物を盗み、小川の水を飲み、貨物列車にこっそり乗せてもらいながら」モザンビークまでたどり着いた。

ハフポストUK版より翻訳・加筆しました。

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ウィンストン・チャーチル

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